第六十六話 北条家の風魔忍者
時は戦国。
天正十年、東国異変の予兆として知られる浅間山の噴火が巻き起こった。
これと前後し、織田、徳川を始めとする反武田勝頼勢力による甲州征伐は、いよいよ激しさを増し、程なくして、天目山の戦いにおいて、武田家を敗戦させ、滅亡させることになった。
この甲州征伐では、北条氏政、氏直親子率いる風魔忍者の活躍があったとされる。
武田家の滅亡は中世的な勢力の終焉であり、戦国の様相を様変わりさせる大事件であり、同時にさまざまな遺恨の残る戦乱であった。その御霊は、今もなお東国に広く行き渡っている。
さらに浅間山は天明三年にも噴火している。このあたりから、繁栄を誇っていた江戸幕府は再び、不安定な時代に突入することになった。それと呼応するようにして、二百五十年間に渡り、鎮められていた数多の霊魂が再び騒ぎ出している……。
茜と面会した後、北条氏康の霊魂は、すぐさま小田原城へと向かい、陣城にするための改造を開始した。この時、小田原藩は大久保忠世の末裔である大久保忠真が藩主に任じられていたが、北条氏康は構わずに入城した。突然、戦国大名の亡霊が出現したことに困惑する大久保忠真を横目に、氏康は小田原城の増築を推し進めた。さらに人間の力では足りぬとみえて、さまざまな神仏を呼び寄せ、取り憑けて、次第に小田原城は霊験あらたかな城郭として増強されていった。
さらには、江戸城攻略のために製造された大筒、氏邦砲が、江戸城の方角に向かって天に仰ぐように構えられていた。
「小田原城を江戸城攻略の陣城とする……。大久保忠真殿、しばらくの間、小田原城を借りるぞ……」
そう言いながらも、北条氏康の目つきは小田原城を今でも自分の城だと思っていることが明らかだった。
卍
この噂はすぐに江戸城の徳川家斉の耳にも伝わった。茜と雫のいる座敷に飛び込んできた家斉は、興奮した様子で、ふたりを睨みつけ、
「おいっ。北条氏康が、小田原城を増築しておるぞ!」
と怒鳴った。
「さようですか……」
「お主らこのことを知っておったのか。氏康の霊が彷徨っていることも知った上で、わしに何も告げなかったのか!」
「そこまで機転は効かせられませんわ……」
と茜は誤魔化す。心の中では、氏康の出陣が本当だったことに安堵していた。
「おのれ、氏康め。小田原城を増築して、この家斉の江戸城を攻略できると思っておるのか。しかしやつのやることだ。どれほど神通力を有する城郭を生み出せるものか想像もつかぬ」
「小田原城ごとき、この江戸城にとってみれば脅威でもないのではありませんか?」
と茜は挑発する。しかし家斉はそれもそうだと思ったらしく、座敷に座ると爪を噛みながら、何事か考え込んでいる様子だった。
「確かに。この江戸城の計り知れない神通力は底抜けで、その邪気は天にも昇る、まったくおそろしいものがある。氏康の小田原城など蹴散らしてくれる……」
そう言うと、家斉は興奮した様子で、ふたりに背を向けて、座敷から飛び出していった。
「氏康公がついに出陣されたんだね」
雫が瞳を輝かせて話しかけてきたので、茜は深く頷いた。
「上手くやれるといいけどね……」
そして茜は懐から、三つ鱗の家紋がついた印籠を取り出し、自分の額に押し当てた。そして、自分は北条家に仕える風魔忍者なんだ、と何度も言い聞かせたのだった。




