第三十五話 水幻塔の戦い (4)
幻八は、鯉沼藩の大名屋敷の鶯張りの廊下を歩きながら、夜空を見上げたり、虎の描かれた襖を眺めたりしていたが、結局のところ、奥座敷に一向に立ち入れずに焦らされているのだった。奥座敷には、鞠乃の捕縛されている地下牢に立ち入れぬように、強烈な結界が張られていたのである。
「我々の手ではどうすることもできんな。この結界は地下牢の内と外とを完全に遮断してしまっている。この様子では、鞠乃を助けることはおろか、雫を外に連れ出すこともできないだろう」
幻八は誰に対してでもなくそう苦々しく呟くと、背後に立っている仲間の忍びたちの方に振り返る。
皆、争いに疲れた様子の、返り血を浴びた忍者たちであった。その数は十二人というところだろう。外には物見が三人立っている。幻八が散り散りとなっている仲間たちに、鞠乃のことを伝えたところ、この人数が各地から駆けつけたのである。
「幻八さん。大変だ。北面の見張りをしていた忍びが、ふたりの妖を取り逃した。彼奴ら、甲州街道にいる松林辰影に知らせに行ったと見える」
と幻八のもとに駆けつけたひとりの忍びが早口で述べたので、幻八はぎょっとして睨みつける。
「こうはしていられない! 辰影がこの惨状を知って引き返してくる前にここから退散しなければ……」
「ここで待ち受けて籠城戦というのも手だよ」
と普段は大奥女中として慎重に忍び込んでいる情報屋の鈴音がこの時ばかり、大胆なことを言ったので、幻八の顔色がさっと変わった。
「無茶なことを言うな。風魔一族の残党をわずかに寄せ集めただけのこの手勢で何ができる。我らに残されている希望はたった一つ……」
「たった今、地下牢に入っていった子のことかい?」
と鈴音は尋ねる。
「うん。あの子こそ、唯一の頼みの綱だ。結界の外側にいる我々に助け出す手段が何一つ残されていない以上、先程、この結界をひとり通過することができたひとりのくノ一に雫と鞠乃の生死を託す他ない。くノ一の梅華の幻術は、水幻塔という幻の中に誘い込んだ獲物をなぶり殺してしまうもので、その梅華と争ってあの姉妹が勝ちさえすれば……」
「しかし、なぜあの子は今になって舞い戻ってきたのだろう……」
「辻井栄之助という男を探しにこの大名屋敷に来たのだとか言っていたが、その人物が何者かはわからない……」
「ねえ、抜け忍のあの子に任せていいんだろうかね……」
「それはわからないが、里自体が壊滅している今、我々に黴の生えた里の掟を遵守する必要はないだろう。それにたとい抜け忍であっても、さすがにこの場で実の妹を裏切るようなまねはしないだろう。いずれにせよ、この結界を越えられたのはあの子だけだ。今となっては梅華を倒せるのはあの姉妹しかいない……」
幻八はそう言うと、松林辰影を恐れてか、再び物見に出る。
今よりわずか四半刻前、大名屋敷の廊下で死闘を繰り広げていた幻八らの前に、一人のうら若きくノ一が現れた。そのおなごを見た時、幻八はてっきり紬と思ってしまった。ところがそれは紬ではなくて、抜け忍の茜だったのである……。
(茜は、辻井栄之助という侍に会うためにこの魚沼藩の藩邸にやってきたと言っていた。しかし結界の張られた地下牢の中に妹がいることを知ると、茜はただひとりその結界を破って、雫を助けに中に入って行ったんだ……)
幻八は、まだ夢でも見ているかのような気持ちだった。




