第六十九話 大手門の戦い
家斉は、天守閣の最上階にいながら、黒煙の舞い上がる大手門側をじっと睨んでいた。そして老中水野を前にして、いかにも不機嫌そうに荒々しい声を上げた。
「江戸城の手勢をもってしても、いまだ暴徒を鎮圧できんのか。坂口泉十郎という博徒は、宮本武蔵や塚原卜伝のような世に稀なる剣豪だというのか」
「それがしかし、そのようであります……」
「剣豪といえど所詮は人間。それならば、紬に相手をさせよう……」
憤怒の表情を浮かべる家斉が印を結んで、呪文を唱えると、江戸城の第二層にある観音開きの扉が音もなしに開いて、程なくして烏色の装束をまとった紬が屋根の上に現れた。
「紬、大手門へゆけ」
という徳川家斉の声を聴きながら、紬は風に飛び乗って、曲輪と堀を飛び越え、大手門へと急行した。
大手門は、夥しく発生した黒雲によって雨が降りしきっていたが、燃え盛る炎は消える気配もない。枡形門の中は、銃撃の雨となっていたが、いち早く塀を登ってしまった坂口泉十郎が、弓兵や銃兵を次々と叩き斬ってしまったので、それ以降は、博徒たちが次々と曲輪の中へ侵入してゆき、四方から伏兵が押し寄せて、地獄絵図のような乱戦が行われていた。
紬は、大手門横の櫓の上に舞い降りると、空中に生み出した槍を握って、大上段の構えをし、曲輪の中の争いを眺めた。
浪士と見える出立ちの男が、曲輪の真ん中で、江戸城の剣客を次から次へと切り捨てているのだった。
「あれが坂口泉十郎だな……」
紬は、もう一度、さっと風に跨がると、今度は坂口泉十郎の真正面に着地した。
「あっ、お前は……」
坂口泉十郎は一瞬、茜かと思って怯んだが、すぐに気配が異なることに気がついた。
「茜ではないな……」
「そう、わたしは紬……」
紬はにやりと笑うと、土を踏み締め、握っている槍を荒く振るって、坂口泉十郎を脅かした。
坂口泉十郎は、うっと呻いて、飛び退きつつもすかさず踏み込み、全力で斬りかかったが、紬の刃は坂口泉十郎の首元を捉えていた。
「あっ……」
坂口泉十郎は、首から血を噴き出しながら、太刀を天に投げ飛ばした。
その太刀の刃は、泥水の溜まった地面に突き刺さり、柄は雨風に打たれながら揺れた。
「こんなものだよ、人間なんてね……」
紬はそう笑うと、坂口泉十郎の無惨な遺骸を曲輪に残して、もう一度、吹き上がる風に跨ると、江戸城天守閣に帰還した。
「あっという間だったな……」
と言いつつ、徳川家斉は戻ってきたばかりの紬を愛おしそうに抱きしめると、自分の腕に返り血がべったりとついていることに気がついた。
「お前が珍しいな。返り血を浴びるなんて……」
「だって切り結んだ時、一寸の差だったんですもの。あれほどの剣豪は他にいないでしょう……」
と紬は言って、妖艶な胸の谷間に残った坂口泉十郎の返り血を指ですくいとり、柔らかい舌に当てると優しくなぞるように舐め上げた。
「まあ、片付いたのならば良い。よしっ、これで出陣の準備は整った。丑の刻という予定の時刻よりも少しばかり早いが、争いとは先の先を取らねばならぬ。これより江戸城天守閣は、相州へ向かい、小田原城を迎撃する……」
そう言って、妖に取り憑かれた徳川家斉は、もう一度、紬をぎゅっと抱きしめた。




