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第九話 辻井栄之助の密命 (2)

 翌日、辻井栄之助はいつものように早朝、旅籠を飛び出した。彼は毎日通っている、いつもの農家に出かけた。

 この農家には、仙吉という還暦の男が住んでいた。このあたりでは、裕福な本百姓だった。栄之助は草鞋を脱がすに、土間横の板の間に腰掛ける。そこには囲炉裏があり、目の前の土間には(かまど)が並んでいる。

 座敷の奥から出てきた仙吉はいつになく、焦っていた。


「ああ、辻井さん。実はあんたんところにこちらから伺おうかと思ってたんだ……」

「なにかあったのですか。まさか……」

「お探しの文左衛門がようやく旅から帰ってきたんだよ」

「ということは、今、ここにいらっしゃるのですか」

 栄之助は驚いて、土間に立ち上がった。

「いや、それがそうじゃねえんだ。確かに文左衛門は、昨晩、講の者と旅から帰ってきたんだがね。自宅に荷物を下ろして、一刻もしないうちにまたどこかに消えちまったんだ。村では神隠しに遭ったんじゃねえかとちょっとした騒ぎになってんだよ」

「消えた……」

 栄之助はそれを聞いて、真っ青になった。これはとんでもないことになったと思って、居ても立っても居られない心地になる。


 講というのは、同じ神仏を信仰している集団である。巡礼の旅などには、この講で資金を出し合うなどする。


「一刻も早く見つけださねば……。文左衛門さんが行きそうなところはどこか、ご存じですか」

「さあな。しかし、観音巡礼の旅から帰ってきたばかりなんで、ご近所に挨拶回りに出かけなきゃならねえはずだと思うのだが、そんなことしている様子もないからな。本当にどうしちまったんだろうな。村には見当たらないから、悪いけど、あんた、宿場の方で当たってみてくれねえか……」

「分かりました。仙吉さんも文左衛門さんが行きそうなところをできるだけ探してください」

「わかったよ」

 仙吉はそう言って、深く頷いた。

 

 辻井栄之助は、農家から飛び出すと、大急ぎで宿場の方に向かって走って行った。

「そんな血相変えて、どうしたの」

 後ろから声がして、栄之助は振り返った。そこには茜が一人で立っている。

「茜。どうも困ったことになった……」

「わたしに相談しなよ。昨日も言ったけど、わたし、力になるよ」

「そうだな。これは一刻を争うときだ。悪いが、俺と一緒に、文左衛門という男を探してほしい。一月ほど前に講の者と観音巡礼の旅に出て、昨晩、村に帰ってきたらしい。それが一刻ばかりして、姿をくらましてしまったらしいのだ」

「ふうん。じゃあ、あなたはずっとその男がこの村に帰ってくるのを待っていたんだね」

「そうだ。詳しいことは後で説明する。文左衛門は、重大な鍵を握っている」


 茜は、宿場を探しても仕方がない気がした。

「旅から帰ってきたばかりなんだから、きっと村の氏神様に挨拶に行ったんじゃないかな」

「そうかもしれないな。宿場に行く前にまずそちらに当たってみよう」


 茜と栄之助はそうと決めると、ふらふらと神社のある方向に歩いてゆく。

 こんな田舎の村にしては立派な神社である。朱色の鳥居が美しく、大きな池も流れている。鳥居をくぐると、民家ぐらいの大きさの本殿が見えた。


「文左衛門は信心深い男だったから、旅から帰ってきて、真っ先にこの氏神に挨拶に来たとしても不思議ではない。ここで神隠しに遭ったのか」

「これ見てよ」

 池の底に何かが光っている。美しい櫛のようである。こんなところに櫛があるのはおかしいと思って、茜は指をさしたのだ。

「どうした」

「こんなところに櫛があるのは変だよ」

「それもそうだな」

「文左衛門さんが旅先で、奥さんや娘さんのために買ってきたものかもしれないよ。ちょっとわたし、見てくるよ……」

 茜はそう言うと、着物が濡れるのも気にせずに、池の中に飛び込んだ。


「ここで何者かに襲われたのか……?」

 栄之助は顎に手を当てると呟いた。

 まさに、その時だった。

 

 鳥居をくぐって、笠をかぶった見慣れぬ顔の侍が三人現れた。紺色の羽織袴を履いている。

 三人は栄之助を取り囲むように立った。栄之助は身の危険を察知して、柄に手をかける。三人の侍は、それを見てにやりと笑うと次々と刀を抜いた。

「何者」

 栄之助は、そう言って三人の顔を睨み付ける。

「貴様ら、どこの手の者だっ!」


 と栄之助が叫ぶのと同時、三人が一度に斬りかかってきた。栄之助はダダっと踏み込んで、刃をくぐり抜け、ふたりの侍の間に入り込んだ時には、一人目の腹を横一文字に叩き斬っていた。

「うっ!」

 侍は酔っ払ったようにふらふらと震えると、突然、力を失ったようにその場に崩れ落ちた。

 ドサっと音が響いて、土煙が立った。


 残りの二人は、栄之助のあまりの身のこなしの素早さに恐れを為して、その場から逃げようとした。

 栄之助は武士の情け、逃げようとする者までは殺そうとしない。


 茜が水飛沫を上げて、池から飛び出してくる。逃げている侍の一人に手裏剣を投げつけた。手裏剣は一直線に跳ね飛んだ。侍は、首を斬られて、血を噴き出すと、神社の神木に抱きつくようにして倒れた。

 くノ一としては逃げる相手も残らず仕留めなければ、こちらのことが知られてしまうという意識がある。

 もう一人の侍は、もうすでに遠くまで走り去っていて、追いつくことができそうになかった。

(逃した、か……)

 茜は悔しく思って、唇を噛み締めた。


「一体、どこの手の者だろう……」

 栄之助が困惑したように言ったのにも無理はなかった。ふたりの遺体には身元を示すものは何もなかったのだ。生捕にすればよかったものの、咄嗟の判断で動いたので、その余裕はなかった。


 その時、茜はおやっと思った。わずかに境内の風の流れがおかしいと思った。それは気配を完全に消しているが、くノ一だからこそ察することのできる真空に漂う音のようなもの。

(一人、いる……。枝の上)

 茜は、死体を見下ろしている振りをしていたが、力を込めて一瞬のうちに、手裏剣を真横に投げた。その手裏剣はものすごい勢いで宙に跳ね上がり、松の枝をかすめて、天を舞った。

(当たった、か……?)

 松の枝から、大蛇が落ちてくるように、黒い影が降ってくる。

 しかし、それは落ちきる前に完全に気配を消えた。

(まずいっ!)

 茜は日本刀を抜くと、栄之助の前に飛び出て、一気に振り下ろした。

 その時、風よりも早く迫る影と一寸の距離ですれ違った。

 茜は、刀を振り下ろした状態で、静止していた。何かを斬った感触はない。今、すれ違ったものにはどこか懐かしい感覚があった。


(まさか……)

 茜が驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、くノ一の杏奈だった。



      「辻井栄之助の密命 (2)」完

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