第七十六話 杏奈
相州の森の中を駆け抜ける一人のくノ一があった。その時、木の暖かなこもれびの中で、くノ一には、得体の知れない胸苦しさが一気に消えてゆく感覚があった。
(なんだろうか……)
水たまりに顔を映す。美しく柔和な顔である。くノ一は杏奈という名前で、松林辰影の忍者七人衆として暗躍していた。それが、あのユズナというおなごと出会ったことで突然に自由の身となったのだった。
しかし自由というのは恐ろしいものだ。今では、孤独と不安感が、常に杏奈を脅かしていた。
(自分には帰る場所がない……)
それでも生きているという実感もあった。もう悪事を働かなくても良いというだけでも生きてゆく資格が得られている気がして心が穏やかになった。
「杏奈?」
突然、名前を呼ばれて杏奈は驚いて振り返った。目の前には、かつて風魔の里で知り合いだった鈴音というくノ一が立っていた。
「杏奈じゃないかい?」
「鈴音……」
「どうしたの。あなた、どこかのお庭番になったと聞いていたけど……」
それは杏奈のついた嘘である。現実には、妖に魂を売ったのであった。
「いや、それよりも鈴音はどうしてここに……」
「ここはかつて風魔の里があったという足柄峠でしょう。わたし、昨日まで大奥女中をしてたんだけどね、江戸城が大騒ぎになりそうだったんで一人で逃げてきたんだ。他に行くところもなかったから一人でこんなところまで来ちゃった……」
「小田原で合戦が行われているって噂だけど……」
「そう。だから本当はその様子も見に来たんだ……。わたしたち風魔忍者の未来もかかっている出来事だからね。さっきね、江戸城が落ちたんだ。だから、きっと、小田原城の勝利だね……。わたしたちの北条家が江戸を守ったんだよ」
そう言うと鈴音は、懐から三つ鱗の印籠を出して杏奈に見せた。杏奈は、その家紋に恥入るような気持ちとなった。
「わたしは次の雇われ先を探すよ。またどこかで会えるといいね」
と鈴音は言って森の中を歩き出そうとする。そしてしばらく歩いた後に、鈴音は杏奈の方を振り返る。
「杏奈、早雲寺をお参りしてゆくといいよ。あそこには北条氏康様や氏政様の神霊が眠っている……」
鈴音はそれだけ言い残すと、もう姿を消していた。
杏奈は、しばし考え込んで、土に両膝をつけると、太刀を抜き、自分の腹に当てた。風魔忍者として悪事に加担したことを恥入り、切腹しようと思ったのである。しかし、しばらく鳥の声を聴いていると、それも不毛な気がした。
(切腹して何か変わるのか……? それとも生きて何かを変えるのか……?)
杏奈の脳裏にある言葉が浮かんできた。
(生きてみよう。わからなければわかるまで生きてみることだ……)
杏奈は、ユズナが語った言葉を心の中で繰り返し、太刀を再び鞘へと納めたのだった……。




