第二十七話 内藤新宿の侍(4)
そうこうしているうちに、日は斜めに傾いて、空は暮れてきていた。
茜が甲州街道の真ん中に立って、あたりを見渡していると、坂口泉十郎がどこで手に入れたのか、立派な馬に乗って駆けてきた。
泉十郎は、茜を見つけると、にこやかに微笑みながら話しかけてくる。
「お前のおかげで助かったぞ。礼を言おう……」
茜はその言葉を聞いて、あの三人組を斬り殺してきたのだとすぐに察した。
「あなたって人は、夜叉のような侍ね」
「言ったはずだぞ。俺はもう侍ではない……」
そう言って泉十郎は馬から飛び降りる。泉十郎は馬を優しく撫でると、
「もうどこにでも行ってしまえ!」
と怒鳴って、馬の尻を蹴った。馬は面食らった様子で、もじもじしながらしばらくもたついていたが、そのうち甲州街道を駆けて行った。通りすがりの旅人たちが驚いて、その後ろ姿を見つめている。
「あなたを見ているとわたし、探している人を思い出すよ」
と茜はしみじみと言った。
「その男は、俺みたいな無頼漢なのか?」
泉十郎は意外そうな口ぶりで茜に尋ねる。
「ううん。あなたとはまったく似ても似つかない人よ。でもあなたみたいに、刀を持つと人が違ったみたいだった……」
「ふん。その侍にどんな用があるんだ。お前ほどの腕前があれば、侍なんぞ無用だろうに……」
「そうだね。わたし、あの人にどんな用があるんだろう……」
茜はそう呟いたまま、何も語らない。
茜は振り返って、甲州街道の彼方に落ちようとしている日を見つめた。細かな雲が空を黒く覆っている間に日は赤々と燃えていた。
「栄之助が……」
茜は小さく呟いた。
「この日の下のどこかにいるんだ……」
泉十郎は茜の表情をまじまじと見つめている。そして小さく、エイノスケ、と口の中で繰り返した。そしてなにか思い当たったらしく、茜の顔をちらりと見た。
「栄之助。辻井栄之助か。まさかあの男を探しているのか?」
その言葉に茜は弾かれたように泉十郎の顔を見つめた。茜の心はどこかに消えてしまったように静まり返っている。狐に取り憑かれてしまったみたいだ。
「知っているの?」
「俺と同じ実力を持っていて、栄之助と言ったら辻井栄之助しかいない」
泉十郎はそう言うと、気まずそうに袖に腕を通して、茜に背中を向けた。
「俺がかつて仕えていた鯉沼藩という藩の藩士だ……。辻井栄之助という男は……」
「栄之助は鯉沼藩の藩士なのね!」
茜はぐいと泉十郎の腕を掴む。泉十郎はきっとなって、茜を思い切り振り払う。
「俺に気安く触るな! これでも殺しを生業としている人間だ。しかし……。しかし、その通りだ。辻井栄之助は鯉沼藩の藩士だ。だが俺はとうの昔に縁を切った男だ。もし会いたいのなら自分で会いにゆけ……」
「ありがとう。そうさせてもらうよ……」
茜は嬉しそうに笑うと、突然、悲しげになって俯いた。
「どうした」
「また会えるんだ。栄之助に……」
泉十郎は茜を顔をまじまじと見つめる。一体、この女は何に悲しくなっているのだろうか、と……。
「さっき笑っていたのに、今度は泣いているな……」
茜はその言葉に答えなかった。
(惚れてるな……)
泉十郎はそう思うと、もう何も言葉をかける必要はないと、茜に背を向けて、ひとりで甲州街道を歩いていった。
泉十郎は恋する心など自分はとうに捨ててしまったと思った。非情に生きる、手向かう奴は叩き斬る、それが唯一残された己の道だと信じて生きてきた。それに比べて恋心とはなんと危ういことだろう。
(あれほどの実力があっても、心は凡夫だ。まったく惜しい……)
そうだ、と思って泉十郎は振り返る。
「茜とやら! その心は必ずしも修羅道とは相入れんぞ。くれぐれも気をつけることだ……!」
そう言われて、茜は下唇を噛み締めて、泉十郎をじっと見つめる。
泉十郎は祝福とも皮肉ともつかない笑みを浮かべると、そのまま日の暮れる甲州街道の暗い人混みの中へと消えていったのだった。
「内藤新宿の侍(4)」完




