第四話 若き剣客と二人の盗賊
茜は先日、妖を退治したのにも関わらず、この宿場に只ならぬ妖気が漂っているので、しばらく逗留することに決め、それから幾日か経った。
その日は、雨が降り、もう日も暮れかけていた。茜は、旅籠屋の二階の座敷に座り込んで、窓から往来を見下ろしていた。雨水にぬかるんだ道を、笠を被った人々が慌てた足取りで歩いてくる。茜の目には、それは風情のある眺めと映った。
茜は今、旅籠賃を取られていない。旅籠の主人からしてみれば、茜は娘の命の恩人であるから、旅籠賃は取れないのだと言う。その言葉に甘えて、茜はこの部屋に居座っている。
(そうしながら、妖が動き出すのを待っている……)
しかし、なかなか動かない。しかし確実に大きな妖気が脈動している。どこからそれが感じられるのかは分からない。
茜は、先ほど一階の箪笥の中で見つけ、何とはなしに持ってきた葛飾北斎の浮世絵を、畳に広げて眺めることにした。それは、井戸の中より、ろくろ首が顔を出している絵だった。
(なぜ今の世になって、妖がこんなに増えたのか……)
それは徳川の世が傾いてきたからであろう。世が傾けば、おかしな出来事が巷に溢れる。当然、災いも増える。
妖は、天明の飢饉あたりから増える一方である。またおかしくなってきている。水面下で、世が乱れてきているのかもしれない。そんな時に妖は出る。
茜がそんなことを考えながら、一階に降りると、そこに主人の姿はなかった。女将が勝手場で竃に向かい料理しているだけだ。
座敷には、猿の三平が、ねじれ鉢巻をして、筆に墨をつけ、書をしたためている。物珍しさから、茜は近付き、上から覗き込むと、猿が文字を書くというだけでも、立派な見世物になりそうなのに、なかなかの達筆なのである。
「何書いてるの?」
「うん。見るかい?」
そこには二文字「吉祥」と記されている。
「ふうん」
と茜は笑って、ぽいとその紙を三平に放り返した。
「上手いだろ」
「猿にしてはね」
三平はあまり褒められなかったせいか、つまらなそうな表情をした。
その時、木戸がガラッと音を立てて開いた。笠を被った羽織姿の侍が、ふらふらと土間に入ってくる。役者のような色白の優男だが、鋭い眼光。彼が入ってきた時、ちょうど女将は皿を取りに、奥に引っ込んでいた。侍は、あたりを見まわすと、ちらりと茜の顔を見る。
「おなご。この旅籠の主人は、どこにいる?」
茜は、そう言えばどこに出ているんだろうと首を傾げる。
「さあ……」
「まあ、いい。この旅籠に決めた。俺はここに泊まる」
そう宣言すると、荷物を下ろし、手拭で体を拭き、座り込んで草鞋を脱ぎ始める。茜は咄嗟に、図々しくて嫌な男だと思った。
遅れて女将が現れ、侍は二言、三言告げた。
「部屋に案内するのは後でいい。まずは暖まりたい」
侍は足をたらいで洗うと、座敷に上がって、囲炉裏の側に座ると、高価な煙管を取り出し、そして瀬戸物の火入れのある煙草盆を前にして、一服した。
「猿が一匹いるな……」
そう言うと侍は、怪訝な顔をして目を背けた。猿についてもっと尋ねてきても良さそうなものだが……。
「ねえ、悪くこと言わないけど、もっと良い旅籠に泊まったら?」
と茜は小さな声で言った。嫌な客だと思ったから追い払おうという寸法だ。
「何故だ」
「ここのご主人は、この宿場で一番のしみったれなのよ」
「………」
侍はそんなことか、と吐き捨てるように目を背けた。
「構わぬ。それよりも、俺はあまり人目に付きたくないんだ。繁盛していない旅籠の方が都合がよい」
「なにか理由があるの?」
侍は、ちらりと茜を睨むと答えなかった。
しばらく侍は、煙管で一服していると、間が持たなくなったらしく、囲炉裏を眺めながらぼそり。
