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第三話 旅籠屋の黒い影

 茜が、小猿の三平を連れて、甍の並んだ道を歩いていると、一際高級そうな旅籠屋が見えてきた。茜が上がろうとすると、気難しそうな店主に断られた。

「猿なんぞ連れて、入るでねえだ」

 と言われてしまったのだ。


 茜はやれやれと思った。三平がいなければこんなことにはならなかったのに。旅は道連れなどというが、分かったものではない。

 そこで一番安そうなオンボロ旅籠に入ると、そこの店主に思われる親父は気のいい人で、猿回しか何かと思ったらしく、快く受け入れてくれ、すぐに二階の部屋に案内してくれるということだった。

 しかし、親父はひどく浮かない顔をしていた。

「どうしたの?」

「いえ、別に、なんでもねえんです」

 親父はそう言いながら、悲しげな表情を床に向けて、二階に通じる階段を登った。


 茜は階段を登るとき、一階の座敷の奥に、女将さんとみえる女性の後ろ姿と娘さんらしき女子の姿を見つけた。どちらも首を垂れている。

(なにか、空気が重たく感じる)

 茜は不審に思った。

 茜は二階に上がって、襖を開けるとそこは八畳間であった。茜が畳を歩き、窓を開けると店の並んだ通りが見下ろせた。


「とてもいい部屋ね。ありがとう」

「へえ。それじゃ、風呂を先にしますか、それとも飯を先に……」

「汗かいちゃったからお風呂先にしようかな」

「そうですか。もう沸いておりますから、ご自由に。私はこれで……」

 親父は相変わらず青い顔を浮かべたまま、そそくさと部屋から出ていった。


「なんか、妙な親父だな……」

 と三平はいかにも不審げに親父の後ろ姿を見つめて囁いた。

「本当に変ね。まあ、いいわ。私、お風呂に入ってくるから。この部屋で待ってて」

「おいらも一緒に行く」

「あなたは駄目」

 茜は笑って言った。猿とはいえ、男子は男子である。


 一階に下りると、温泉でもなければ、大浴場でもなく、使い古された五右衛門風呂があった。

 外では、奉公人が頑張って火を炊き、湯を沸かしている。茜が着物を脱いで、つま先から湯に浸かると、ほっとため息をついた。湯気が狭い湯屋の中で立ち昇る。


(杏菜、どうしているかな……)


 茜は湯から上がり、肩やなめらかな腹から滴り落ちる湯を布で拭い、浴衣をまとった。

 二階へ戻ろうと廊下を歩いていると、なにか妙な音が聴こえた。茜は、いぶかしく思って、あたりを見まわすと、隣の座敷から女のすすり泣く声が聞こえていた。

(娘さんだ)

 と茜は思った。


 続いて、女将さんの頼もしい声も聞こえてきた。

「大丈夫だよ。たとえ、今夜、あの化け物が来ても、みすみすお前を渡したりしないからさ」

 すると親父の情けない声も聞こえてくる。

「でもよぉ、あんな化け物が本当に来ちまったら、俺たちにゃあ、どうすることもできねえ……」

「あんた、なに、気の弱いことを言ってるんだい。馬鹿! もっとお冬が安心するようなことが言えないの」

「でもよぉ、いくら今、安心したって、お冬が化け物に連れてかれちゃ、元も子もねえじゃねえか」

「畜生。何言ってるんだい。意気地が無いねぇ。これだから男は嫌だよ」

 女将さんは苦々しく言った。


 茜は、どうやら妖が出るらしいと察した。さっと障子を開けて、その部屋に入っていった。

 三人は驚いた様子で、茜を見上げた。

「お話は聞かせてもらいましたよ。一体なんなのですか。その化け物というのは……」

「あ、あんたにゃ関係のない話さ」

 親父は気まずそうに顔を背けた。そこで茜は自分の正体を明かすことにした。

「私は妖怪退治を生業としているものです。もしよかったら、お話だけでも聞かせていただけませんか?」

 途端に親父の目が輝いた。

「なに、あんた、祈祷師か何かなのか。道理で妙な髷だと思ったよ」

 と親父は一歩前に出る。

「じゃあ、話聞いてくれよ。実はな。昨晩、真っ黒な海坊主みてえな化け物が枕元に現れてよ。明日の夜、娘のお冬をもらいにくるっていうんだ。化け物に見初められちまって、大変な事態なんだ」

「海坊主のような……」

「俺と女房との間には、倅が一人いたが、五つの年に病に倒れ、今ではお冬がたった一人の子供だ。そのお冬を化け物なんかに連れていかれたら、俺たちゃ、もう生きている甲斐がねえ。なあ、俺たちを助けておくれよ」


「わかりました。その化け物が現れるのを待って、退治すれば良いのですね?」


「お願えします。いいよな。おっかあ。お冬」

「そりゃ、お冬を助けてくれるのなら、なんだっていいわよ。でも、お嬢さん、そんなこと本当にできるの?」

 と女将は、じっと茜を見つめる。

「まかせてください」

 と茜は頷いた。

 

