第五十三話 萩姫
辻井栄之助と円海和尚のふたりは、霧深き山の奥へと足を踏み入れた。そこには、ユズナがいるはずであった。そしてそのユズナこそ、鯉沼藩の藩主辰影の娘、萩姫なのだった。
杉林の奥の谷間は、今や幽玄な霧の立ちこめる山村となっていた。
今、辻井栄之助は木の根に足をとられながら、判別のつけ難いぬかるんだ坂道をどうにか下っているところである。
(無事でいてくれるとよいが……)
ひとりの老人がふたりの下っている辻の先に立っていた。彼は、いぶかしげな表情を浮かべ、ふたりの顔を執拗に見比べている。
「もし、老人……」
と栄之助が声をかけた。
「指の動きひとつで稲穂を実らせたというおなごはどこにいる……」
「お侍えは口の効き方がわからねえとみえる」
と老人が眉をひそめて吐き捨てるように言ったので、栄之助は姿勢を正した。
「すまなかった。しかしおなごがここにいるはずだが……」
「お探しのおなごなら百姓代の屋敷にかくまわれているよ。しかしあれは妖の類だね。この頃はどこでも不作が続いている。重宝すると言ってみんな神様扱いだ……」
「そうだ。妖の類だ。不吉なものだから我々が連れて帰る。その方がお前たちにとっても良いだろう……」
「へんっ。百姓代の権兵衛が離さねえよ。自分の亡くなった子供が今頃帰ってきたような気になって、やたら目をかけているんだ……」
「そうか」
栄之助は頷くと、腰の刀に手を当てて、いざとなったらこれの出番だ、と思った。
「構わん。その百姓代の権兵衛とやらの屋敷に案内しろ……」
老人は栄之助の横柄な態度が気に食わないらしく、唾を吐き捨てると、曲がった背中をこちらに向けて、どこかへと歩き出した。なるほど。季節でもないのに田んぼには稲穂が実っている。栄之助はその異様な眺めに目を奪われながら、老人の後を追った。円海和尚も杖をつきながら、ふたりの背後を歩いてきていた。
すると藁葺き屋根の屋敷が建っていて、その縁側に人の良さそうな老人が座っていた。
「権兵衛。このお侍えが、あの娘っ子に会わせろ、だとよ……」
「なんだと。あの子は余所者には会わせねぇ。あれは俺の娘だ……」
とその老人が顔を皺くちゃにして乾いた声で怒鳴るように言った。
「顔を見るだけだ。無理に連れ帰ることはない。一体どこにいる……」
「会わせねぇ。会わせねぇ……」
栄之助が刀の柄に指を触れたところで、後ろに立っていた円海和尚が一歩足を踏み出して、ふたりの老人に向かって言った。
「ちょっと都で流行り病があってね。その娘がかかっていないか、みないといけないんだよ」
そう言われると、老人たちは娘を隠しておくわけにもいかない。もしも連れ込んだ娘のせいで、村に流行り病が広まったら、それこそ一大事になってしまう。天保の世は、飢饉の予兆もあり、なにか不吉な雰囲気が充満している。それこそ病が流行りそうな陰鬱な気配が至るところに漂っていた。
「わかったよ。中へ入れ……」
そう言われて栄之助と円海和尚のふたりは、入り口の奥の土間から座敷に上がった。神が祀られている奥座敷に、百姓の地味な色合いの着物を着て、小さくしゃがんでいるユズナの姿があった。その美しい顔を見ると、もはや疑いの余地はない、まさに萩姫その人なのだった……。




