第六十五話 夢の中の総大将
江戸城に戻った茜は、富士山頂の寒さに足を震わせていたので、江戸城内にある大浴場に入った。それは徳川家斉が風呂好きのふたりのために拵えたもので、龍宮城の如き美しい浴室であった。着物を脱いで、裸になった茜が湯に浸かると、積雪の中で悴んだ手足が一気に暖まってゆくようだった。妹の雫もぼんやりとしながら熱い湯に浸かっている。天井から吊るされた提灯が、ふたりの艶めかしい裸体をぼんやりと照らしていた。
茜が天井を見上げると、それは寺院建築のような桝形天井になっていて、枡の中にはどういう訳か裸の天女が描かれている。そのせいか、官能的な雰囲気が漂っている。
もっとも茜の目の前は、いかにも子供っぽい外見の雫が、湯に浸かっているだけである。
「お姉ちゃん。わたしたちはもうどうすることもできないのかな」
と雫が心配そうな顔をして茜に尋ねた。
「きっと栄之助が助けてくれるよ」
「栄之助?」
茜は、雫の言葉にこくっと頷いた。
「栄之助って誰?」
「わたしの大切な人……」
茜はそう呟くように言うと、それ以上、あまり語りたいと思わなかった。栄之助が長旅の中ですでに死亡している可能性もあることを茜は理解していたし、いずれにしても、もう会えるとも思っていなかった。だからなんとなく栄之助とのことは夢のままで終わらせたかった。それに徳川家斉の支配下にあり側室にさせられるであろう自分を、栄之助がどう思うかも心配だった。
(徳川家斉に取り憑いた妖は、このまま人間界を支配してしまうのだろうか……)
そのようなことも考えた。ただ、茜は自分の無力を嘆いているばかりであった。
それから茜は、たった一つの行燈の灯を残して、その他は漆黒の八畳間で、雫と並んで布団に入り、深い眠りについた。
こうしている間も江戸城は、どこかに向かって高速で飛行しているようだった。茜はほとんど揺れることのない江戸城の中にあって、この城郭が確かに動いていることを肌で感じ取っていた。
茜は瞼を瞑って、これから先のことを考えた。徳川家斉の側室になるのか、それとも自ら命を絶ってしまった方がよいのか……。
(栄之助!)
茜は心の中で悲痛な声を上げた。その声は虚しく響いて宙に消えてゆくようだった。
その時であった。茜は瞼の裏、暗闇の先に人影が立っているのが見えてきた。
(誰?)
その人影が茜に向かって歩いてくる。よく見るとその人影は戦国時代の陣羽織を羽織っている。だんだんと姿が明らかになるにつれ、その人物が何者であるか茜ははっきりと分かった。茜はかつてその人物を夢の中で見たことがあった。
(北条氏康……)
戦国大名の北条氏康が茜の前に立っているのだった。
「茜よ。ついにわしの出陣が決定した。お主も風魔忍者の名に恥じぬよう北条のために闘ってくれたまえ」
茜はその言葉を聞いた瞬間、どっと涙が込み上げてきて、氏康に向かって叫んだ。
「今までどこで油を売っていたのよ!」
「申し訳ない……。しかし是非もないのだ。わしの出陣は、さまざまな機縁が合した時にようやく実現できるものと決まっておる。それにつけても、お主は懸命に闘って、今の今までよく持ち堪えてくれた。これより先は、徳川家斉に取り憑いている妖討伐のために、わしと倅の氏政が、風魔忍者を含めた全軍の指揮を取る。明日、早朝より本格的な武州征伐を開始するぞ」
茜が氏康の隣を見ると、絵で見たことがある北条氏政その人が神妙な表情で立っているではないか。
「ありがとうございます……。でも、この江戸城は自在に天翔けて、異国船や、岩山を吹き飛ばすほどの大筒を四方に構えております。北条氏康様とて攻略することはできないでしょう……」
と茜が震えた声で言うと、氏康は静かに頷いた。
「お主の言うことはもっともじゃ。しかし江戸城攻略のための陣城として、現在の小田原城を改造するつもりじゃ。まあ、わしに任せることじゃ……」
と氏康の亡霊は自身ありげに微笑むと、そのまま息子の氏政と共に再び暗闇の中に消えていったのであった……。
(これは夢だろうか……?)
と茜は問いかけたが、すぐに否定した。
(いいや、夢じゃない。北条氏康の霊魂は、今まさに風魔忍者を指揮しようとしている。そして妖を討伐しようとしているんだ……!)




