第七十話 円海と白幽の問答
「あれが江戸城の大天守か……」
辻井栄之助が、低く呟くように言った。
円海和尚が一足先に、江戸城の屋根瓦の上に飛び乗り、愉快そうに笑って、こちらに手を振っていた。
栄之助を背負って飛行しているユズナも同じく屋根瓦に飛び乗ろうとした瞬間、当の天守閣が揺らぎ、土煙をもうもうと舞い上げはじめ、凄まじい地響きを鳴らしながら、石垣ごと天に向かって上昇し始めたのだった。
「そんな……」
ユズナは、あまりの予想外の展開と我が身に迫ってくる石垣にぶつかって頓死する恐怖に慌てふためき、足下のつむじ風の勢いを強めて、飛び上がり、上昇している屋根瓦にどうにか右手で掴まった。
「早く中に入るよ。このままじゃ、あたしたち振り落とされちゃうよ!」
やっとこさ屋根に飛び乗ったユズナはそう叫ぶと、栄之助の頬を無駄に引っ叩いて、ふたりは転がるように屋根瓦の上を彷徨い、乱れに乱れながら、どうにか窓枠から城内へと飛び込んだ。
栄之助が前受け身を取って、急ぎ体勢を立て直すと、そこは漆を塗ったような光沢、板張りの床、その他には取り立てて注目するものの無い、暗闇に柱が並んだ広間であった。見ると、すでに円海和尚が柱の影に隠れて、階段を指差していた。
「一体、この城はどこへと向かっているのでしょう」
「なに、南へゆくのさ……」
と円海和尚は笑って言った。こんな状況でも笑って言えるほど心に余裕があるのか、栄之助は疑問に思った。
「さて、わしは階段を下る。そこにはわしの宿敵、白幽和尚がおる。君たちは階段を登ってゆきなさい。そこには君たちが探し求めているくノ一たちと徳川家斉がいることだろう……」
そう言い残すと円海は一人、冷たい階段を跳ぶように降りてゆくのだった。
「本当だろうか。この上に茜がいるのか……」
栄之助は、急な梯子のような階段の先を見つめた。
「ここまできといて怯えることはないよ。さあ、階段を登ってゆこう」
ユズナはそう言いながら、鎖鎌の分銅をくるくると宙で振り回して、いかなる敵とも対峙できるよう気合いを入れているのだった。
栄之助とユズナのふたりは覚悟を決めて、階段を登って行った。そして円海和尚は一人、階段を下ってゆく。階段の下の間は、漆黒の広間であった。円海和尚がじっと暗闇の中を見つめると、白幽和尚が立っているではないか。
「やはり来てしまったか……」
白幽和尚は、禍々しき妖気に満ちている。
「仏法の尊さを忘れてしまったようじゃな、白幽……」
円海和尚がそう言うと、白幽はケタケタと笑って、
「仏法の尊さとは一体何のことだね、円海。あの頃、慈眼寺の七怪僧と呼ばれ、妖しげな民間信仰の祈祷を引き受けて、神仏の呪力を悪用していたわしらが語れることかね。比叡山や高野山の僧侶が経典の智慧を研鑽し、仏法を語るのならばいざ知れず、あの頃、わしらが深めていたのはむしろ魔道ではなかったかね……」
と厳しい批判をしてきたのであった。
「まさにその通りじゃ。わしらはいわゆる叡山の学僧とは異なる。しかし零落した神仏の呪力を活かし、また怨霊に祈願するのは、古より我が国に伝わる純然たる信仰ではないかね。天竺より伝来した経典を読誦し、己の仏性を問うて、僧堂に坐して黙然としているよりも、大和の山麓に満ち満ちている霊気、そこに巣食う魑魅魍魎、天狗や鬼のおどろおどろしい妖気を活かすことこそ、日本国の人々の信仰ではないかね……」
と円海は持論を展開する。
「それならば、わしのやろうとしていることも理解できよう。魑魅魍魎の呪力をもって、人間界を併呑してしまうのだ」
そう言って白幽は、円海の持論を取り込もうとする。
「そうではない。わしが述べている仏法とは、慈悲のことじゃ。お主のやることは悪戯に世を乱し、すべてのものを我がものにしたいという妄念そのものじゃ。それゆえにこそ、わしはお主に思い出してほしいのじゃ。ええい。阿弥陀とは何じゃ。観音とは何じゃ。薬師とは何じゃ。お主の心にある慈悲心そのものではあるまいか!」
白幽は、その言葉に一旦目を細めて静かに考え込んでいたが、迷いを払うと、すぐに指先を突き出し、城内に稲妻を走らせた……。




