第六話 落武者源六の辻斬り三昧 後編
江戸からの旅人である喜兵衞は、夜半に一人、旅籠を抜け出すと、人気のない道を、京の都の方向へと足を進めていた。
とはいっても、彼はこんな時刻に、旅に出立したというわけではない。彼は酔っていたのだ。彼が千鳥足で、宿場町の西端までたどりつくと、そこには漆黒の川が流れていて、大きな石橋がかかっていた。
「なんでえ。この宿場には本当に何もねえなぁ」
喜兵衞はふてくされていた。酔うと機嫌が悪くなる男だった。彼は、大きな杉の下で立ち小便をすると、石橋に腰掛けて、持っていた徳利に直に口をつけて、にごり酒を飲んだ。
喜兵衞は、気持ちよくなって夜空に浮かぶ月を眺めた。
「歌でも歌うかな」
喜兵衞は気分がよくなって、心地のよい節回しで、歌を歌い始めた。
その時、奇妙な足音が聞こえてきた。
重い足音である。
「なんだ。誰か来るのか……」
喜兵衞は途端に恐ろしくなった。この宿場は荒廃していて、治安が悪いなどという噂を聞いたことがある。到着してみれば、そんなこともないと思ったが、こんな時刻に強盗が出たとしてもおかしくはない。
「俺は金子を持ってねえぞ……」
そう言いながら重たい懐を押さえて、喜兵衞は立ち上がった。よろめきながら足音の響いてくる石橋を見つめた。
しかし、そこには何の影もなかった。
足音ばかりである。
「なんだ。音だけ、響いてきやがらあ」
喜兵衞はだんだんと怖くなってきて、凍えるように震えて、その場から逃げようとした。その時、振り返った彼の目の前に、鎧兜の黒い影。
「あっ!」
喜兵衞がそう叫ぶのと同時、白い刃が月と重なった。と思うや、その影は地面に伸びている。地面に血が滴ったと思うと、喜兵衞の体がそこに覆い被さった。
鎧兜の大男の影は、燃えるような赤い目で、喜兵衞の亡骸をじっくりと眺めている。異様な静寂があたりを包んでいる。
ただ恨みだけを残して、悪霊と化した男。落武者の源六は、生きている人間がただ憎くて、辻斬りを続ける救われない一つの魂である。
その時、二つの手裏剣が頭上から降ってきた。
杉の上からである。
源六は、日本刀を振るって、手裏剣を弾き返すと、急いでその場を離れて、石橋の方に向かって走った。
石橋の中央には、辻井栄之助が仁王立ちで待ち構えていた。
「化け物覚悟!」
源六は、栄之助が大きく振りかぶって、斬りかかってきたのを咄嗟に避けると、すかさず側面に入って、日本刀を振るった。流星がぶつかるように、ふたつの刀身が交わって、高い音が響く。栄之助は弾き返されて、石橋の木の欄干に激しく背中を打ち付けた。
「うぐっ!」
源六は、栄之助を一刀のもとに両断せんと踏み込んだ。しかしその刹那、彼の背中の鎧を強力な手裏剣が突き破った。
「ぐあああ……!」
源六が驚いて振り返ると、茜が、日本刀を握りしめて、兎のごとく飛び込んでくる。源六は強靱な両足で飛び上がると、飛び込んでくる茜の腹を空中で蹴って、そのまま石橋の向こう側に着地した。
茜は、うめき声を上げ、石橋に転落し、苦しげにうずくまっていたが、すぐに起き上がった。
すぐに栄之助が茜に駆け寄る。
「大丈夫か。茜……」
「大丈夫だよ、わたしは……。それよりもあいつ、手強いね」
「ああ、そうだな……」
源六は、ぎしぎしと音を立てながら、二人の元に迫ってくる。このままでは勝算はない。
その時、茜は一つ妙案が浮かんだ。
(うまくいくかな。でも、やるしかない……)
すぐに彼女は、源六の元に近付き、日本刀で斬りかかった。源六は素早く、回避し、茜の疾風のごとき刀さばきを己の刀で防ぐと、力一杯、茜の日本刀を押し返した。
茜の軽い体は、辻風に吹き飛ばされたように、木の欄干を越えてしまった。茜はそのまま、川の中に落ちた。水しぶきが上がる。思ったよりも冷たく、流れの強い水流で、茜は溺れそうになりながら、どうにか体を安定させた。
(水の中は死角だ……)
茜が水中から頭上の様子を覗くと、栄之助と源六が激しく斬り結んでいるところだった。
二人の剣術の実力にはそれほど差がないようだったが、源六は鎧をまとっている上、馬鹿力である。栄之助は押されて、石橋の片側に追い詰められた。
栄之助の日本刀は、激しく弾き返された拍子に、彼の手を離れ、川の中に落ちてしまった。
(栄之助!)
茜は急いで、水中から手裏剣を投げた。それは異様に空中で曲がって、夜空を舞い、源六の燃えるような赤い目に突き刺さった。源六は叫び声を上げると、栄之助を仕留めずに、欄干に駆け寄った。
源六の右手に握りしめられた日本刀は、この時、赤い光に包まれて、巨大な弓矢に変化した。源六は茜の居場所を探るように川底を見つめた。そして動いている影を見つけると、それを茜だと思って、すぐに構えると矢を射た。
茜は、紅白の鯉のように美しく泳いで、水中に飛び込んでくる矢を間一髪、回避しながら、石橋の下に隠れた。
(このままではまずい。どうにかしなければ……)
その時、源六が川に飛び込んできた。巨大な体と重い鎧のせいだろうか、大きな水飛沫が上がる。源六の手には、槍が握りしめられている。
川底には、泥が舞い上がり、ふたつの影はいよいよ接近した。
茜と源六は、水中で二人向かい合った。
(あなたはなぜ、そうやって、人を恨み続けるの……)
茜は、源六の残された片目の奥に悲しい光が揺れているのを見たのだった。
(オレノキモチガオマエニワカルカ……)
(どうにもなりはしないのよ)
(ヒトヲキルコトデオレノココロハイヤサレルンダ)
源六は、槍の刃を茜めがけて伸ばした。茜は右手の日本刀でそれを叩き切ると、左手でその槍の先端を掴んで、源六の残された片目に突き刺した。源六は悲鳴を上げることもなく、ぴたりと動かなくなると、気泡と泥にまみれながら、川底に沈んでいった。彼の肉体はたちまち溶けてしまって、面頬だけが残ったという。
「落武者源六の辻斬り三昧 後編」 完