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第六十七話 黒書院にて

 徳川家斉は、江戸城表の黒書院で、三人の老中を前にして坐し、重々しい口を開いた。人質であるはずの茜と雫も将軍の隣に並んで座らされている。


「小田原城本丸に拵えられた大筒、なんでも氏邦砲(うじくにほう)というらしいが、神仏の呪力を備え、この江戸城を容易く破壊するほどの威力があるらしいとのもっぱらの噂である。わしはそんな戯言を信じるような男ではないが、もしも小田原城が江戸城に対する陣城として増強を続ければ、いつかは無視できぬ脅威となるであろう。これを未然に防ぐため、本日の丑の刻、江戸城天守閣は、相州へ向かい、増築中の小田原城を迎撃する……」


 水野を始めとする老中たちは一斉に礼をして、畏れおののきながら、黒書院から引き下がった。どのようなことを内心で思っていても、妖に取り憑かれた将軍徳川家斉の考えに異を唱える者などありはしない。そんなことをすれば死罪を免れないからであった。


「どうだね。茜と雫、そなたたちの小田原城は、本日中には落城するだろう。歴史上、二度目の小田原征伐だ。そして北条氏康の霊魂は永久に封印されるのだ……」

 徳川家斉の瞳は、妖しく輝いている。

「そんなことすれば、この江戸城だって無傷では済まないはず……。それに争いとなれば、江戸の街だって……」

「江戸か。そうかもしれんな。しかし目的を達すればわしは何でもよいのだ。徳川家の血脈によって、この江戸は大きく様変わりしたな。甲州征伐の時に、もしも武田が徳川に敗北しなければ……」

 そう徳川家斉は、悲しげな表情を浮かべると、無数の霊魂が胸の中で騒いでいるようだった。


「徳川が治める江戸なんて、本当はどうなってもよいのだ。すべてを滅茶苦茶にして、戦乱の世に命を落とした、さまざまな祖霊に報いるのだ……」

 そう言うと、徳川家斉は茜と雫のふたりに向き直り、

「ふたりも今のうちに天守閣に移動しておきたまえ。出陣に遅れてはならぬぞ」

 と言い残すと、黒書院を後にした。



 家斉は一足先に天守閣へと登った。二百五十年の繁栄を誇る江戸を見渡すと、晴れ晴れとした気持ちになった。まるで滑空する鷹にでもなった気分である。


(この江戸を徳川の手から奪う……)

 すると老中水野が鶯張りの廊下を駆けてきて、階段を慌てた様子で駆け上ってきた。そして息を切らせながら、板張りの床の上で平伏した。

「どうした?」

「大手門が暴徒に焼き討ちされております」

「なに。敵は一体何ものだ」

「賊の頭は、内藤新宿の博徒、坂口泉十郎と名乗っております」

「ええい。そのような雑魚、早々に片付けてしまえ。これより、わしは小田原を征伐しようとしているのに何を博徒などに慌てふためいておるのだ」

 徳川家斉はそう言いつつも、不吉な予感がして、天守閣の窓から大手門の方角を見る。確かに、黒煙が宙を漂っている。


「焼き討ちなど、雨でも降らせればよかろうに……」

 と家斉は人差し指をくるりと回して、どこからともなく黒雲を呼び寄せ、それを大手門へと差し向けた。

「坂口泉十郎という博徒、相当な剣の腕前でありまして……差し向けた刺客は、次々と撫で斬りにされています」

 下らんとばかりに家斉はその言葉を無視すると、天守閣の最上階をぐるりと一巡し、小田原城のある方向を見つめて、渋い表情のまま腕組みをした。

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