第三十九話 風魔小太郎という乱波
相州、足柄峠の裏手に風魔一族の隠れ里はあった。
風魔小太郎とは、五代に渡ってこの関東の地を支配した後北条氏に仕えた風魔忍者の首長であり、数々の目覚ましい戦功をおさめてきた稀代の大忍者である。
時は戦国。
永禄三年、毘沙門天に帰依する軍神、上杉謙信、この時はまだ長尾景虎と名乗っていたこの越後の大大名は、関東への出兵を決心し、軍勢を引き連れ、雪降る三国峠を越えると、上州の岩下城、沼田城、厩橋城を瞬く間のうちに攻略してしまった。
北条氏康はこの侵攻を食い止めるためにすぐさま武州河越城に入城した。
景虎は、関東全域に目を光らせながら、上州厩橋城で年を越した。
そして反北条勢力が次第に決起したのを見て、ついに全軍を動かし始めたのだった。
景虎の軍勢は、数多の反北条勢力を吸収し十万余りの大軍勢へと膨れ上がりながら、さらに南下した。
そして後北条氏の居城、小田原城を包囲し、城下町に攻め込んだのは永禄四年のことであった。
ところがこの時、景虎であっても小田原城の曲輪は如何とも突破出来ない堅固さを誇っていた。
また城の三方は大池に囲まれており、そこには逆茂木が植え込まれている難所と化していた。
これを突破しようとする部隊は、たちまち弓兵の餌食となった。
それどころか、小田原城の内部にはまだ主力の部隊が戦力を温存している状態で、来るべき一大逆襲に備えていることが予想される。
その逆襲が始まる時期とは、景虎の軍勢の物資が不足し、戦意が低下し、組織の内部から朽ち始める時である。
そして、それはすでに始まっていた……。
景虎は夜半、陣中の寝所で深く考え込んでいる。
「ええい……。これほどの軍勢でありながら手も足も出せぬとは……」
そこに家臣の一人が走り込んできた。
「親方様。奇妙な知らせがございます」
「どうしたというのだ」
景虎はじろりと家臣を睨みつけた。
「乱波でございます」
「乱波?」
当時、忍びのことを乱波と呼んでいた。
「布陣している我が軍勢に少数ながら夜討ちしてくるものがありました。おそらく北条方の風魔忍者かと…….」
「すぐに斬り捨てればよかろう……」
「それが瞬く間のうちに姿をくらましてしまいまして」
「ふむ」
景虎は腕を組んで考え込む。
「十五年前の河越合戦の折り、やはり風魔忍者の奇襲があったと聞く。氏康はあの重厚な曲輪のうちに籠りながらも、風魔忍者を駆使し、わしらの内情をすべて知り尽くしておるというわけだ」
そう言うと景虎はなにかに気付き、さっと太刀を抜いて、勢いよく宙に振り抜いた。
すると空中から転がり落ちてきた者があった。
それは六尺もの身長の大男、漆黒の忍びの装束に身を包んでいる。さっと受け身を取ると日本刀を抜いた。
その眼光の鋭さ、まさに夜叉のようである。
家臣は驚いて、尻込みをしたが、すぐに日本刀を抜いた。
しかしそれを景虎は右手で制し、
「風魔の大将だな……」
そう言って大男に歩み寄ろうとする。
「さよう。拙者は、風魔小太郎と申す者」
「敵の間者とあれば生かしてはおけぬ。もっとも……」
景虎はにやりと笑う。
「そう容易く斬り捨てられる男とも思えぬ」
景虎は太刀を振るって、小太郎を斬り捨てようとしたが、その時、小太郎は影のみを残して、すでに外を駆けていた。
この夜に、景虎の軍を撹乱したのもこの風魔小太郎という男の手下であった。風魔忍者の度重なる奇襲攻撃を受けて、長尾軍は次第に疲弊してきているのだった。
景虎の軍は一月に渡る小田原城包囲の後に、ついに攻略を諦めて、付近の村に火を放ってこの地を離れ、古都、鎌倉へと向かった。
「ずいぶんと手強い敵だ。まさかここまで打って出てくるとはな。しかし、そちの乱波としての働きには、目を見張るものがあったぞ」
そう言って、北条氏康は呼び出した小太郎を褒め称えた。
「い、いえ、どうも……」
「しかし、やらねばならぬことはまだ沢山ある。まだ景虎は鎌倉にいるようであるし、景虎が上杉姓を名乗るとなれば、ますます関東攻略に乗り出すことになろう。油断はならぬ。さらに今度のことで、武州の多くの国衆が景虎側に寝返った。これを再び手中におさめねばならぬのだ」
「乱波の仕事ならば、拙者にお任せくだされ」
そう言って、小太郎は平伏した。
ところで、風魔一族の里は今、足柄峠にはない。豊臣秀吉軍の小田原征伐の際に壊滅し、武州に移ったのだ。
その里も、妖の襲撃を受けて、今では跡形もなくなってしまった。
さて、風魔小太郎の末裔に、茜と雫はいた。
ふたりは風魔一族の復興を目指し、江戸天保の世を駆けている。
これはそんなお話である。




