第四十九話 徳川家斉の疑問
ユズナは、暗夜の岩山の上で再び仁王立ちになると、茜と雫が攻めてくるのはどこかと周囲の山林に視線を彷徨わせていた。
たちまち突風が起こった。ユズナの風ではない。それは茜が起こした風で、ユズナの前方から一気に吹き荒れた。ユズナは負けじと風を呼び起こして、それを呑み込んだ。二つの風は渦を巻いて消えてしまった。
その刹那、側面から茜が日本刀で斬りかかってきたので、ユズナは飛び退って、すかさず分銅を放つと勢いよく回転させた。
「小癪な……」
その刹那、どこから飛んできたものか、手裏剣が分銅を打ち鳴らした。
分銅が宙に浮き上がって、一瞬の真空が生まれたようだった。
その隙をついて、茜が日本刀で勢いよく斬りかかった。ユズナはさらに引き下がりながら、左手の鎌の刃を振るった。茜は日本刀ごと弾き返されて、鈍い音を響かせると、よろめきつつ二、三歩後退りした。
「今だ……」
すぐにユズナは指を振って、突風を起こし、自らその風に飛び乗ると上空へと浮かび上がったのである。
(一旦、距離を取ろう……)
ユズナは上空を吹きすさぶ風に乗って、風神の如く岩山のまわりを周回した。
岩山の傍らにある山林、杉の巨木に梟のようにとまっているおなごを見つけると、ユズナは突風と一体のまま、嵐のように吹き荒れた。
おなごというのは雫だったのだが、ユズナの突風は土を膨らませ、根っこを剥ぎ取り、杉の巨木を雫ごと空へと舞い上げる。この時、ユズナの分銅の鎖はすでに雫の胴体を搦め捕っていた。
「観念しなっ!」
とユズナが空中で雫を切り裂こうと、鎖を引っ張ったその時、突風の中に茜が飛び込んできた。刀身を光ったかと思うと、ユズナの鎖が叩き斬られて、ユズナはすぐさま鎌を握りしめた瞬間、
(蜘蛛八が死んだ……)
そんな直感が頭を走り抜けた。ユズナは、宙に浮かんだまま一瞬頭が真っ白になった。
「まずい……」
ユズナはすぐさま鎌の刃を盾にした。刃が触れ合って鈍い音を立てた。しかし茜の猛烈な波動はユズナの体に伝わり、彼女は塵の如く山林の奥へと吹き飛ばされていった。
卍
天保年間の江戸は、庶民文化の繁栄を極めた文化文政時代の直後で、これより日本国が傾き始めるその予兆に満ちていた。
これから先、日本国においては天保の大飢饉が待ち受けていたし、これまでも異国船が往来することに幕府内で不安が高まっていた。異国船打ち払い令が発令されていた。不安定な社会は、大塩平八郎の乱を引き起こす。そしてそれは水野忠邦の天保の改革へとつながってゆく。天保とはそんな狂気と苦しみに満ちた時代である。
そんな時代に、将軍徳川家斉は今、妖に取り憑かれていた。
それはあの松林辰影に取り憑いている妖で、妖の病原体は、鯉沼藩から江戸城へと伝染したといって良い。
徳川家斉は丑三つ時、曇り空の下、江戸城中奥の座敷、そっと窓の隙間から、外の様子を窺った。忍者七人衆のひとりが烏のような黒装束で窓の外にしゃがんでいるのだった。
「どうだった。萩姫は捕まえたか……」
「それが上様……。確かに萩姫を捕縛したのでありますが、下諏訪宿の寺の蔵に放り込んで、取り調べをしようとしましたところ、乾いた土になってしまいました」
と黒装束の忍びが言うので、家斉は顔を顰めた。
「泥人形だったと言うのか」
「ええ。おそらく我々の目を欺くための……」
そこまで聞いて、家斉は袖に腕を通すと静かに考え込んだ。
(さすが円海。わしを欺くとはなかなかやるな……)
「そればかりか、赤影が斬り殺されて、円海和尚に杏奈を奪われました……」
「杏奈が人質に取られたと申すか。このたわけ!」
とさすがに徳川家斉も声を荒げる。このままでは七人衆が五人衆になってしまう。正直、赤影はどうでも良かったが、くノ一の杏奈は妖のお気に入りだった。
「しかし現在の状況はわしに味方しておる。こうして将軍徳川家斉に乗り移ることができた以上、もはや日本国はわしのものじゃ……」
そう言って、徳川家斉であり松林辰影である妖は不気味な笑い声を上げた。しかし、そこでぴたりと笑いが止まる。
「しかしだ。それでは本物の萩姫はどこにいるんだ……?」
忍者は何と答えてよいかわからぬ顔でしゃがんでいる。
徳川家斉は少し唸ると考え込む。萩姫が姿を消した頃、突然どこからともなく現れたおなごがひとりいたことを思い出した。
(まさか……)
家斉は慌てて首を横に振った。




