第五十四話 小猿問答
「円海和尚と藩士の辻井栄之助だな……」
と坐しているユズナが重々しく口を開いた。姫の口調ではない。やはり元の萩姫には戻っていないようだ。しかし山賊の頭であった頃の傍若無人ぶりは感じられない。第一、その毅然とした座り姿といったら、まさに藩主の娘である。
「萩姫でございますか……」
「わたしは萩姫でもあり、山賊の頭ユズナでもある。またそのいずれでもないとも言える。ふたつの魂はわたしの体の中でゆく当てもなく彷徨っている……」
そう言うとユズナはすくっと立ち上がって、
「機は熟したと言えるだろう。間もなく江戸市中は妖の呪力に包まれることになる。父に取り憑いた妖は、今度は将軍徳川家斉までも操り人形にしてしまった。今、日本国は死の翳りに冷たくなっている。それが飢饉という形で現れてくる。すでに予兆は起こっている。近年の冷害を見よ……」
と凄みのこもった低い声で、堰を切ったように早口に語った。
「将軍が操り人形に……。その言葉がまことなら、我々にはもはや打つ手がない……」
と怯んだ栄之助の声。するとぴしゃりと鞭打ちするような鋭い声でユズナが叫んだ。
「頭を使え。ここにユズナ様がいるじゃないか。所詮、人間萩姫には何もできぬ。しかしこのユズナは魑魅魍魎の類だぞ。指を振ればつむじ風が起こる。鎖鎌が手に入れば、いとも容易く敵の頭は真っ二つじゃ。それ、栄之助、お主も刀を持て。江戸城に乗り込むのだ……!」
「それは狂気の沙汰です。江戸城は天下一の城郭です」
と栄之助は、この化け物とも、姫君ともつかぬおなごをどうにか宥めようとした。
「待ちなさい。辻井栄之助。君が言っていることももっともじゃが、この姫君が言っていることも無視できまい。将軍徳川家斉が妖の操り人形と化しているのなら、どのみち江戸城を攻略せにゃならん話じゃ……」
と円海和尚はそう言って欠けた歯を見せてケタケタと笑うと、
「三人で江戸へゆこう。話はそれからじゃ。こんな信州の片田舎にいては何もできん……」
と言って、ふたりの顔をじろりと睨みつけた。
「それで、寺の穴蔵に閉じ込めているくノ一の杏奈とやらはどうします。あれを連れて江戸に行くわけにはいきません」
と栄之助は杏奈のことを思い返して、円海にそんなことを尋ねた。
「せっかく手に入れた人質をみすみす逃すわけにはゆかぬ。必ず使い時というものがあるものじゃ」
そうは言ってもな、と栄之助は思って怪訝な表情で首を傾げる。
「わしらは江戸へゆく。人質を連れてな……」
円海がそう言ってケタケタと笑うので、ユズナと栄之助は顔を見合わせた。
卍
杏奈は、土蔵の中で両腕を縄で縛られて、あぐらをかいて座っていたが、しばらく辰影の支配から離れているせいか、心がわずかに楽になっていた。
「おいっ、くノ一」
突然、頭の上で風変わりに高い声が響いたので、杏奈を驚いて見上げた。家具の上に一匹の小猿が乗って、杏奈をじっと見つめているではないか。
「なんだ、猿か……」
「なんだとはなんだ。おいらのことを覚えていないのか」
杏奈はじっとその猿の顔を見ていた。そしてふっと頭の中で思い当たるものがあった。
「お前、あの時の妖怪か……」
「そうだ。お前が退治しようとしたあの小猿の妖怪さ。お前がいなければ、おいらは茜と会うこともなかった。その点ではおいらは感謝しているわけだね」
「お人よしだな。猿のくせに……」
「冗談ゆうねぇ。捕縛されているくせに……」
その小猿というのは三平だった。三平はひょいっと家具から飛び降りて、杏奈に歩み寄る。杏奈はけだものとばかりに素足で蹴ろうとするが、三平の輝いている瞳を見ると気が引けて、自分からずりっと柱の方へと引き下がった。
「近づくんじゃない。お猿」
「おいらは確かにお猿だよ。それはそれとして、お姉さんに訊きたいことがある。一体、お姉さんは死んでいるのか、生きているのか」
と小猿の問答が始まる。
「わたしは死人と変わりないよ。だってそうだろ。松林辰影が妖に取り憑かれたものは……。死に取り憑かれているのも同然なんだからね……」
と杏奈が言うと、ふうんっと小猿は頷いた。
「でも死んでるわけじゃないんだろ、死んでるみたいなだけで。もし松林辰影が妖に取り憑かれたとしても、生きてゆくことはできるんじゃないか」
「そうかね。たとえば、茜は生きていて、わたしは死んでいる。生きるっていうことはね。自分らしく生きるってことなんだ。わたしはそんなものとっくの昔に捨てたんだ。それから後は川底に沈んだ死人と変わらないのさ……」
そういうと杏奈は奇妙な泣き笑いを浮かべた。ひどく虚しく思えた。そして一人、ぽつねんと土蔵に取り残されていたのだ。
(猿の幻だったのか……)
杏奈は床を足の裏で探った。するとそこには猿の毛のようなものが落ちていた。
(いや確かにここに小猿はいた……)
そう思った時、土蔵の観音開きの扉が開いて、日の光が差してきた。




