第三十七話 水幻塔の戦い (6)
「う、うううう……」
茜は、全身を伝わる痺れに苦しみの声を漏らし打ち震えている。次第に毒が体内をまわってきて、このままではまったく動けなくなってしまうのだ。梅華は、というと自分で朗々と語っていた霊泉とやら浸かって、治癒してしまうことだろう。そうなれば、今度こそ茜はあのくノ一にとどめを刺されてしまう。
(どうにかしないと……。霊泉のありかは……。でも、梅華はこの水幻塔の地下に溜まっていると語っていた。もしそれが真実であるならば……)
雫は、考えていても仕方がないと、痺れに苦しむ茜を背負うと三度、水幻塔の中に走り込んでいった。そして雫は足下の水槽の中をそっと見下ろした。すると梅華らしき人影が、障子堀のようになった格子状の一画の中へと泳いで入ってゆくのが見えたのである。
(ああ。きっと、あの先に霊泉があるんだな……)
雫はそう思うと、姉を抱えて水槽に飛び込み、茜の弱った体を手で引き寄せながら、格子の中へと泳いでいったのだった。細い通路の先、あるところまでくると水が尽きて、暗い地下室のようなところにふたりは上がった。
(ここは……)
その先は、曲線を描いた薄暗い回廊のようになっていて、赤く塗られた提灯がいくつも天井から下がって続いており、床には緑色の温泉が腰の高さまで溜まっているのだった。
「つまり、これが梅華の言っていた霊泉なんだ。お姉ちゃん、助かったよ……」
「よ、よかった。それじゃ、わたしをそのお湯に浸けて……」
雫は、姉の鎖が縫い込まれている帯をほどき、ところどころ破れている着物を脱がせて、痺れに打ち震える美麗な裸体を緑色の湯に優しく沈めたのだった。
茜は瞼を閉じて、ふうっと息を漏らした。少し体の痺れが楽になったのだろう。
「梅華もこの回廊のどこかで湯に浸かっているのかもしれない。仕留めるなら今だね……」
雫はそう言いながらあたりを見まわす。すると回廊の先から不思議な足音のようなものが響いてきた。
「あれかもしれない。お姉ちゃん。わたし行ってくるね」
「ふ、深追いは駄目だよ……」
「でも、もし梅華が治癒したら、また同じことになってしまう。大丈夫だよ。わたしに任せて…….」
そう言うと雫は、着物を黒く濡らし、腰まで湯に浸かったまま、勢いよく走って行ってしまったのだった。
茜はふらふらしながら、妹の姿を見つめていたが、すぐに湯に浮かぶ自分の美しい裸体に視線を落とした。着物という支えを失った胸が緑色の湯の中で小さく震えて息づいている。まだ強烈な痺れに包まれていて、茜は身動きが取れない。
「ふう……」
茜は汗を滴らせた。霊泉の効能で、全身から汗が滴ってくるのである。茜は瞼を閉じた。
しばらくして茜は、雫が戻ってこないことを不思議に思い始めた。一体なにが起きているのだろう。そう思った茜は、体の痺れが残っているにも関わらず、少しずつ湯の中を泳いで、回廊を進んで行った。しばらくゆくと回廊は十字に分かれていて、どの方向に雫がいるのか分からなくなってしまった。するとまたあの不思議な足音のようなものが右手から響いてきた。茜はさらにそこに向かって、泳いでゆくことにした。
するとしばらくして茜が出たのは円形の大広間で、赤提灯がいくつも吊り下げられており、壁には、唐の霧深き霊山と鳳凰と亀が描かれていて、四方の樋から湯が滝の如く降り注いでいるのだった。その真ん中に、あぐらをかいている梅華の姿があるではないか。
「よくここが分かったね……」
「雫は……?」
「知らないよ」
すると違う部屋にいるのかもしれない、と茜は思った。
「ねえ、一時休戦といかないかい。どうせこんな体じゃどちらも戦えやしないんだ。敵とはいえくノ一同士、風呂に浸かって、腹のうちをすっかり喋るとしようじゃないか……」
「うん。そうね……」
「気持ちのよい湯だろう? このお湯はね、わたしの生き血なんだよ」
「生き血……?」
「そう。血。そもそもこの水幻塔はね、わたしの体の分身なんだよ。だからこうして至るところにこうしてわたしの血がめぐっている。それで、あなたたちが見た大講堂の水車はわたしの心臓なんだ。鞠乃が吊るされているのはわたしの頭ん中ってわけ……」
「なるほどね。そうやって自分の体を巨大な仏塔のように分身させて、そこに敵を誘き寄せるってわけ……」
「まあね。何も無しにここまでの壮大な幻を作り上げるのは体に負担がかかるからね。わたしの体を模して作ったってわけ。まあ、あなたにこんな話をしても仕方ないけれど……」
「それほどの術が使える忍びがなぜ、妖なんかに手を貸すの?」
と茜はずっと抱えていた疑念をぶつけた。
「辰影様に惚れたからさ。あの人は「死」そのものなんだよ。あなたも無駄な抵抗なんかしないで、側室になって、あの人に可愛がられりゃよかったんだよ。そうすればすっかり「死」の虜になってしまうんだからさ」
「松林辰影とは何者なの……」
「ただの妖じゃないよ。あの人に魅力されるってことは「死ぬこと」なんだ。そして「死」に取り憑かれることなんだよ。それがあの人の側室になるってことだし、そうすれば、あなただって辰影様に惚れ抜いてしまうんだよ……」
(すると……)
茜は、はっとして梅華に尋ねた。
「あなたはすでに死んでいるの?」
梅華は悲しげに笑った。
「そう。わたしはすでに死んでいる身の上さ。わたしは忍びをしていた頃、傷を負って川に沈んだのさ。そしてその水の中で辰影様にはじめて出会ったんだ。わたしはそこではじめて「死ぬこと」が怖くなくなったんだよ……。なぜならばその「死」がとても素晴らしいものだったから。辰影様がわたしに甘く囁いてくれたんだ。わたしと一緒になろうと言ってくれた。わたしはそのまま辰影様と共に、人を甘美なる死の世界に誘うことにすべてを捧げようと思ったんだ」
梅華のその迫ってくるような美しい裸体を拝むとすでに死んでいるとは到底思われないのだが、話を聞いているうち、茜はだんだんと松林辰影の正体が分かってきた。
「わかった。あなたの言う通り、松林辰影とは「死」そのものなんだね……。だから辰影の側室になるということは「人間らしい生」を捨てると言うこと……。それはわたしにはできない選択だった……。なぜならわたしは生きたいから……」
茜はそう言うと、梅華は鋭い声を上げた。
「そろそろ霊泉が効いてくる時間だね。あなたが先か、わたしが先か。先に治癒した方がこの争いの勝者となる……」
「そうね……」
茜は、次第に体の痺れが消えてゆくのを感じた。それが分かると、そっと湯の中に隠しながら茜は日本刀を生み出していた。
「わたし、あなたのことがとても嫌いだわ」
と梅華が呟いた。
「どうして?」
「生の気配がきついから……」
その刹那、梅華は湯を舞い上げ、跳び上がりながら、隠し持っていた薙刀を一気に振り下ろした。
が、茜はその時すでに抜いた日本刀を宙でしならせていたのだった。
血まみれになった梅華は、激しく湯に落下し、泡を立てながらたちまち沈んでしまった。




