第三十八話 水幻塔の戦い (7)
茜が日本刀を鞘にしまったその時、湯に浮かぶ梅華の死骸から一気に鮮血が噴き出し、あたりの湯を真っ赤に染めてしまった。そしてその赤い色は次第に湯全体に広がりはじめる。
(これは一体なんの妖術だ……)
茜はまだ痺れの幾分残った体でふらふらと立ち上がると、元来た回廊をゆっくり歩いていった。そうしている間にも湯という湯が鮮血に変化してゆく。赤々と燃える提灯の妖しさと相俟って、目が痛くなるほどの真紅の世界だった。
湯殿の入り口まで戻ってくると雫が茫然と立ち尽くしていた。
「お姉ちゃん。どこに行っていたの!」
「たった今、梅華を斬ってきた。はやくここから出よう……」
「えっ。う、うん……」
茜は脱ぎ捨てていた着物を羽織って帯を締めると、率先して帰り道の水の中へと飛び込んだ。ふたりは鯉のように水中を泳いで、再び大講堂に戻り、壮大な水車の下に戻ってきた。梅華の心臓と連携して回っていた水車は今や死んでしまったように静止している。
「この幻術は主を失った今、ただ虚ろな空間に澱んでいる妖気そのものだ。間もなく幻術は解かれるだろう……」
と茜は言いながら雫の方を振り向いた。
「わたしたちは戦いに勝ったんだよ……」
それでも雫は首を傾げている。
「でも不思議。わたしが行った先には梅華の姿はなかった。お姉ちゃんは一体どこで梅華と会ったの?」
「きっと雫が聞いた足音のような響きは、鹿おどしの水音だったのだろうね。わたしは泳いでゆく途中でいくつもそういうものを見たよ……。だからわたしたちはまったく違うところへ向かっていったんだ……」
その時だった。水幻塔が大きく揺れ始めた。まるで地震である。ふたりは驚いて、水車を見上げると、崩落しそうな気配があったので、水幻塔の外へと一目散に飛び出した。ふたりが橋を走って背後を振り返ると、水幻塔の白い壁には無数の大穴が空いたらしく、そこから鮮血の如き水流が噴き出していた。
「鞠乃は大丈夫かな」
と雫が心配そうに言うと、
「この幻術が解かれれば助かるだろう……」
と茜は答えた。
しばらくしていると、水幻塔を包み込んでいる霧が次第に濃くなってきた。そして瞬く間のうちにもう一寸先も見えない状況になってしまった。
(霧がすべてを覆い隠してゆく……)
すると遥か遠くの方から、鐘の音がゴーンゴーンと響いてきた。梅華の生前の記憶だろうか、茜にはその意味がわからなかった。
茜ははっとして瞼を開いた。自分が倒れているところはどこなのか、起き上がって見まわすと、そこは薄暗い地下牢の中であった。隣には妹の雫が倒れている。ふたりとも着物は元通りになっていた。
雫の先には、手枷や首枷によって宙吊りにされた鞠乃の無惨な姿がある。鉄格子の扉が半開きになっていてその向こうに梯子が見えている。
(幻術を打ち破ったんだ……)
茜はそう思って、ふらふらと立ち上がり、拘束中の鞠乃に歩み寄って手枷を外した。鞠乃はぐったりと床に倒れ込む。
「わたしたち助かったんだね……」
茜は背後から投げかけられた声に振り返る。雫が立っていた。茜は微笑み静かに頷くと、すぐに表情を引き締めて、
「さあ、こうしてはいられない。敵の大将が来るよ。すぐにここから出よう!」
と叫んだ。
卍
藩主松林辰影ら、魑魅魍魎の大名行列が如き一群が大名屋敷に駆けつけた時、そこには無数の死骸が転がっているばかり。手中に収まっていたはずのくノ一はひとりも残っていなかったという。




