第五十一話 江戸城の怪異
茜と雫のふたりが、将軍徳川家斉の座敷に呼ばれたのは、老中と面会した夜のことであった。その夜は、江戸城のまわりを蝙蝠が飛び交い、外堀では鯉が跳ねて慌ただしく、一帯が不穏な空気に包まれていた。
「この先が将軍様の住まい、中奥じゃ…….」
老中はそう言って、ふたりを案内した。
ふたりは、ユズナ討伐の手柄で、将軍御目見えの許しを得たのだが、出自の曖昧なくノ一に将軍が面会することなどまったく前例のない話で、ふたりが違和感を抱かなかったのは、とんでもない不注意だったと言える。
茜と雫のふたりは、冷えた座敷に残されて、なかなか将軍が現れないので、不躾にあぐらをかきながら、将軍の座敷の襖に描かれている猛虎を眺めていた。その絵の虎は、血走ったまなこを大きく開いて、今まさに飛びかかろうとしているかの如く、茜をじっと睨みつけている。
(まるで生きているみたいだ……。きっと名のある絵師が描いたのだろう……)
茜は、絵師について詳しく知らない。ただ狩野派の絵師の数名知っているだけだった。
(人を呑みそうな虎だ……)
茜がそう思った刹那、その虎が絵から飛び出してきた。虎は大きな口から牙を剥き出しにして、また両前足の爪で覆いかぶさるように。茜は驚いて飛び退ると、虎は座敷の真ん中に飛び降りて猫のように丸くなったかと思うと忽ち消えてしまった。
(なんだ。将軍様は妖術が使えるのか……?)
茜がはっとして隣を見ると、茫然と立ち尽くしている雫の顔があった。
「おかしいね……」
「一体、将軍様は何を考えているのだろう……」
すると座敷がガタガタと揺れ始めた。ふたりは慌てて畳に伏せた。観音開きの窓の外の眺めが変わってゆく。すぐに茜たちは自分たちのいる座敷が夜空を飛んでいることに気づいた。
「幻術だ!」
と茜が叫ぶと言下に雫が否定した。
「違う! 本当に飛んでいる」
江戸城の一棟が夜空を飛んでいるなんて、絵巻物でも見たことがない、あまりにも奇妙な気分だ。
(狐に化かされているみたいだ……)
茜はどうしたらよいかわからずに窓の外を見た。黒雲に包まれており、強い雨が降ってきたようだった。龍の叫び声のような雷鳴が轟き、座敷は独楽のように回転を始めた。ふたりは叫び声を上げながら、畳の上を転がった。雫の悲鳴が響いている。このまま、この座敷はどこへと行ってしまうのか。
「まずい。雫、このままじゃまずい……」
窓の外を見ると、豪雨の中で一匹の龍が飛んでいる。
茜が、あっと声を上げると、その龍が雷を発しながら、人の姿に変化し、空中に直立したまま、窓へと近づいてくるのだった。するりと猫のように入ってきた。よく見るとその人物は、将軍しか着ることのない紫色の長直垂を着ており、六十を過ぎたくらいの威厳のある風貌をしている男性であった。
「あなたは…….」
「わしか。わしは将軍徳川家斉じゃ」
「違うわ。あなたの正体は、松林辰影ね…….」
「さよう。お察しの通りだ」
「それじゃ本物の将軍様はどこに……」
「今わしが取り憑かれているこの体が徳川家斉のものよ。魂はすやすやと眠っておる……」
茜は愕然としてその場に座り込んだ。ついに将軍にまで妖は乗り移ってしまったのだ。雫も項垂れてしゃがんでしまった。
将軍家斉が、座敷に上がった時から、激しい揺れはぴたりとおさまり、座敷全体が滑空する鷹のように穏やかな調子になった。
「ほれ、落雁でも食べるか。ふはは。ふたりとも将軍を前にして硬くなっているようだな……」
「ねえ、この御座敷は一体全体どこへと向かっているの」
「霊界の大地にそびえるわしの城じゃ。江戸城の天守閣を模して作られた五層の大天守だ……」
将軍家斉はケタケタと笑って、ふたりの前に座り込むと、手の中の落雁をひょいと自分の口の中に放り込んだ。
「風魔一族の残党め。さんざん手こずらせおって……。しかしもはやそちらはわしの手中に落ちたも同然じゃ。観念せい……」
三人を乗せた座敷は、黒雲の中を天翔ていた。しばらくして座敷が黒雲を抜けると、窓の外には、荒涼とした大地が広がり、灰色の空の下、石垣の反り立つ上に五層の大天守がそびえ建っているのが見えてきた。
「あれが……」
「わしの城じゃ。妖魔改造江戸城じゃ……。わしら妖たちの住むところじゃ。そしてお前たちの住まいにもなるところじゃ……。この座敷はまもなくあの江戸城に連結する」
家斉の語る通り、三人を乗せた座敷は、妖魔江戸城へと接近していった。そしてわずかに回転しながら、石垣よりも遥か高みにとどまり、江戸城から突き出た渡り廊下に入り口が連結した。
「到着じゃ……」
そう言って家斉は笑うと長直垂の埃をぱっぱっと払って、立ち上がったのであった。




