第三十一話 茜に生き写しのおなご(4)
(もう三日目になろうとしている……)
雫はそう考えながら、地下牢の天井を見つめていた。
(どうなるのだろう……)
卍
(あれ、ここは……)
雫ははっとした。いつの間にか自分は泥沼の中にいて、自分の両足に大蛇が絡みついてきているのが見えた。大蛇は、雫のなめらかな肌を伝うようにして、その体をくねらせながら不気味に蠢いている。
(この不気味な化け物め!)
しかし、雫の体は痺れて動けなかった。すると突然、大蛇は圧倒的な力で雫を締めつけてきた。大蛇の口は上下に裂けて、真っ赤な口から二又になった舌が飛び出してくる。雫は恐怖で気を失いそうになる。雫は泥沼に絡め取られて、雫はたちまちその大蛇の餌食となってしまった……。
雫はそこで目を覚ました。全身に汗をかいている。あたりを見まわすと、いつもと変わらぬ地下牢で、隣には紬が眠りこけていた。雫はほっとする。ところが、鉄格子の向こうに不気味な外見の老僧が立って、蝋燭の灯りの中で、ニタニタと笑みを浮かべているではないか。
「あなたは……」
「わしは白幽じゃ」
「さては、あなたは僧侶の振りをした妖ね……」
「はっはっは。わしをどう捉えようとお前さんの勝手じゃ。雫、残念なことじゃが、お前さんの腹のうちはすべてお見通しじゃ。辰影様の側室になる振りをして、鞠乃を奪い返した上、隙を見て逃げ出そうとしていたのだろうが、そうはいかん。お前さんにはいくつもの誤算があった」
「何のことかしら……」
「まず第一に姉の茜を連れてくれば、鞠乃を解放してもらえると安易に思っていたのが誤算。あの辰影様がそうやすやすと、美しい女人を手放すはずがない……。第二に、辰影様の言いなりになれば、この大名屋敷を自由に歩きまわれるだろうと思い込んでおったのが誤算じゃ。ふたりとも辰影様の妖術によって、心の底から辰影様の虜になるまではずっと地下牢の中じゃ」
「ふん……」
雫は、この白幽の言っていることはもっともだと思った。たしかにいくつもの誤算があった。
「第三の誤算は、この大名屋敷には強力な結界が張られていて、外からのいかなる助けも期待できないということじゃ……」
雫は、その言葉に大きく項垂れた。幻八は本当に助けに来てくれるだろうか。白幽はケタケタと笑うといつのまにか姿を消していた。
卍
ところが状況が一変する事態が起こった。その夜、松林辰影のもとにとある知らせが舞い込んできたのである。
「なに。萩姫が見つかったというのか!」
白幽の忍者七人衆のひとりの話によれば、萩姫は現在、信州の下諏訪宿にいるという。萩姫というのは、辰影の失踪している娘である。しかし妖に取り憑かれた辰影にとっては、一刻も早く捕らえて、殺してしまわなければならない存在でもあった。
「よし。俺が自ら下諏訪宿に赴こう」
松林辰影は意を決し、すぐに準備を整えて、武具を揃えると、黒い馬に乗り、妖の家来を数多引き連れて、百鬼の夜行の如く、その夜、大名屋敷を出陣したのである。怪僧の白幽もこれにしたがった。紫色の光に包まれながら、この一群は空を駆けるようにして西の彼方に消えていった。これが丑三つ時のことであった。
卍
「辰影がこの屋敷からいなくなった……」
雫は地下牢の中から、その様子を察していた。今まで屋敷に渦巻いていた強力な妖気が一気に低下したのを感じる。これを好機と、雫は勿論、紬もむくりと起き上がる。
「ようやくこの時がおとずれたね……」
「でも、この屋敷は、まだ結界が張られているみたい。この地下牢からも容易に出ることはできない。術封じのお札も貼られているし……」
雫は悔しそうに壁に貼られた札を睨んだ。
これは外で待機をしている幻八たちもずっと前から手を焼いていることだった。屋敷に近付こうにも妖気が城壁のように取り囲んでいて、とても中に侵入できるものではない。この時の忍者衆の中には、幻八の他に、普段、大奥女中の振りをしている鈴音もいた。
(困った……。こうしているうちにまた辰影が戻ってきてしまう……)
ところが、幻八が悩んでいるその時であった。どこからともなく、閃光のようなものが現れて、夜空を一気に駆けめぐったのだった。それが、屋敷を包み込んでいる結界を打ち破り、紬と雫のいる地下牢の術封じをも打ち破ったのである。
(あれは一体なんだ……)
幻八はそれがなにかは分からなかったが、この機会を見逃すわけにはいかなかった。
(ついにその時が来たんだ……!)
