第六十三話 富士山と江戸城
茜と雫を乗せた江戸城は、甲州街道に沿って西へと航行していた。ふたりは今、行燈と妖気によって赤々と照らし出されている、虎の襖絵に囲まれた広い座敷に並んで座り、会席料理を振る舞われていた。
茜の眼前の膳の上には、天ぷらや鰹の刺身の他、鯛の塩焼きなどが並んでいる。白飯や吸い物と味噌汁も供される予定で、とても食べ切れる量ではなかった。一段上がったところには徳川家斉が座って、やはり同様の会席料理を食している。
「今宵はふたりが手に入った祝いじゃ。わしの宿願は立て続けに叶ってゆき、まるで極楽浄土の夢を見ているようじゃ」
「わたしたちは別に喜ばしくないわ」
と茜は言下に否定する。
「そのような口をきけるのは、まだ恐れを知らないものと見える。しかしお前たちはもうどこへも逃げられない。逃げたとしても同じことだ。この世のありとあらゆるものがわしのものとなったのだ」
「自分の力を過信しているのね」
茜は、雫が隣で冷や冷やしているのも構わずに、家斉に楯突く。
「今宵の祝いはそればかりではないぞ。ふたりに紹介したい人がいるのだ」
家斉はそう言うと、左手で手招きをした。虎の襖絵がすっと開き、立ち姿で現れたのは風魔茜の美しい生き写し、烏色の装束を身に纏った紬その人であった。
「紬……」
茜は、驚いてその姿を食い入るように見つめた。しかし紬の表情からはいかなる感情も読み取れない。まるで凍りついている死人のようである。
紬が、亡霊のような足取りで座敷に上がり、家斉の隣に腰掛けると、彼女はまるで雛人形のような美しさで微動もしないのだった。
「お久しぶりね」
と茜が声をかけようとすると家斉が静止した。
「紬に気安く話しかけるでない。紬は今、お前のことを親の仇のように恨んでおる操り人形というものじゃ。というのもわしは、甲州をはじめとして上州、駿府、信州に今尚浮遊している武田家の数多の怨霊を集めて、この人形に憑依させた。甲州征伐の時に無惨に殺され、苛まれた者どもの記憶から、紬は今、風魔忍者をこの上なく憎悪しておるのだ」
甲州征伐という古風な言葉に、茜は背筋がぞっとした。確かに天正年間、武田家と北条家の同盟関係は崩れ、小太郎をはじめとする風魔忍者は、武田家打倒のために奔走した。それは茜ら、風魔一族の血脈においても伝承されている話である。しかしそれは二百五十年近く前の話であるし、北条は、織田や徳川の主導する時流に乗ったのである。風魔一族が特別に恨まれる道理はないはずである。
「それは戦乱の世においてはやむないことだわ。第一、その怨霊たちを紬に憑依させてどうなったというの」
と茜が、家斉を問い詰めると、彼はふふふと笑った。
「紬は、怨霊たちの復讐心を吸い取り、強大な神通力を我が物とした。お前たちが力を合わせても、今の紬には到底敵うまい。お前たちにこのことをよく理解させるために、今、江戸城は富士山の山頂へと向かっている。そこで果し合いの真似事をして、紬の真の実力を見せてくれる……」
家斉がそう言うのに合わせて、紬は茜の方を向いた。死人のようであったその瞳には今や憎悪からくる闘志が湧き上がってきている。
四半刻の後、妖魔改造江戸城は、富士山山頂と並んで浮かんでいた。城郭の屋根瓦にはすでに茜と紬のふたりが並んで立っている。城郭が山頂にたどり着くと、ふたりは純白の雪の中に飛び降りて、茜はすかさず太刀を構えた。
紬は、同様の太刀の柄を握ったまま、茜よりもわずかに高い岩の上で、茜をじっと見下ろしているのだった……。




