第七十一話 紬の大蜘蛛
栄之助とユズナが階段を登ってゆくと、そこはだだっ広い座敷となっていた。床には畳が敷かれていて、竜宮城やさまざまな魚を描いた襖絵に、四方が囲まれている。その真ん中には、茜と雫が背中合わせに座らされている状態で、太い縄で縛られていた。
「茜……」
栄之助は、数ヶ月ぶりに茜と会えた嬉しさから階段にユズナを残して、一人で駆けて行った。
「栄之助! 罠だよ!」
茜が叫んだ。その瞬間、襖絵が真っ二つに切り裂かれて、たちまち槍を持った紬が飛び出してきた。
「まずい!」
栄之助は間一髪、長光の太刀で槍を打ち払って、その刃の軌道を変えると、前受け身をして、畳の上を転がった。
さらに紬が追撃を喰らわせるべく、槍を回転させながら、栄之助の上に蛙のように跳びつく。
が、真横から飛ばされた分銅が、紬の眼前を掠めた。
「うっ!」
紬は、その分銅を避けつつ、目の前で撓み揺れている鎖を片手で握ると、そのままユズナごと鎖鎌を思いきりよく引っ張った。
ユズナは、軽々と引き飛ばされて、畳の上を転がりながらも、武器を奪われないようにと鎌をしっかり握りしめている。
「覚悟!」
ふらふらと立ち上がった栄之助が、紬に太刀で斬りかかる。紬は握りしめている鎖を手離すと、すかさず栄之助の腹を蹴って、一瞬出来た隙をつき、彼を首元から一刀両断しようとする。
が、その瞬間、ユズナの鎌の刃が、紬を襲った。
妖気に弾かれながらも、刃は紬を打撃的に負傷させた。
「くっ……。これほどの鎖鎌の達人が……」
紬は、黒煙を撒くと、その場から離れるため、襖絵の向こう側へと勢いよく走り去っていった。
ユズナが指を振るって、旋風を起こし、黒煙を外に飛ばすと、栄之助が、茜と雫のふたりを縛り付けていた太縄を、太刀で叩き斬った。
茜は、さっと立ち上がると、涙目で栄之助のことをじっと見つめている。
「栄之助……」
栄之助も、今にも茜を抱きしめたい思いで、茜の瞳をじっと見つめているが、
「今はゆっくり話す時間もない。なにしろ、先ほどのくノ一がいつ襲ってくるとも限らないから……」
と言ってはぐらかし、茜の熱い視線を見て見ぬふりして、若干誤魔化した。
「あの子は紬だよ。わたしに似せて作られた泥人形なんだ……」
「そうか……」
ふたりとも妙に気恥ずかしくて、会話があまり捗らないのだった。
そうこうしているうちに、江戸城天守閣は相州に入り、小田原に到着したようだった。
徳川家斉は、鎧兜を身に纏い、老中水野を隣においた状態で、天守閣を自在に操っている。
その上、階下に差し向けた紬が、侵入者たちを斬り捨てたものと疑わず、これから攻略すべき小田原城のことばかり気にしているのだった。
「小田原城はどこだ。おお、あれか……」
小田原城は、天守閣を中心として、城下町全体を覆うほどの大きさで、幾重にも横堀が作られ、城域が広がっているのだが、曲輪の内外に、無数の大筒が拵えられて、天へと向けられていた。
「あの真ん中にあるのが氏邦砲だな……」
巨大な大筒が、小田原城の曲輪の中に大仏のように鎮座していた。
妖魔改造江戸城は、氏邦砲の砲撃を受けないように高速で旋回し、小田原城へと一気に接近して行った。
その瞬間、無数の大筒が、雷撃を放ち、光弾が舞い落ちて、星屑のように煌めき、江戸城天守閣を一気に包み込んでしまった。
天守閣は、眩い光の中で、激しく揺れ動いていた。
「ううっ……。一体、どれほどの数、大筒があるのだ。これでは容易に接近できんぞ……」
家斉は、よろめきながらそう言うと、老中水野に、
「よしっ、こちらも砲撃するぞ」
と告げた。
江戸城天守閣は、砲撃の嵐の中を突き進み、小田原城に向けて、砲撃の連射を行なった。しかし、それは確かに小田原城に向けて放たれたのだが、結界に守られていて、途中で鉄球が燃え上がって、火の玉となって落ちてゆくのだった。
「ええい。氏康親子の神通力とはこれほどのものなのか!」
家斉は、一時撤退を決断し、妖魔改造江戸城を山の向かう側に隠すことにした。
しばらくして、家斉のもとに紬が現れた。家斉は、じろりと紬の顔を見るとこう尋ねた。
「どうだった。侵入者は……」
「それが、仕留め損ないました……」
「なんだって。お前ともあろうものがどうしてだ……」
「それは、上様の御命令の通り、茜と雫を殺さないようにと戦い方を加減していたからです……」
紬の釈明を聞くと、家斉は燃え上がるような怒りを感じた。小田原城攻略に苦戦している中、茜と雫が急に邪魔な気がしてきたのだった。
「それならば、この戦い、お前に任せるわけにはいかぬ。このまま侵入者に好きにされては、わしの夢が何一つ叶わずに終わってしまう。そもそも侵入者があったのも茜と雫のせいじゃ。こうなれば、もう茜も雫も生かしておけぬ。第一、今のわしには人間界を併呑してしまうことの方が大切じゃ。これより、わしが直々にその者らを斬り捨ててくる……」
「上様……」
紬は、立ち上がると、さっと緋色の帯をほどき、烏色の装束をするりと床に脱ぎ捨てた。そこにあるのは、茜に生き写しの美しい裸体である。呼吸に打ち震えて上向きにしなっている可憐な胸も、なめらかな色白の素肌に咲いた花のような臍も、活発なおなごらしい筋肉質な太腿も、肉感的に締まっている左右の尻も、鏡に映したのかと思うほど、ことごとく茜のそれと同じであった。
しかし、一点、違うところがあった。
紬はくるりとまわって、家斉に背中を向けた。そこには大蜘蛛の入れ墨が彫られていたのである。
「ご覧ください。この大蜘蛛は、わたしが生まれた時に刻まれた入れ墨です。この入れ墨を掘ったわたしの生みの親は、茜に無惨に殺されました。上様が、もし茜を殺してもよいというお考えならば、どうか、わたしめに茜を斬り捨てさせてください……」
家斉は深く頷いた。大蜘蛛の入れ墨が蠢いているように見えたので、これは大変な執念がこもっているものと感じたのである。
「ふむ……。そなたの気持ち、よくわかった。それではもう一度、仕留めてくるがよい……」




