ある冬の日
時系列でいうなれば、これはまだ二人が王都へ到着するよりも前の話――
まだ雪が少しばかり残っている、冬の終わり頃。
その日、王都イルフェヌアに閃光が迸った。
それはまるで稲光のようではあったが、遅れて音が轟く事もなくほんの一瞬、だがしかし確かに鮮烈に夜空を切り裂いた。
音がしたならば、きっと王都に住む住人の何人かは何事かと外に飛び出ていたことだろう。しかし無音のまま迸った閃光は、幸いな事に目撃者などほぼ出る事もなく。
どさり、と小さな音を立てて、そこで終わった。
「我が主を狙ってきた割にその程度か?」
地面に倒れぴくりとも動かないそれに向かって、冷ややかな声が降る。
「ぐ……おのれ……従者……貴様わざと……」
「無論、主の手を煩わせる必要がないからな」
何とか顔だけでもこちらへと向けようとしているらしいが、僅かに藻掻くだけで終わる。声に滲んでいたのは怒りと焦燥、そして悲しみ。
はぁ、はぁ、と荒い息を吐いて、どうにかして少しでも動こうとしているらしいが、動いたのは僅かに指先だけだった。
「くそ……従者が有能だったか……」
「何を言っている。自分より弱い主に使える従者がいるはずもないだろう。貴様の敗因はただ一つ、あの方を見誤った、ただそれだけだ」
体は動かないくせに口だけはよく回るものだな、と呟かれた言葉に、頭の中が沸騰するような感覚。
嘲りが含まれていたならまだマシだった。しかしその言葉には何の感情も込められてはおらず、だからこそ余計に惨めだった。
泣くつもりなどありはしなかった。けれど、自分の意思に反するように涙が零れ出ていた。
悔しい! 悔しい!! 勝てると思っていた。けれど勝てなかった。それどころか手も足も出なかった。これほどまでに実力差があった事すら気付けなかった自分の弱さが、ただただ悔しい!!
眷属でもある影人形たちはほぼ壊滅。自らの身体も最早ほとんど動かせない。
ここで、こんな所で自分は終わってしまうのか……!?
いっそ、従者ではなく主の方に負けるのであればまだ納得できた。それならばここで朽ちても仕方がないと思えた。まだだ、まだ死ねない。
ぐっ、と無理矢理身体に力を入れる。ぐぐぐ、と指先が地面を掻いた。爪の中に雪混じりの土が入り込む。怪我のせいで熱をもっているせいか、熱いのか冷たいのかわけがわからなかった。
ぼろぼろと零れ落ちる涙が熱い。けれども吐く息は白く、倒れている事もあってか身体からはどんどん熱が失われていくようだった。
まだだ、まだ死ねない。
死ぬにしても、せめて最後にこいつに一撃喰らわせてからじゃないと、死ねない……!!
先の事など知った事か、今ここで、せめて一撃入れなければ。何もしないまま死ぬなんてそんな犬死、誰が認めても自分が認められはしない……!!
ぐっ、と力を入れる。しかし次の瞬間、更なる力を込めて握りしめようとしていた土の上を手が空振るように滑った。
「――!?」
「その身を維持する事すらできなくなったか」
頭上から声が降る。
握りしめていたはずの雪混じりの土は、既に手で握りしめる事ができなくなっていた。この手じゃ何も掴めない……! 寒さだけは緩和されたが、身体の痛みが消えたわけでもない。ぐっとその身を無理矢理にでも動かして、何とか起こす。先程とは違い前足を使う事によって、何とか立ち上がる事ができた。
立ち上がる事はできた。できたけれど……
「………………」
この状態じゃ一矢報いるにも無理がある。せめて死ぬ覚悟で一撃入れようと思っていたが、この状態ではそれより先に薙ぎ払われるか振り払われるかすれば終わる。
それどころか、向こうが攻撃をしようとすればすぐにでもこの身は朽ち果てる事だろう。
しかし攻撃をしようという気配がない。どういう事だと思いながらも顔を上げる。
どれだけ冷ややかな眼差しでもってこちらを見下ろしているものかと思ったが――
彼は、既にこちらを見ていなかった。酷くつまらなそうに手にした荷物を抱えなおしている。
トドメを刺すタイミングを見計らっているならまだ良かった。けれども、それ以前の話だった。既に奴の視界に自分など入れる価値もないのだと態度で示され――怒り、悲しみ、絶望、憎しみ、そういった感情が胸の中で暴れまわる。弱い自分が悪いのだと思おうにも、心が納得しなかった。
そこまでか、それほどまでにお前にとっての自分は、トドメを刺す必要すらないという事か!
叫びたかった。問い詰めたかった。せめて最期の瞬間くらいは、一目視界に収めるくらいはするだろうと思っていた。それが戦って負けた戦士に対する流儀だろう!? それを、それを!! 最早どうでもいいとばかりに視界から外し、トドメを刺す事すらなく、あとは勝手に野垂れ死ねとばかりの態度。
どこまで、果たしてどこまで馬鹿にされるのだろう。これでは自分は道化ではないか……!?
詰め寄り、言い募ればあるいは、希望通りトドメを刺されただろう。けれどこんな終わり方など――認められるか!
