第六十二話 小猿の三平の正体
栄之助は、三平に導かれて内藤新宿にある古寺にやってきた。そこには人の姿もなかった。ただ墨を塗りたくったような空の下、押し潰されそうな静寂、線香の香りも無いのだった。
しかし栄之助は境内に入った時、墓地の真ん中に巨大な狐火が燃え上がっているのを見た。そしてそれは境内を赤々と照らし出していたのだった。
(稲荷神社の眷属の狐か……)
栄之助は襟を直し、身なりを整えて、三平と共にその狐火に歩み寄った。
「いいかい。栄之助。神仏も零落すれば妖となる。眷属だって祀らなければやはり同じことさ。この稲荷様の眷属の狐様も祀られなきゃ、苔むした祠の内側じゃ、狐火を焚く他ない」
と三平は神妙な顔をして言った。
「さよう。するとお前も……」
「ああ、おいらだって生まれは近江の日枝の山さ。日吉大社の神猿だよ。それがどこで道を間違えたのか、小猿の妖怪と呼ばれて、退治されそうになっている。だからおいらは茜に言ったんだ。妖怪たって、悪いやつもあれば、おいらみたいに良いやつもいるっさ。一体、日本国ってのは魑魅魍魎の国なんだよ。それをよくわかってもらえないと困るね」
「山王権現の神猿なのか。まさかお前が……」
「今はそうとも言えないけどね。人に忘れ去られ、苔むした祠じゃあね。でも元々はそういうわけさ。なあ、栄之助。おいらとこの妖狐は、その長光の太刀に取り憑くことができる。そうすれば、お前さんは妖を斬ることのできる宝刀に手にすることになる。おいらだって命をかけてお前さんを守護したいんだ。どうだい?」
栄之助は、三平の気持ちを感じ入ると、深く頷いた。そればかりでは足りないと思って、地面に両膝をつけると、首を下げ、かたじけない、と小さく呟いた。そして何度も何度もそう呟き続けた。
「いいんだよ。栄之助。そうと決まったら、今すぐにでもおいらは長光の太刀に取り憑くよ」
小猿の三平はそう言うと、呪文を唱え、空に飛び上がり、星の輝きとなって栄之助の頭上を勢いよく駆けめぐった。
すると勢いよく燃え上がっている狐火もそれに加わり、ふたつの眩い光が栄之助の見上げる空一杯に巨大な渦を描いて、天地を覆い尽してしまう、それはまるで阿弥陀如来の来迎のような美しさなのだった。そしてそれは次第に栄之助の右手に握りしめられた太刀の刀身に降り注ぎ、気が集まってゆく。今や、刀身には、橙色の光と紫の光が靄のように美しくとどまっているのである。
「かたじけない……」
栄之助は感涙に咽び泣きながら、それを手にして、ゆっくりと鞘に納めた。
「ありがとう。三平、そしてお狐様。生きるも死ぬも一緒だ……」
栄之助はそう言って、刀身を額に当てた。
(すべてが我が身に揃ってきている。江戸城に討ち入るその時が迫ってきている……)
栄之助がそう思ったその時、彼の頭上、寺の甍擦れ擦れに巨大な石垣がぬっと現れて、ゆっくり滑空した。栄之助はあっと叫んで、地面に伏せ、恐ろしげに見上げると江戸城の石垣が曲線を描きながら、ゆっくりと内藤新宿の上を飛行しているのだった。
(なんという恐ろしいことだ。これが徳川家斉の江戸城か……!)
闇夜の上空をゆっくりと航行する巨大な江戸城の禍々しさは計り知れなかった。しかしもはや栄之助には引くことなどできない。討ち入りのその日は迫ってきているのだ!




