第七十七話 ユズナと萩姫
将軍徳川家斉に取り憑いていた病魔の如き妖は辻井栄之助に成敗され、江戸城には、本物の徳川家斉が戻ってきた。ようやく江戸に平和が戻ってきたのである。
それと時を同じくして鯉沼藩でも、本物の松林辰影が戻ってきて、御家騒動が落着したのである。その松林辰影が一番先に心配したことは愛娘、萩姫の安否であった。
ユズナの正体は萩姫であった。しかし萩姫の正体がユズナというわけではない。妖狐に取り憑かれて別の人格となっているからと言ってユズナの人格をこのままにしておくわけにもいかない。そういう理屈を家老たちは述べ立てたので、鯉沼藩ではすぐに萩姫のお祓いを行うことになったのだった。
真冬の冷たい風吹く中、神田神社の境内で、ユズナはあぐらをかいて、呑気に欠伸をしている。
「そんなにみんな、このユズナ様が嫌いなのかね……」
そう言って不機嫌そうに唸るとユズナは、露わになった胸をばりばりと爪で引っ掻いている。
「これ、化け物。偉そうに申すでない。そなたはお祓いをしてさっさと萩姫の体から追い出されるべきなのだ。妖狐のくせに姫君の体を我が物顔で喋るな」
と隣に立っている鯉沼藩の家老が怒鳴る。
「だから、そんなのあたしの知ったことかよ。それにあたしは妖狐じゃなくて、妖狐が取り憑いた時に生まれたお萩の別の人格なんだよ」
「萩姫のことをお萩などと気安く……」
「その萩姫はあたしなんだってば……」
ユズナはすっかり呆れると、さっと立ち上がり、ぱっぱっと肩の土埃を払うと、神田神社の境内をのしのしと歩き出す。
「これ、化け物。どこへゆこうというのだ」
「お散歩……」
ユズナはそう言って微笑むと、指をくるりとまわして、たちまちつむじ風を起こし、そこにひょいっと飛び乗って大空へと舞い上がった。家老たちが境内で喚いているのが空の上から見えた。
「やれやれ、あたしが萩姫だってのがわからないんだから困っちゃうよね……」
実際、ユズナはそれまでの萩姫の人格とは大きく異なる。しかし家老が語るような化け物などではなくて萩姫その人なのだった。性格こそ変わったものの、かつての記憶を共有し、萩姫としての感情も変わらずその腹の中にあって脈動していたのである。それでも萩姫らしくない振る舞い、ユズナとしての人格が、化け狐に取り憑かれたのだ、との思い込みを生んで、鯉沼藩の家老たちを不安抱かせ、このような不満をを述べさせたのだが、これには、ユズナも辟易としていた。
旋風の中で、江戸の町を見下ろしながら、ユズナは蜘蛛八たちのことを思い出していた。山賊の頭となって、あの洞穴の女王となって好きに遊び呆けていた頃のことがひどく懐かしく思えた。あの山賊の人々の魂が今どこにあるのかユズナは知らないし、全てはもう戻ってくることのない過去であるけれども、ユズナはあの日のことを思い出して、時々、涙するのであった。
(蜘蛛八よ。安らかに眠れ。いつもお前のことを想っている……)
ユズナは鯉沼藩の藩邸に飛び降りた。そして父親の松林辰影の元へと駆けていった。座敷の上の辰影は、お祓いに行ったはずの娘が突然戻ってきたので驚いて立ち上がると、その顔をじっと見つめている。
「御父様……」
「お萩…….」
「お萩はいつでも変わらずお萩でございます。それなのに、あの者らは化け物扱いするのです」
そう言って、ユズナが父親辰影に胸に飛び込んで、もう嫌っと述べると、その気持ちを察した辰影は、萩姫のことをしっかりと抱きしめた。
「可哀想なことをしたな。お萩もう苦しむではない。どんなに荒っぽくなろうとお萩はお萩であったか……」
そう言って、辰影は微笑むと涙したのであった。




