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第五十六話 不動明王の黒い涙

 ユズナの思いつきから、人質の杏奈を失った三人は少しばかり仲を悪くしながら、そのまま甲州街道を下って行った。そして、三人の旅人は、かつて茜が逗留し、妖を殲滅した宿場町に辿り着いた。


 栄之助は、土埃の舞い立つ宿場町の辻を歩きながら、数ヶ月前のことを思い出した。

(茜か……。今頃どうしているかな……)

 栄之助は思い立つと、ふたりを置いて、あの旅籠屋に駆け込んで、主人を訪ねた。しかし旅籠屋の引き戸を開くと中は伽藍堂で、人の気配もなかった。

(もうやっていないのか。どうしたのだろう。旅籠屋の親子は……)

 囲炉裏に歩み寄って、それがしばらく使われていないことを確認すると、栄之助は嫌な気がして、旅籠屋を飛び出し、坂の上の補陀落山金剛寺へと向かった。


 補陀落山金剛寺もまた以前とは雰囲気が異なっていた。人の気配がないのである。石段を登って、本堂に飛び込むと、賽銭箱の先に丈六の不動明王像が坐している。

(一体、何が起こったのだ……)

 すると堂内に一匹の狐が入ってきた。狐は堂内を一巡してから近付いてきて座り込み、栄之助の顔をじっと見つめている。


「お前は……」

「お前とは、お侍は口の利き方がわかってないね」

 と狐が口を効いた。栄之助は口の利き方を知らない侍だが、この狐は口の利き方を知っている狐ということである。


「それは百姓にも言われたな。それで其方は妖狐の類か」

「妖狐とは失礼千万。稲荷神の眷属の狐であるぞ」

 そう言われて栄之助の心は怯み、一歩後退りをした後、畏敬の念をもって、土だらけの堂内に正座をした。

「それは失礼を致しました。非礼をどうか御赦しください。して、稲荷神の眷属の御狐様が拙者にどのような御用で……」

「くノ一の茜と雫に関することだ」

「なに、茜の……」

 栄之助は目を見開いて、じっと狐の顔を見据える。


「よく聞きたまえ。若侍。松林辰影が妖を祓うため、茜の妹の雫を神田神社の境内でそそのかしたのは、実にこの狐である。それゆえに雫が捕縛された後、彗星の如く天空を一巡し、武家屋敷の結界を解いたのもこのわたしなのだ。ところが忍びたちの試みはすべて失策に終わり、いまや松林辰影の神通力は天にも昇り、その魔の手は地をも伝う、人の心は邪鬼に奪われて救いようもない。辰影が妖は、江戸城の将軍に成りすまして彼を疑うものもいない。そして茜と雫の姉妹は、その江戸城で囚われの身となっておる」

 狐の言うことはこのようなことであった。

「茜とその妹が、江戸城に囚われているのだな…….」

 栄之助は悲嘆に暮れて、またしても刀の柄に手を触れた。


「そればかりではない。いまや江戸城の天守閣は偽りの天守だ。石垣ごと浮遊して動き、四方には大筒を構えておる。その威力は石山をも破壊する。その後につむじ風が起こる。それに対抗するために北条氏康の霊魂を呼び起こして、小田原城にて迎え撃つのだ……」

 稲荷神社の眷属を名乗る狐は、そんな夢の如きことを語る。栄之助は、真に受けるべきか否か悩んだ。江戸城が浮遊するなど、常識ではとても信用するに足らない話だ。


(しかし、常識では捉えようもないことがすでに起きているではないか……)

 と栄之助は、喋る狐を見ながら思った。

「よく考えることだな……」

 狐はそう言うと、本堂から跳び出るようにして消えてしまった。驚いた栄之助が視線で狐の行方を追うと、入り口の向こう側の景色は、ただ眩しく静かなばかりである。床を見ると、小さなつむじ風が堂内を駆け巡っていた。

 栄之助は、はっとして不動明王像を見上げた。片目から涙が溢れ落ちている。その雫はまるで墨を吸ったように真っ黒であった。

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