第四十三話 旗本の軍勢
その夜、萩姫と円海和尚は、付近の山村に泊まることにした。ふたりは今、あの藩主松林辰影をはじめとする鯉沼藩の妖たちに追われている身だ。どうにか見つからずに江戸に出たいと思っていた。
ふたりは今夜、田の字の間取りの昔ながらの民家に泊まることになった。ここの主人は与作という人の良い百姓だった。彼は病のために妻と子に先立たれた気の毒な中年の男であった。彼は、ふたりに座敷を譲ると、自分は馬小屋で眠るということだった。
西の彼方に、日が暮れてきていた。
萩姫は、囲炉裏のある座敷で、箱膳に乗せられた百姓らしい麦飯にとろろをかけた夕餉を箸ですくって食べている。姫は、清楚なその外見の通り、箸で掻き込むということができないらしく、ひどく時間がかかっていた。
「その召し上がり方だと夜もふけましょう。このように掻き込むのですよ」
と円海和尚は手真似をし、笑って言った。
「わたくし、そのような食べ方をしたことがありませんので……」
といって萩姫は、ふとなにかに気がついて箸を置いた。
「梟かしら……」
「どうもそのようですな……」
丁寧に米を摘んで食べている萩姫を眺めて、円海和尚は眉をひそめた。
「武士のお家というのはさぞ堅苦しいところと見えますな」
「まあ、お坊さんだってお行儀にはうるさいことでしょう」
「拙僧は、破戒僧のゆえ、そんなことは気にしたことがありませなんだ」
そう言うと、歯の欠けた口を大きく開いて、円海和尚はけたたましく笑った。
そして和尚は、茶碗にもられた麦飯をとろろごと、カタカタと箸で音を鳴らしながら啜り食った。そして味噌汁を音を立ててすする。沢庵も箸で摘んで口に放り込むとポリポリと噛み潰した。
「それで、山賊の件はどうしましょう。渡し賃を払わないと街道を抜けることすらできないそうですけれど……」
「まあ、お待ちなさい。あそこで数日も足止めを喰らい、素性を洗われると鯉沼藩の妖たちにあなたのことが知れましょう。それよりも山賊があの場に巣食っていることを幕府が知れば、旗本が駆り出され、必ずやあの山賊らを殲滅いたしましょう。その混乱に乗じて街道を通り抜ければよいのです」
「そんなの……いつになるのか分かりませんわ」
「いえ、すぐのことです。そうですな。明日にでもきっと夜討ちがありましょう。というのは、甲州街道を幕府の旗本の部隊がおよそ百騎、今こちらに向かって進軍してきているということですから……」
そう言って、円海和尚はけたけたと笑った。一体いつの間にそんな情報を得たのだろう、と萩姫は思うが、そこは怪僧である。
その言葉を聞いて、萩姫はわずかに安心したようだった。
(それならば、すぐに山賊らは殲滅されてしまうだろう……)
一刻も早く、この円海和尚を連れて、鯉沼藩邸に戻らないといけない。それ以外に、妖に取り憑かれた藩主の父親を助ける手立てはないと萩姫は思っていた。
一刻の後、萩姫はひとりで、畳の上に腰掛け、布団をかけて眠ろうとしたが、はっとなにかに気がついて縁側に駆け出した。
杉の木の上に、人影があったのである。
しかしそれはすぐに消えてしまった。
(誰だろう。おなごのようだった……)
おなごの幻を見たようだった。くノ一のようにも思える。それとも山賊の頭になったというおなごがこんなところまで様子を見に来たのだろうか。
(父上に取り憑いた妖に仕えているくノ一の偵察なら、すぐにこの場を離れないといけない……)
しかし萩姫には、円海和尚がいるのだから大丈夫だろう、という心の余裕もあった。
(どうなるか……)
萩姫は、それから急に眠たくなって、布団に戻ると、もう自分が何をしているのか分からなくなった。
その夜、山賊の洞窟には、いつもの如く多くの無頼漢が巣食っていたが、その頭をつとめるユズナは可憐で妖艶なおなごである。
今、砦と化した洞窟の一室にある温泉の間で、ユズナは、天然の湯船に浸かってひとりくつろうでいる。
湯の中であぐらをかいて、ぐいっと背伸びをすると、手鞠のような両の乳房が水面から浮き出たような形になった。
(良い湯だ……)
そこに犬吉が走り込んできたので、流石の大胆なユズナもさすがに湯に身を隠した。
「ユズナ様」
「なんだい。犬吉……」
「幕府の旗本衆が百騎、街道をこちらに進軍してきているようです」
「ふうん。それでここに着くのは……」
「明日になりましょう」
「まあ、いいさ。そのくらいならなんとなる。仕掛けに仕掛けをこらしたこの砦はそうやすやすと落ちやしないさ……」
「へえ。でえじょうぶでしょうか……」
「まあ、あたしにまかせな……」
ユズナはそう言いながら熱い湯の中で、丸々とした筋肉質な左右の尻をもぞりと横に動かすと、痒み走ったのか、長い爪で素肌を引っ掻いた。
「早速、若い連中を街道沿いに立たせて、逐一異変を知らせるようにするんだ。おかしなやつがいたらすぐに知られるように」
「へい……。それがどうも様子のおかしなことには御武家の娘と老僧が一組……」
「老僧?」
「妙な旅人でして、この付近の山村に泊まったようですが、なにかただものじゃねえような面した坊主だったそうで……」
「弱腰になるんじゃないよ。ただの年寄りの坊主じゃないの……あたしが言っているのは忍びのことだよ。そいつらが何者か調べている余裕はないよ。あんたは今夜中に砦を固めておくんだね」
犬吉は冷や汗をかいて頷くと、この部屋を飛び出していった。
「面白くなってきたね」
そう言いながら、ユズナはふと頭に痛みを覚えた。そして「うっ」と苦しく叫ぶと、立ち上がろうとして湯の中でもがいた。
(この痛みはなんだ……)
なにか忘れている気がする。その忘れていることを思い出そうとすると頭がひどく痛むのであった。
(それにしても百騎の軍勢とはね。なに、幕府の旗本がなんだ。今にユズナの妖術の凄まじさを見せつけてやる……)
ユズナは湯から上がると、汗を拭って、さっと着物を羽織り、鎖鎌を取り出すと、洞窟の窓から夜の街道を見下ろした。