「ここの娘か?」
「ううん、わたしはただの旅人……」
「連れはいるのか?」
「そこのお猿さんだけ……」
「ふん。じゃあ、おなごの一人旅か。危険じゃないか?」
「そうかな……」
「危険だよ」
侍はそう断言すると、ようやく面を上げ、茜の顔をまじまじと見つめた。茜は、間近で見ると素晴らしい器量である。侍は驚いて、浮世絵の美人でも眺めているような気持ちになった。そこで、侍ははっとして、邪念を振り払うように視線を外した。
「どうしたの?」
茜が尋ねると、侍は不機嫌そうに、
「俺は今、おなごに構っている暇などない」
と怒った声を出した。
「何を怒ってるの?」
茜は微笑んだ。そして、この意固地な侍は、なんだか扱いやすそうな気がした。
「ねえ、名前は何ていうの?」
「辻井栄之助……」
そこで主人が帰ってきた。大きな酒徳利を抱えている。酒が足りなくなったものらしい。二人の会話はそこで終わった。
二人組の盗賊がこの旅籠屋に押し入ったのは、その夜のことだった。雨が降る夜は物音が聴こえ辛い。彼らは、疾風のように押し寄せて、木戸を金具で壊すと、行灯の灯もない座敷に上がって、金目の物を探した。
主人は、誰より早く起きて、これに気付き、あっと叫んで、誰かを呼ぼうとしたが、躍りかかってきた盗賊に殴られて、あっという間に縄で縛り上げられた。遅れて、隣の座敷にいた女将と娘も起き出してきたが、一緒に捕縛された。
盗賊が、行灯に灯をともした。黒塗りの漆のようだった部屋が、ぼんやりと浮かび上がってみえた。
「勘弁してくだせえ……」
主人がめそめそ泣き始める。
「うるせぇ。黙らねぇか。それよりもこっちは水っ腹だ。なんか食い物ぁねえか」
「そこの鍋に煮物が入っているのと冷えた握り飯が少し……」
「それでいいんだ。おい、熊助。取ってこい!」
と手燭を片手に、刀をもう片手に持った小柄な盗賊が、熊のような大柄の盗賊に怒鳴る。
「あいよ。取ってくりゃあ良いんだろ。烏丸の兄貴はすぐ怒鳴るから嫌だぜ」
こういうことが起こっているのを二階からすぐに察せるのが、真の侍と忍びというもので、茜は盗賊の匂いを感じた時、すでに布団の中にいなかった。
辻井栄之助は、この事態に、息を潜めて刀の柄を手に握ると、一目散に階段を駆け下り、盗賊の前に躍り出た。
「なんだ、こいつは! 熊助、戻ってこい!」
二人組の盗賊は、突然の侍の登場に恐れをなしたらしく、刀を盲滅法に振り回して、こちらを威嚇してくる。栄之助も、人質が取られているとあっては手が出せない。
「どうする?」
栄之助は、そう自問しながら、じりじりと間合いを詰めてゆく。
「おい、それ以上、近付かんじゃねえ!」
盗賊の烏丸が主人の首根っこを掴んだ。
「こいつがどうなってもいいのか!人質は三人。一人二人試しに叩き斬ってもいいんだぜ」
こうしてはいられないと、栄之助はさらに詰めて、思い切り斬りかかろうとする。
「おい、やっちまえ!」
盗賊の熊助が主人の脳天、目がけて刀を振り下ろした。が、あっとつんざく声を上げ、刀を落とし、手を抑えたまま、畳に転がり落ちた。熊助は、ふらふら立ち上がって、掲げた手の甲には、手裏剣が突き刺さり、鮮血がほとばしっている。
「誰だ、こんなもん投げたのは!」
盗賊が天井を見上げると、梁の間に、茜が蜘蛛のように張り付いている。
「お前!」
その刹那、懐に飛び込んできた栄之助の刀身が宙を舞い、盗賊の熊助が土間に崩れ落ちた。
この展開に、もう一人の盗賊は、悲鳴を上げ、外に逃げ出そうとするが、栄之助が走って追いかけ、背中を稲妻のように叩き斬った。
「若き剣客と二人の盗賊」完