第五十七話 草鞋の跡
栄之助が唖然として、不動明王の涙の伝う顔を食い入るように見つめていると、背後で若い男性の声が響いた。
「白露ですよ。神変などではありません」
栄之助がその声に驚いて振り返ると、そこに美しく整っている顔の年若い僧侶が袈裟を斜め掛けで、一人立っていた。
「しかし仏像が濡れることなど滅多にありませんでしょうに」
と栄之助は自分の感動を否定されたのが不快だったので、重々しい声を即座に響かせた。それと同時に、人気のなかった寺院に人があったことに意表を突かれて、たじろいだ心が彼の声を余計に震わせていた。
「この寺ではよくあることです」
と若い僧侶の声はどこか冷ややかだった。
「この宿場に人気がないのはどうしてです」
「妖のせいです。今は昼間だから分かりませんでしようが、夜にもなれば、魑魅魍魎の巣窟と化します。住民は皆どこかへ逃げてしまいました」
「以前、妖退治をしているくノ一が一人いたはずですが……」
「そのくノ一は、ある時から妖に取り憑かれたようになり、この寺の住職である鉄海を誘惑し、しばらく若奥様と呼ばれて居着いていましたが、突然、気が変わったらしく、鉄海を殺害すると、どこかへ旅立ってしまいました」
「茜が……」
あまり信じたくない話ではあった。茜ならたとえ妖に取り憑かれたとしても、そんなことはしないだろう。しかし居合わせたわけでもない栄之助には否定することもできない。
「それからしばらくこの宿場に妖は現れなくなりました。しかしこの数週間のうちに、再び魑魅魍魎が現れて、現在のような有り様です……」
若い僧侶は、見ると般若心経を手にしていた。そして栄之助の前を擦り抜けるように歩くと、不動明王の前に坐して、黙々と読経の準備を始めている。栄之助は気まずくなって、それ以上、僧侶に何も問わずに本堂からゆっくりと歩み出てきた。扉の外側で、栄之助が振り返ると、若い僧侶の伸びやかな美しい読経の声がすでに響き始めていた。
「茜は今、江戸城にいるのか……」
栄之助は純粋な心で、茜に会いたい、と思った。そして茜が今どのような状況にあるのか、もしも不幸な目に遭っているのならそれはこの宿場に茜を残してきた自分のせいだ、とも思った。後悔の念が起こり、青空の下、美しい読経の声を耳にしながら、栄之助は山門の壁に寄り添って座っていた。
(茜、茜、茜……)
栄之助がうつむくと、地面には自分の草鞋の跡が残っていた。