 それから日はどっぷりと暮れた。障子の間から月の明かりが部屋に射し込んでいる他は、どこまでも闇である。

 風の音が聴こえるだけの静かな夜。

 茜は布団に入って、その時が来るのを今か今かと待っていた。

 茜は今、お冬の振りをしている。お冬の部屋に寝ているのである。本物のお冬は隣の部屋で子猿の三平と共に眠っている。

(静かだ……こんな夜に、妖が現れるのかな……)

 茜はとても信じられない気がした。そして、気がつけば、丑三つ時。

 窓の外に妖しげな拍子木の音が鳴った。その音は不吉な残響となった。

(この音は、この世のものではない……)

 茜は気づいた。


(来る……!)

 その時、窓の障子に、大きな坊主頭の影が這うように忍び入ってきた。そのつるりとした頭から二本の小さな手が生えていて、その手はお冬を探しているらしく、不気味に宙をうごめいている。


 窓の障子がカタカタと音を立てて開いてゆく。影の塊が障子の隙間から室内に忍び込んでくる。その影は膨らみ、そして、茜に覆い被さってきた。

 刹那、茜は布団から日本刀を抜き出し、宙を斬った。手応えがあった。影は低いうめき声を上げながら、天井を駈けめぐり、窓の外に逃げていった。

 しかし、影はまた建物の壁を伝って進んでゆく。その先にはお冬の寝ている部屋があった。

(まずい!)

 茜は、日本刀を握ったまま、お冬の部屋に走り込んだ。襖を叩きつけるように開けると、海坊主のような黒い影がお冬に襲いかかろうとしていた。茜は、踏み込むと、影に後ろから斬りかかった。刹那、影はわっと風船のように膨らんで、地響きと共に、忽然と姿を消した。

 そこには、お冬と三平が布団の中で寝ているだけだった。


(なにかがおかしい!)

 茜は、あまりに手応えを感じていなかった。


 翌朝、起きてきた親父はにこやかだった。隣には、無表情のお冬が座っている。

「ありがとうございます! 娘はこの通り無事です。なんとお礼を言ったら……」

 茜は釈然としなかった。何かがおかしい。ふと見ると、茜は、お冬の左手首に包帯が巻かれているのに気づいた。それは昨日にはなかった傷だ。

「その傷はいつできたの?」

「これは、昨夜、化け物に襲われた時に……、でも大丈夫です」

 とお冬は言っている。親父は気にせず、笑っている。

「そんな傷ぐらい大丈夫だよ。これはめでたいことだからね。お冬、ご先祖様のお墓にお礼を言ってきなさい」

「そうだよ、お冬。行ってきなよ」

 と女将さんも微笑んで言った。


 それから、お冬と茜は、金剛寺の坂道を登った。金剛寺の本堂から西に向かって小高い丘が続き、そこは見晴らしが良かった。田んぼの広がりも一望できる。墓石はずっと上の方まで続いていた。


 ふたりは、ひとつの墓石の前に立った。五つで亡くなったというお冬の兄の墓だった。鯉丸という名が書かれている。それはもう長いこと、放って置かれているらしく、土を被って、汚れていた。

 お冬は静かに手を合わせている。

(おかしい。この墓、霊気を感じない……。まるでここには何もいないみたいだ)

 その時、茜は謎が解けた。はっとして、お冬に振り返った。

「あなた、お冬じゃないね」

「どうしたの、茜さん」

「あなたは、お冬の兄の鯉丸ね。五つで亡くなったという……)

 それを言われた途端、お冬の眼球は黒くなった。そして、茜に飛びつこうとした。


 茜は、すぐに日本刀を抜いて、宙を斬った。

 お冬はあっと叫び声を上げた。体が縦に裂けて、中から黒い影が空に飛び出した。それは宙をもがきながら、どこかに飛んでゆき、迷いに迷った挙句、墓石に光となって降り注いだ。


 お冬が倒れていた。左手首の傷はなくなっていた。茜がしゃがんで、胸に手を当てるとちゃんと呼吸をしていた。

(無事だ……)

 茜は安心して立ち上がった。

(あの左手首の傷は、私が昨晩、あの化け物につけた傷だったんだ。あの化け物の正体は、おそらく五つの年に亡くなったというお冬の兄で、彼は、お冬を連れ去りたかったのではなく、お冬に成りすまして、あの家に住みつこうとしていたんだ。それというのも、きっと寂しくて、お冬が羨ましかったのだろう。この魂が寂しかったことはこの粗末にされた墓の様子を見れば分かる……)

 茜は一刻も早く、霊魂の供養をしなくては、と思った。茜は合掌し、呪文を唱えた後、あの住職を訪ねようと思った。


 茜はお冬を背負うと、元来た坂道を下っていった。その時、聴こえてきた風の音は嘆いているようだった。


             「旅籠屋の黒い影」完

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