幻八はそう確信した。
「よしっ! 今だ!」
幻八ら忍者たちは、一斉に鯉沼藩の上屋敷に突入した。
幻八らは、屋敷に踏み込むと、いたるところから飛び出してくる武士たちを次々と斬り殺していった。そして捕らわれの身の三人のくノ一を探し出そうと躍起になっていた。
「どこだ! どこにいる!」
卍
その頃、雫も術封じの札が破れたのを見て、地下牢の鉄格子を破り、外に出ようとしていた。雫は階段を駆け上がり、どんでん返しに飛び込み、板を回転させて、薄暗い座敷に勢いよく飛び出した。紬も後からどんでん返しをまわして出てくる。
ふたりが座敷に立っていると、廊下の先で、ひとりの侍が刀を抜いてこちらに慌てて走ってくるのが見えた。
すかさず紬が振りかぶり、畳を踏みしめると、侍は中庭に崩れ落ちた。その胸には手裏剣が刺さっている。
「それじゃ、鞠乃がどこにいるのか、すぐに探そう!」
雫は力んでいる様子で振り返るなり、紬に言った。
「雫。わたしはもうこのあたりでおさらばさせていただくわ」
「ええっ!」
雫は、紬のその言葉に驚いて、素っ頓狂な声を出してしまった。
「だって、わたしは鞠乃という人を知らないんだもの。こんなことに命はかけられないわ……」
「そう……」
雫はそう言われてみるとそれもそうだと思った。関係のない紬をこんな騒動に巻き込んだのは他ならぬ自分なのだ。
「あなたと過ごした時間、わずかだったけど楽しかったわ。本当に妹ができたみたいだった。それじゃお達者でね……」
そう言うと紬は悲しげに微笑んで、中庭に飛び出し、屋根の上へと跳び上がった。
雫は、その姿を見て、また姉がどこかに行ってしまうような気がした。
(今は感傷的になっている場合じゃない……)
雫はそう思うと、以前、鈴音から手渡された小刀を空中から拾うようにして手元に出現させた。そして屋敷の廊下を駆け出した。
雫は、幻八らが争っている声が響いてくるのとは反対の方へと進んでいった。同じところを探していても仕方ない。その時、不思議な色気のある声が雫の心に入り込むようにして聞こえてきた。
(ふふふ。雫。こちらにおいで。あなたのお探しのものがここにあるよ……)
雫はその言葉にぞっとして、小刀を握りしめた。
声のする方へと歩いていくとそこには、黒塗りの壁の異様な部屋があって、やはり黒塗りの板張りの床となっていたのであった。
(ただならぬ妖気を感じる……)
雫は、この板張りの床の下に、鞠乃のいる地下牢があることを確信した。
(雫。はやく助けにこないと、鞠乃が大変なことになるよ……)
雫は板張りの床を上に開いた。そして正方形の穴の中へと足を入れて、梯子を踏みしめると、下へと降りていった。
(霧だ……)
雫は梯子を降りれば降りるほど、濃い霧がかかっていることに気が付いた。そればかりではない。雫が降りたのは、地下牢ではなく、長く続いている桟橋の上で、そこは深い霧がかった広い湖の上のようだった。そしてその真ん中には奇妙な塔が天高くそびえていたのである。すでに雫は幻術の世界に誘い込まれたことを知った。こうして、雫はくノ一の梅華と争うことになったのであった。
「茜に生き写しのおなご(4)」完




