第八話 辻井栄之助の密命 (1)
辻井栄之助の様子がおかしい、と茜は数日前から思っていた。
栄之助はいつも昼間はどこかに行ってしまう。どこに行っているのか彼は一向に教えてくれない。
夕方になって旅籠に帰ってくると、彼はひどく苛立っていて、茜がからかうような冗談を言うと、口を一文字に閉じて、自分の部屋に引きこもってしまうのだった。
茜はこの栄之助が何者なのか、いまだに知らなかった。
彼がどこかの藩の武士らしきことは分かっていたが、茜はこんな宿場に一月も逗留していられる役職を知らなかった。ただ剣術の腕は相当磨かれている。彼が只者でないことは明らかだ。
茜はある日、栄之助を尾行することにした。
栄之助は早朝に起きて、旅籠屋を飛び出ると、宿場の裏手に広がる一面の田畑の間を通って、野原で剣術の練習をしているようだった。
何も存在しない宙に向かって、日本刀を振り下ろす時の凄まじい気迫。
その様子を見ていると、まるで誰かとの決闘を控えているかのようだ。
(やっぱり、栄之助にはなにか事情があるな…….)
と茜は、草むらの中に隠れ、様子を覗きながら思った。
栄之助は、しばらくして田畑の中を歩いて行った。茜は音も立てずに、気配を消して彼の背中を追いかけた。しばらくゆくと一軒の農家が見えてきた。
(ここは……)
栄之助はこの家の主人と顔なじみのようだった。土間に入って、しばらく話をすると、栄之助はお礼を言って、その農家から出てきた。
栄之助は、ふとあたりを見回した。
「誰かいるな」
栄之助はそう呟くと、血相を変えて、草むらに走り込んできた。茜は驚いて飛びすさった。栄之助は茜の顔を見て、なんだ、と呆れた表情を浮かべた。
「どうしてこんなところにいるんだ」
「いやぁ……」
「まさかこっそりついてきたのか」
栄之助はさもつまらなそうに言うと、茜をきっと睨みつけた。
「馬鹿な真似はやめろ。これは俺の仕事だ。お前には関係のないことだ……」
「そう感情的にならないでよ。なにか悩んでいる様子だったから、ちょっと心配になってさ」
と茜は弁解する。
「そんなことはいいんだよ、茜。俺は武士だ。自分の仕える御家のためならば、いつでもこの身を投げ出す覚悟でいる。それが当然のことなのだ。しかしお前は、このことと一切関係のない人間だ。あまり首をつっこまんでくれ……」
そういうと栄之助は、踵を返して、野山の広がる方向に歩いて行った。
「栄之助。わたし、あなたのこと好きだよ。何度も助けてくれたしね」
「何を急に言い出すんだ……」
栄之助はどきりとして振り返った。
「だからさ、わたしはもうあなたと関係のない人間じゃないってこと。あなたが何か背負ってるんなら、わたしも背負わなきゃなって思うんだ。落武者の源六の時だってさ……」
「俺はお前の助けを必要としていない。これだけはきっぱり断らせてもらう」
「頑固だなぁ」
茜は、そう言いながら栄之助の背中について歩いた。
野山の谷あいに美しい小川が流れていた。栄之助は、川辺に立ち止まるとその流れをじっと見つめている。
「茜。お前の気持ちは分かったよ。ありがたいさ。だけどな、これだけは分かってくれ。俺はな、お前を危険なことに巻き込みたくないんだよ」
「わたし、くノ一だから戦えるよ」
「くノ一か……」
栄之助は深くため息をついた。
「くノ一だろうがなんだろうが、俺はお前にだけは死んでほしくないんだよ……」
「えっ」
栄之助はそう言い残すと、茜をおいてどこかにさっさと歩いて行ってしまった。
茜は、栄之助の「お前にだけは死んでほしくないんだよ」という言葉が若干、引っかかっていた。いつまにか自分は彼にとって特別な人間になっているのかもしれない。
(考えすぎか……)
茜は赤面すると、気分を変えて、宿場にある補陀落山金剛寺に向かった。
金剛寺の山門には、相変わらず立派な金剛力士像がそびえている。
茜は一度、老僧に面会して、妖について相談しようと思っていたのだ。
茜は、若い僧侶に本堂に案内され、丈六の不動明王像を拝んだ。
鬼に似たその顔はいかにも恐ろしく、憤怒の表情を浮かべ、片目を閉じている。青黒い体が醜く太っている。それが不動明王の外見の決まりであるが、こうして目の前にすると神妙な気がして、美しく思えてくる。
「茜さん、お待たせしましたの」
不動明王に見入っている茜のもとに老僧が現れた。老僧はすぐに、茜を本坊にある座敷に案内した。
茜が訳を話すと、老僧はフフフと笑い声を漏らし、語り始めた。
「なるほど。茜さん、あなたの気持ちはわしにもよく分かる。妖というものは本来このような頻度で出現するものではない。ところが、君はこの宿場についてから実に多くの妖に遭遇した……」
「そうです。それにこの宿場には、常に妖気が漂っているようです。ところが、わたしはいまだにこの強烈な妖気の根源を掴めずにいるのです。和尚さん、なにかご存じでしょうか?」
「東照大権現が、この天下を平定してから二百年という月日が過ぎた。しかし、この世はまた傾いてきおったということじゃよ。不吉なことじゃ」
東照大権現というのは現在、日光東照宮に祀られている徳川家康のことである。
「そうなると妖が出現するようになるのですか」
「うん。なんと説明すれば良いのじゃろうな。この国は一つの生き物のようなものだ。それが病にかかると至るところに腫瘍が現れる。異変が起こる。実のところ、この国が末法になってからもう久しいのだが、神仏の法力によってきわどく保たれて、安定しておったのじゃ。その安定が崩れれば、至るところに妖が出る、悪霊が取り憑く。天変地異もこの現れだ。反対に、神仏の力は弱まる……」
老僧はそう言うと、立ち上がって小堀遠州風の日本庭園をじっと眺めた。
「この宿場はそのひとつだとおっしゃるのですか」
「さよう」
老僧は、どこか不吉な気を身にまとっているようだった。
「忍びは仏の印を結ぶ。神仏の力によって、幻術を使う者なのだ。茜さん、よく神仏に帰依することだ。神仏もまた零落すれば、妖となる。怨霊も祀れば神だが、祟れば悪霊じゃ。神仏といえども妖と紙一重、妖も清浄ならば神仏といえよう……。忍びが法力を我がものとすれば、これによって悪を調伏することができよう。しかし、妖や悪霊に取り憑かれれば、すなわち己も妖となる……」
老僧はそう言うと、ケラケラ笑って、茜にくれぐれも気をつけるように告げて、座敷を出て行った。
茜は再び、本堂に戻ると、不動明王像を前にした。不動明王は憤怒の表情を浮かべている。
「忍びは仏の印を結んで、幻術を使う」
茜はぼそりとつぶやいた。
(そうだ。あの老僧が語ったとおり、わたしはこの神仏の法力でもって、幻術を使い、この国の病、悪を調伏するんだ……)
茜は、清浄なる心で、不動明王の真言を唱えた。
その時、不動明王の閉じた片目から一滴の慈悲の涙が流れ落ちたことに彼女は気がつかなかった。
「辻井栄之助の密命 (一)」完