第五十五話 杏奈の気持ち
冷たい朝靄の中、杏奈を壺型の棺桶の中に入れて三人は、馬車を引きながら信州の宿場町を出立した。
「こんな怪しげな一団も他にないだろうね。棺桶を馬車で引っ張ってんだから」
とユズナは不満げに言った。なるほど荷台に棺桶が乗っているのは目立つことこの上ない。しかし他に良い手があるだろうか、と栄之助は首を傾げた。
山道をゆく馬車の荷台はよく揺れる。棺桶の中の杏奈も酔っているのか、猿轡を噛ませてあっても、苦しげな声が少しずつ漏れてくるのが聴こえる。
しばらく歩いたところで、今にも倒れそうな茶店があったので、一同はそこで茶漬けを食べることにした。三人は夢中で茶漬け飯を掻き込んでいた。
しばらくしてユズナは、茶漬けの茶碗をひとつ持って、馬車の荷台へと歩み寄り、棺桶の蓋をそっと開いた。
ユズナが、中を覗き込むと縄で括られた杏奈が、襟を着崩して、その若々しい体に汗を伝わせていた。
「腹が減っただろう。この茶漬けでも食べな」
そう言われた杏奈は、鋭くユズナを睨みつけながら、縄が解かれると茶漬けの茶碗を受け取った。そして箸を突き立てて米を一度に掻き込んだ。杏奈は、汁を飲み込んでから、手の甲で口を拭うと、
「こんな馬鹿な旅に付き合わされるのは御免なんだが……」
と低い声で言った。
「あんたは人質なんだ。宿場にひとり残してゆくわけにはいかないからさ」
とユズナが言うと、へんっと杏奈は唾を吐き捨てて、従順ではない態度を示した。それをユズナはじっと見据えていたが、杏奈を縄で縛り直すと茶碗を持って、その場を後にした。
(面白くない女だ……。栄之助は一体いつまでこんなお荷物持って歩く気だろう……)
ユズナはずっと不満に思っていた。
その夜、三人は野宿をすることにして、杉林の中で焚き火をしながら、雑魚寝をしていた。ふたりの男が寝静まった後、杏奈の放り込まれている壺型の棺桶がガタガタと揺れているので、ユズナは座った姿勢で一晩過ごさせるのも気の毒になって、忍び寄って棺桶の蓋を開いた。
棺桶が倒れて、縄で縛られた杏奈が転がり出てくる。猿轡を外すと、杏奈はやはりユズナを睨んでいる。
(不思議な美しさをもった女だ……)
とはじめてユズナは、杏奈を見て思った。焚き火の赤い光が、杏奈の何者にも服従したくないという表情を美しく彩っていた。
「あんたは何故、松林辰影なんかに味方するんだい?」
とユズナが尋ねた。
「人質を尋問かい」
「いや、ただ気になってさ」
「誰の味方とかそんなことは関係ないんだ。そこには死が存在しているから。わたしは取り憑かれた。わたしを丸呑みにしてしまった。あなたが気がついていないだけさ。わたしたちはいつだって死と隣り合わせで暮らしているんだ。朝起きて井戸で顔を洗って、それで朝餉を食べて、田植えをする。みんな同じように生きて死んでゆく。変わらぬ日々が続いてゆく。そこに死が忍び寄るんだ」
「生きるということを失ってゆく」
「観念としての死が、わたしたちの生活を彩ってゆく。だから茜は……わたしの幼なじみがそんな生活を嫌がって一人旅に出たのは、あの子はきっと生きたかったのさ」
「生きたかった……」
「幼い頃のふたり。川のせせらぎの中にわたしたちの見知らぬ夢の世界があった。今、わたしの手が川の底まで探っても、そこには何もない。ただ気怠いうつつのうちに一生が終わってしまう。でもそうするしかないのさ。いつのまにか、ただわたしは隠密と成り下がって死に取り憑かれ、茜は生を取り戻そうとして今やどこにいるとも知れない風来坊。一体どちらが本当なのか。わたしには何もわからない……」
杏奈は突然、泣き叫ぶような声を上げると狂ったように笑い続けた。しばらくしてその声は枯れたように虚空に消えてしまった。
その瞬間、ユズナは鎖鎌を手に取って飛び退ると、杏奈を叩き斬った。
切れたのは縄だけだった。杏奈は、縄を振り解いて、即座に立ち上がった。そしてユズナの顔をじっと睨みつけて沈黙。
「生きてみな」
とユズナが叫んだ。
「わからぬなら分かるまで生きてみることだ」
その刹那、杏奈はニヤッと笑うと、猿のように飛び上がって、木の枝をいくつも蹴ると、森の中へと消えていった……。




