第五十九話 天保の改革
江戸城の天守閣は、今から百八十年前の明暦の大火で焼失したはずであったのに、江戸人の見上げた先の石垣の上には、五層の大天守がそびえている。太閤秀吉の一夜城でもあるまいし、一体いつ誰が建てたのだろうと巷で噂になっていた。奥州で冷害が広がる中で、天守閣の再築を決行したとしたら、百姓一揆ものである。
「お上のやるこたぁわからないねぇ」
と庶民は口々に悪口を申していた。
如月の夜であった。その大天守が夜空に浮遊し、江戸市中上空をゆっくりと滑るように動いたのである。長屋の庶民たちは、もはや寝るどころではなく、大騒ぎになって長屋の木戸を打ち破って、その有り様を一目見ようと屋根瓦に登る始末であった。
偶然、江戸湾深くまで入り込んだ異国船があった。オランダ国旗を掲げたイギリスの軍艦であった。
異国打払令に従い、江戸城は江戸湾海上を低空飛行し、そのイギリスの軍艦に接近していった。突然、前方に浮遊する城郭が出現したことに、イギリスの軍艦側は驚愕し、大きく旋回しようとしたが、江戸城は四方に大筒を構えている。
刹那、二本の大筒から螺貝のような音が鳴り響き、雷鳴が天に轟くと、江戸湾は波立ち、大きくうねって、波動が伝わり、軍艦は凄まじい水飛沫を浴びながら、燃え上がったと思うと、気圧に膨らみ、木っ端微塵に吹き飛ばされた。間もなく、海は巨大な渦を巻いて、海上の全てを一度に呑み込んでしまった。
「これが妖魔改造江戸城の破壊力だ。異国船などすべて打ち払ってやるわ……」
そう言って徳川家斉は高笑いをすると、老中水野に江戸城を任せ、最上階から階段を降りて、虎の絵が描かれた襖に囲まれた座敷に残された茜と雫の元へと向かった。
窓の木枠の隙間から、外の出来事を眺めていたふたりは、ぎょっとして振り返った。
「見たかね。江戸城の破壊力を……」
得意顔に語る徳川家斉を、茜と雫はじっと睨みつけている。
「これほどの破壊力を持った江戸城を所有している限り、外様大名は何も申せまい。いかなる悪政も百姓一揆ひとつ起こさせぬほどの恐怖政治が堂々行えるというものじゃ」
「天が許さないわ。神仏が……」
「天とはなんじゃ。天はわしじゃ。神仏はこのわしじゃ。妖によって人間界は牛耳られるのじゃ。これを見よ!」
そう言って家斉が手を上げ、指を振るわせると、江戸城の屋根瓦が観音開きに翻り、一匹の龍が飛び出した。龍はいななきながら雷鳴の轟く灰色の空を鷹のように飛び回った。そしてそれは、江戸市中の上空を飛びまわり、瞬く間のうちに、飛鳥山の山頂に飛び乗ったのであった。
村民が家屋から飛び出してきて、その恐ろしい姿を見て、あれやこれやと騒いでいる。
「こんなことすれば、徳川家斉が妖に乗っ取られていることはすべての大名家、そして旗本に知られるはずよ」
と茜は家斉に指摘したが、彼はふふっと笑っているばかりで呑気な顔をしている。
「知られたところでどうなるというのじゃ。異を唱える者あらば、御家取り潰しにしてしまえば良い話。今にみておれ。人間たちよ。今に震え慄くことになる。天保の改革を断行してみせる」
茜は、天保の改革という言葉が耳慣れなかったので、背筋がぞおっとした。
「それはどんな改革なの……」
「まずは庶民たちの贅沢を禁じ、倹約令を断行する。歌舞伎等の芝居小屋は浅草に飛ばしてやるわ。市川団十郎は追放する。寄席も駄目だ。そうやって庶民に絶対に抗えない幕府の権力をしっかり味わわせるのだ。そして農村から出てきた百姓には人返し令を発令し、農村に返し、土地に縛りつけて、重い年貢をせしめてみせる。そして江戸近辺の大名領を、幕府の直轄地にして、軍事力を高める。あとはこれだけの破壊力を持つ江戸城があるのだから、異国船打払令を緩めて、飲料水と燃料ぐらいは異国船に与えてやるのもいいのだろう。勿論、いつ断行できるかはわからないが……」
そんなことを語り終えると、徳川家斉はにんまりと笑った。




