第四十七話 旋風を呼び起こすおなご
半月が雲に隠れた夜半、ユズナは、砦と化した岩山の洞窟の中で、螺鈿の輝くキセルで煙草をぷかぷかと吸い、豊潤な乳房の谷間を露わにした真紅の浴衣を羽織っていたが、ただならぬ気配を感じ取ってすっと立ち上がった。
(ただならぬ気配がする。これは風魔の忍びだな……。しかしどこにいるのか分からない……)
ユズナの砦は、先日から再び旗本の軍勢に包囲されている状態にあった。それでもやはり彼らは少しも手を出せなかったのである。二回目の力攻めでも、旗本の軍勢は無数の死者を出したので、それ以降、地道な包囲戦を決め込んでいた。
「山賊たちじゃどうにもならない。このあたしが出よう……」
ユズナはひとりでそう呟いて、円形の木戸を開いて、窓のような丸穴から岩壁へと這い出た。そしてごつごつとした岩壁をよじ登って、岩山の頂上に飛び出た。仁王立ちであたりを見回すと、なるほど気配を消している旗本の軍勢が無数に隠れているのが分かる。岩山のユズナの姿を見て、動揺が走っているのもよく分かった。
(ふふふ……。雑魚にゃあ用はないよ……)
ユズナはにんまりと微笑むと、指を振るって、突風を巻き起こした。山の木々がごうごうと音を鳴らして化け物のように揺れ動く。その突風に煽られて、竹束も巻き上げられ、砦攻略のための仕掛けはすっかり丸裸になってしまった。……その時。
(むっ……頭上に敵……!)
ユズナは、はっとして見上げると、すかさず岩山の上で兎のように後ろに飛び退った。
刹那、岩上で手裏剣が鈍い音を立てて跳ね飛んだと思うと、ひとりのくノ一が日本刀を握りしめ、上空より飛び降りてきて逆袈裟斬り。ユズナは鎖の先の分銅でそれを軽くいなして、さらに距離を取った。
「あなたは……」
ユズナは驚きつつ、相手の顔をまじまじと見つめた。目の前に立っているのは美しいおなごである。
「わたしは茜よ。風魔忍者の……」
なんだくノ一か……とユズナは、わずかに癪に障った。この砦でひとり、美しい女王のように振る舞っているユズナには、美しいおなごの登場はただただ邪魔者と思えた。
「あたしを殺そうってわけね……」
「将軍様の御命令でね。勿論、あなたが降伏するってゆうのなら違うけれど……」
と茜は、涼しい顔で言っている。そもそも茜はユズナに個人的な恨みなどなかった。それでも幕府に頼みごとに従ったのは、あくまでも萩姫と辻井栄之助を見つけるためだった。
先日、茜と雫が旅籠屋に逗留していると、ふたりの甲賀者と思しき御庭番が尋ねてきた。
その御庭番は、「ユズナの山賊衆を崩壊に至らしめれば何でも褒美を遣わす」といい「これは将軍徳川家斉様の直々の御命令である」ということを重々しい口調で述べた。
茜と雫は、この忙しい時に、と渋った。しかし御庭番は一歩も引かなかった。そこでふたりは、萩姫と辻井栄之助を探すことに幕府も協力すること、鯉沼藩の松林辰影について幕府が調査すること、といったいくつかの要求を、条件として提示した。
これを最終的に幕府側がのんだので、茜と雫のふたりは、ユズナの山賊衆討伐に打って出たのであった。
そんなことはユズナには関係のない話だった。凄腕のくノ一の突然の登場に、ユズナはただ危険を感じ、鎖鎌を両手に持って、片方の分銅を音を鳴らして回し始めた。
(さあ、仕掛けてくるなら、こいつの餌食だよ……)
茜は、日本刀を前方に構えて、殺気を消していたかと思うと、一気に飛び込んできた。
その刹那、ユズナは右手を差し出して、さっと分銅を飛ばしたかと思うと、茜の日本刀を鎖で巻き込もうとした。
茜は即座に刀身を振るい、間一髪で避けると、日本刀で突きをしようと勢いよく踏み込む。
(あれを避けたっ……!)
ユズナは驚いて、宙に飛ばした分銅を慌てて我が身に引き寄せながら、もう一方の手で、茜に鎌を打ち込もうとする。
(いや、近すぎる……)
懐に飛び込んでくる茜の刀身の方が速いと知ると同時に、ユズナは岩肌を蹴って、猫のようにしなやかな体を前方へ飛ばした。
おかげで茜の突きは間一髪、真紅の浴衣を突き刺しただけ。直後、ユズナは茜の背後で受け身を取っていた。
「あれを避けるとはね……」
と茜が冷ややかな口調で感想を述べたので、ユズナは不気味に思った。
(こんなくノ一がいたとはね……)
ユズナは、さっと手をついて側転すると、たちまちつむじ風を起こして、茜を浮かび上がらせた。
「舞い上げちゃえばこっちのものよ……!」
茜は旋回する風の中で、宙に上がっていった。ユズナの目から見ても、茜は身動きが取れず、日本刀も手から離れてゆきそうだった。その突風の中をユズナは下から接近してゆくのであった。右手に鎌の刃が光っていて、これを食らわせばひとたまりもないだろう。
「これで終わりだ……!」
とユズナが茜の首元に刃を近付けた時、自分の足首を掴む手があって、一気に引き離された。
驚いて、下を見ると、幼い顔つきのおなごがユズナの足首を掴んでいた。右手には小刀が握りしめられている。それは雫だった。
「もうひとりいたか……!」
ユズナが分銅を飛ばして、雫を牽制すると、茜がすかさず蜻蛉返りして、日本刀の刀身を振るったので、ユズナは鎌の刃で応戦した。
「ええい!」
ユズナは逆風を起こして、ふたりを散り散りにすると、岩山の上に飛び降り、岩壁を滑り降り、窓の穴の中へ飛び込んだ。
途端、砦の結界は一段と強くなって、ふたりのくノ一は一旦、この場から引き下がったようだった。




