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第八十話 茜の生きる道

 茜と三平が、江戸川にたどり着いた時、西の彼方に日が沈んできており、流れの緩やかな川は空の色を浴びて、赤々と光り輝いていた。

(あの人には何も言わずにゆこう。そうすれば悲しくならないから。あの人は侍、わたしは忍者、根本的に違うんだわ……)

 と昔宿場で栄之助に言われたことを思い出して、茜は一人悲しくなっていた。それなのに、茜は辻を折れ曲がり、こんな江戸川のほとりを歩き、あるところへと向かっているのだった。

(やっぱり最後に会いたい。でも、会えるかな……)


 茜が江戸川のほとりを歩いていると、土手に辻井栄之助の姿があった。夕暮れになると、いつもこの場所に栄之助が座っていることが多かったのである。


 栄之助は、茜を見ると、紋付きの羽織りをはためかして走ってきた。鯉沼藩の藩士として、日々真面目に働いているのがよく分かる。

「雫から聞いたぞ。これから奥州にゆくらしいな……」

 と何か物言いたげな様子であった。

「栄之助……」

 茜は、寂しげにうつむくと何と言ってよいのかわからなくなった。


「俺に何も言わずに旅立つのか……」

「違うわ。栄之助だって、宿場を去る時に何も教えてくれなかったくせに……」

 そう言ってから茜は、そんな恨みごとを述べたかったのじゃなかったのに、と自分を恥じた。


「すぐに戻ってくるよ……」

 と茜は小さな声で言った。

「きっとだな」

 栄之助は嬉しそうに微笑むと、茜の手をぎゅっと握った。茜は栄之助の顔を見上げて、頬に涙を伝わせた。もう会わないと決めたのに、そんなこと思い切れなかった。気がつくと、三平はどこかに姿を消してしまい、江戸川の土手にはふたりだけが残っているのだった。


「栄之助、わたし……」

「どうした」

「ううん、なんでもない。でもわたしたち、生きている世界が違うんだよね……」

 栄之助は、その言葉に思い当たる節があった。そして一瞬、悲しげな表情を浮かべたが、必死に首を横に振ると、

「茜、聞いてくれ。俺とお前は違うことなんてない。同じだよ。ただ進んでいた道があの時、寸分違っていただけのことだ。今の俺には、お前がいない未来なんて考えられない。だから、俺と一緒になってくれないか……」

「一緒に……? わたしたち、一緒になってもいいの。世の中には身分というものがあるわ。栄之助は武家の育ちだし、わたしは今や名もなき猿回し芸人なのよ」

 その言葉に惑わされることもなく、栄之助はじっと茜の瞳を見つめると、

「どうだっていいんだ。そんなことは。俺はお前のことが好きだ。それだけで身分の違いなんて気にしやしない。なんか言うやつは言わせておけばいい!」

 と言うと、愛しげに茜を抱きしめた。茜は、小さく頷いた。

「わたし、必ず戻ってくるわ。奥州で彷徨える霊魂を鎮めたら、必ずあなたの元へ……」

 そう言うと、茜は嬉しさに泣いて、栄之助の胸へと顔を埋めたのだった。


 日没の静寂の中に澄んでいる江戸川のほとりには、ふたりの人影だけが残されていた。



 そして、そこから見えている江戸城には、石垣ばかり残して、天守閣の姿はなかった。横堀の中はひっそりとして、ただ魚の躍る音が響くばかりである。

 江戸の街は今日も庶民の生活に明け暮れ、毎日が同じように暮れてゆくばかりであった。


 それから何百年という月日が夢のように過ぎて、江戸は東京となり、ビルが建ち並んで、何もかもが変わってしまったようだ。

 神仏も妖も目に見えないし、霊魂も眠っているかのようであるが、この街には今でも確かに茜や栄之助の気持ちが秘められていて、そうした祖仏たちが静かに息づき、(いにしえ)より人々の心を、今に伝えているのである……。






        『茜と雫・くノ一忍法伝』 完

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