第三十四話 水幻塔の戦い (3)
水幻塔の四角い穴から出て、白緑色の水中を泳いでいる雫の目には、前方で揺れ動いている紬の美しい足が映っていた。
(でも紬はなんで戻ってきてくれたのだろう……)
考えてみると、それは不思議なことだった。
紬が、こんな他人事に命にかけるとは到底思えない。
その時、雫は湖底から白く細長い手が何本も伸びていることに気がついた。それらはこちらを撫でるように優しく他靡いている。それらのうちの一本が突如、雫の足首を掴んだかと思うと、深いところまで勢いよく引きずり込もうとした。雫は慌てて小刀を取り出すと、それらの手を瞬時に切り落とした。切断された手はどす黒い血を漂わせながら、波に揉まれて離れていった。
(この美しい幻想の中にも、こんなに恐ろしい死が彷徨っている……)
この白い手は、おそらく梅華の幻術にかかって命を落とした人々の魂の一片だろう、と雫は思った。
すると湖中の靄の中で、右手に薙刀を握りしめ、左手で印を結んだ状態の梅華が、こちらに向かって脅威の速さで泳いでくる姿が雫の目に映った。
無数の気泡に包まれているその姿は、いよいよこの世のものとは思えない凄まじさである。
(まずい……)
水中戦となれば、向こうの方が圧倒的に有利である。そもそも雫は水遁の術を得意としていない。
雫は、あえて湖底の岩に足の裏をつけると、梅華が薙刀を振り回して飛び込んできたその瞬間に、ひょいっと水中で、後ろに宙返りをした。
梅華は急に止まれないらしく、雫を仕留めるのを諦めるとその先にいる紬に鮫のように襲いかかる。紬は日本刀を抜き、梅華の薙刀の刃を鋭く打ち返した。
ふたりは二匹の美しい鯉のように、水中でくるりと旋回する。
(ふたりが争っている……)
雫は、ふたりに向かって泳いでいく。岩の影に隠れて、梅華の鋼鉄の晒しをよく観察した。するとわかったことがあり、鋼鉄の晒しというのは、前後と上下三段とで合わせて六つの鉄板を金色の金具で繋ぎ止めているだけのようであった。
(あの金具を狙って打撃を与えれば、外すことができるんじゃないか……)
そう思い立った雫は、手裏剣を握りしめ、梅華の腹に当たる鉄板の金具に狙いを定める。
(水中で手裏剣を当てられるか……)
雫は精神を統一する。
梅華はその時、にやりと微笑みを浮かべ、逃げようと背を向けた紬を狙い、薙刀を振るったが、着物がまたしても裂けただけであった。
ところが、紬の露わになったその美しい背中には、本来あるはずの蜘蛛の入れ墨がなかったのである。
雫はそれを見て、あまりの驚きに、あっと声を上げそうになった。背中に蜘蛛の入れ墨が彫られていないとしたらあのおなごは紬ではないことになるではないか。ということは、あのおなごは……。
(そんな……)
しかし雫は、漏れ出す息を必死に抑えつつ、この機を逃すまいと手裏剣を投げた。
手裏剣は水中を意思を持っているように泳ぎまわり、梅華の前にまわり込むと、ほんの刹那、金色の金具を破壊し、尚も飛びまわった。
梅華は意表をつかれた様子で、薙刀を強く握りしめると、小魚を振り払うようにその手裏剣を打ち落とした。その拍子に、梅華の腹部を押さえていた鉄板の一枚が完全に外れて、湖中を彷徨っていた。
梅華は、忌々しそうに雫を睨むと、露わになった腹を撫でて、くるりと水中でまわると、再び深い靄の中へと消えていった。
雫は、その隙をつき湖上の橋に向かって浮かび上がるようにして泳いでいった。雫が、橋に両手をついて体を水から上げると、着物に染み込んだ多量の水が板の上を濡らした。灰色の空から雨が降ってきていた。
雫はすぐに振り返り、湖面に敵の影を探した。梅華の姿はまるで見えなかった。雫はそうしながらも、自分の背後にずっと紬と思っていたおなごがひとり、しゃがんでいるのを感じている……。
(お姉ちゃん……)
雫はそう心の中で呟いた。