第六十話 山鯨と坂口泉十郎
栄之助ら三人と一匹の旅人は、甲州街道を下り、内藤新宿にたどり着いた。江戸城の半蔵門まで目と鼻の先なので、ここで一旦、江戸城討ち入りの計画を立てるべく、旅籠屋に宿泊することにした。
「とにもかくにも我々、三人と一匹、ここまで来たならば、力を合わせて江戸城に討ち入る他もう道は残されておらぬ」
と円海和尚は言いながら、いつもの調子でケタケタと笑っているばかり。そのくせ、妙案などは浮かんでこなかった。
「とにかく、拙者は江戸城の様子を見に行こうと思います。上手い案が思いつくかもしれんので……」
と栄之助は畏まった口調で、円海に言った。円海はケタケタと笑っているばかりである。
「江戸城ならあたしが見てきてやるよ。栄之助がぼうーっと見上げてたって何もわからないでしょ。あたしが風に乗って、ひとっ飛びよ」
とユズナもどこか呑気である。
(本当にこれで大丈夫だろうか……。一体この者たちは、自分たちの置かれている状況を理解しているのだろうか)
栄之助は不満に思いながら、
「それなら俺は内藤新宿で、聞き込みをしてみる。案外、庶民の中には幕府の内情に通じている者があるかもしれない……」
と言い捨てると、草鞋を履いて、旅籠屋から一人飛び出した。
内藤新宿は馬糞の匂いのする宿場と言われているだけあって、至る所に馬がいる。出店があって、饅頭や鰻の串刺しが美味そうだが、栄之助は、土埃の中で腹ごしらえをする気にならなかった。宿場の賑わいを眺めながら、昼間から繁盛している縄のれんの居酒屋を見つけた。
(ここで聞き込みをしよう……)
と飛び込むと、土間が広がり床几に腰掛けた男たちがお猪口で酒を飲んでいる。皆、味噌田楽やおでんやら芋の煮物を肴にしている。
見ると奥には座敷がある。座敷は草鞋を脱がないとならないので不便だが、長居をする客が居座っているようだった。
奥へゆくほど妙な脂臭い匂いがすると思ったら、奥の客は、味噌煮にした獣肉の鍋を食べていて、ここがももんじ屋を兼ねているのだと栄之助はようやく気がついた。
「ここはももんじ屋かね」
と栄之助が客の一人に尋ねると、
「まあね。店先からは思いもよらねえだろうが……。山鯨の牡丹鍋が食えるよ……」
といかにも風変わりなものが好きそうな妙な着物の若侍が言った。
「匂いが嫌なら出ていくことだね」
「いや、江戸城が飛んだそうだが……」
「ああ、巷で噂だね。俺は見ていないよ。天保の世は狂気の世だ。誰もが夢を見たんだろう」
そうかもしれんな、と栄之助は言うと、若侍は山鯨を箸で摘んで、ふうふう言いながら頬張る。
「熱っ。熱いな。口が火傷しちまうぜ。ほら、あんたも一口食べてみなよ。出家じゃねえんだから山鯨くらい食えるだろ。うめえぜ……」
そう言って若侍が、箸で山鯨の肉片を摘んでよこすので、眉をひそめて栄之助はそれを睨んだまま、何も言わなかった。
「薬食いだろ。こんなものは。御家のために命を投げ出すのが武士だ。長寿にこだわるなんて恥だ」
「古風だね」
そう言って若侍は笑ったが、心から笑っているようでもなかった。
「泉十郎の兄貴がもうすぐここへ来るよ」
「泉十郎?」
「ああ。旅から帰ってきたんだ。また、しばらく安い旅籠屋に泊まり込むんだろう。すげえ兄貴だからあんたも顔合わせしていきなよ」
と若侍が嬉しそうに語るので、栄之助はあまり興味がそそられないながらも、仏頂面のまま頷いた。
すると、そこに一風変わった浪士と見える男が疾風のように入ってきた。そして荒々しい声で「おおい。酒だ。それと牡丹をひとつ拵えてくれ!」と怒鳴りながら、座敷に草鞋も脱がずにずかずかと上がり込む。
「兄貴!」
栄之助がその声に振り返ると、そこに立っていたのは坂口泉十郎であった。
「泉十郎……」
栄之助が驚いてそう呟くと、泉十郎もこちらをじっと見つめて鬼の形相のまま、一文字に口を締めていたが、ぱっと弾けたように、雷鳴の如き笑い声を上げた。
「栄之助。お前は辻井栄之助じゃないか。糞真面目なお前らしからぬところで会ったな!」
坂口泉十郎はあぐらをかくと、店員から銚子を受け取り、猪口に注いで、ぐいっと飲み干した。
「お前も相変わらず時代遅れのかぶき者だな。博徒にでもなったか。武士の心を捨てたか」
と栄之助が非難すると、泉十郎は乾いた声で笑っているばかりであった。
「俺はもう武士ではない。お前とは違うのだ。しかし、なんだ。こんなところで油を売っているのか。酒を飲むならさっさと飲め」
「酒を飲みたくて入ったのではない。泉十郎、江戸城が天翔けた噂を耳にしたか。徳川将軍が妖に取り憑かれたことはもはや疑いあるまい」
「ああ、その話か。あまり大声で喋るな。幕府の監視役が江戸の至る所に潜伏している。しかし栄之助。その通りだ。幕府は乗っ取られておる」
栄之助はぐいっと泉十郎の方へと顔を寄せた。そして殺した声で、
「江戸城に風魔の忍びが幽閉されている。茜という知り合いの忍びだ。知恵を貸してくれ。助ける手立てはないか……」
と言った。その刹那、泉十郎の表情が変わった。
「風魔の忍び。茜。その名、よく覚えている」
「知っているのか」
「ああ。数ヶ月前に、この内藤新宿で会った。お前のことを必死になって探している女だった……」
そう言うと泉十郎は、栄之助の表情の変化をじっくりと観察していた。栄之助がその言葉に項垂れたのを見て、泉十郎は猪口を置くと、袖に手を入れて腕組みをした。
「お前、身勝手なことをしたな」
「そうかもしれん」
「手立てなどない。刀一振りで江戸城に討ち入れ。女のために命を捨てるのだ。武士道など体の良いものにとらわれるから浮世離れるのだ」
そう言うと泉十郎は、じっと栄之助の沈んでいる面持ちを見つめていたが、そっと腰から日本刀を抜いて、机の上に置いた。
「これを持ってゆけ」
「これはお前の刀じゃないか」
「俺が武士だった頃の遺品だ。やくざ者の今はもっと鈍刀でよい。常々、俺は刀が泣いているような気がしていた。こいつを持ってゆけ」
栄之助は、その言葉に深く頭を下げた。
それは鎌倉時代の長光という刀工による名刀なのであった……。