仮にここで死んでも、こいつの中に自分は残らない。何も残らず、残さず死ぬのは駄目だ。
だからこそ、最後の力を振り絞り襲い掛かるのではなく――背を向け敗走した。逃げる事しかできないのは惨めだった。屈辱だった。
逃げ出した事に気付いているだろうに追いかけてこようとしない。気配はそこに留まったままだ。そんな価値すらないと言われているようで、その程度でしかなかった自分に最早怒りしか沸いてこない。
くそ、くそ! いつか、次こそは! 力を蓄えて目にもの見せてやる!!
強く心に決意を刻み、ひた走る。行先は決まっていない。ただ、とにかく休める場所を目指すのみだ。
「――終わったか」
「我が主。わざわざこちらに出向いたのですか?」
逃げ去ったその背を見送った直後に声がかけられる。
誰が声をかけてきたかなど、問う意味がない。当然のようにそちらを向いて、紙袋を抱えたままであったがその場にすっと膝をついた。
「わざわざ跪く必要はない。そうして汚れた服を、一体誰が洗うと思っているのだ。やらないぞ」
「勿論それはわたしが」
「……どうせ自分で洗うから汚しても構わない、という考えもどうかと思うが」
呆れたように言ってはいるが、その実本当に呆れているわけではないのだろう。主と呼ばれた青年の視線は、先程の交戦相手が逃げ去っていった方を向いていた。
「……追って始末しますか?」
「いや、いい。あれが力をつけて再びこちらにやって来たとて、結果は変わらない。勝ち目もないのにすぐさまやってくる程愚かではないだろうし、勝てると思えるまでに力をつけようとするならばもう見る事もないだろう」
「こちらの実力を見誤る程度には愚かだったので、またすぐにやって来るかもしれません」
「その時は今度こそ仕留めるのだろう? レェテ」
あまりにも当然のように言われて。
「勿論、我が主の望むままに」
レェテと呼ばれた青年はやはり当たり前のようにそう返した。
その言葉に、レェテが主と呼んだ青年はふっと微笑む。
「そうか。ならばさっさと帰りましょう。いやホント、これ以上外に出てあいつらに目を付けられたらと考えると空腹すぎるわけでもないのに胃がキリキリするんですよね……」
「主……せめてもう少し体面を保ってくれませんか」
「無茶を言わないでください。僕にそういうの向いてないの、今ので充分わかったでしょう?」
先程までの泰然としていた態度は何だったのか、と言わんばかりに小声で言い募ると、彼は周囲を警戒するように見回し特に誰の姿も気配もしない事を確認すると、ほぅ、と小さく息を吐いた。
ふ、と見やる。
レェテと自分が呼んだ青年。
まるで月の光のような淡い金色の髪が、風に吹かれてふわりと舞った。先程まで戦って……いや、一方的すぎて戦いと呼ぶには少々アレだったが、あの相手に向けられていたアイスブルーの瞳はまるでこの冬の空気を具現化させたどころか凍土のような冷たさを湛えていたが、今はどこか仕方がないなぁとばかりに笑んでいる。
堂々とした立ち居振舞いは、むしろ彼の方こそが主ではないかと思える程で。
対する自分は、とつい視線を地面へと落とした。鏡があるわけでもない。近くに水溜まりがあるわけでもない。だからこそ視線を落とした所で自分の顔かたちがわかるものがあるわけではないが。
レェテは暗闇の中でさえ光を放つような存在だが、自分はどうだろうか。
闇に同化するかのような黒い髪。目の色はかつて母が紫水晶のようね、と言っていたからそれなりに綺麗な色なのだろうけれど。ひっそりと控え佇むくらいが丁度いいと思っている自分の方こそが、さながら従者のようだと思ってしまう。だというのに、まるで主以上に主らしく見えるレェテはこんな自分の事を主と呼ぶのだ。
つい先程襲い掛かって来たあいつだって、真っ先にレェテを狙っていた。
そうだろうな、とも思う。自分だってレェテの方が余程主らしいと思うくらいだ。
「…………早く、帰りましょう。あまり外にいたくはありません」
「お言葉ですが我が主、こもりきりも体によろしくありませんよ」
「えぇ、ですが……」
心の平穏は保たれます。
それを口にすることが許されるかはわからなかった。言えば叱責されたかもしれない。主たるものがなんと無様な、と。そこまでは言われなくとも、それに近い事を言われるかもしれない。想像しただけで気分がどこまでも沈んでいく。あぁ、だから外はイヤなんだ。
「…………仕方ありませんね。帰りましょうか、クロノ様」
言葉にこそしなかったけれど、言いたい事は何となく察したのだろう。レェテはそういうのを察するのがとても上手い。怒る事も嘆く事もせず、受け入れてくれた彼に、一体何度助けられた事だろうか。
「すっかり冷えてきましたし、早く帰ってご飯作りましょう」
「えぇ、仰せのままに」
ちょっと買出しに出ただけで、何だかとんでもない目に遭った気がする。
これだから外に出るのはイヤなんだ。
そう思いながらもクロノと呼ばれた青年は、とにかくひたすらに我が家へと足を急がせた。




