第二十五話 内藤新宿の侍(2)
茜は、その弁天屋という居酒屋に足を踏み入れた。看板娘と見えるおなごがすぐに出迎えたが、茜はそれに答えずに店の奥を睨みつける。店の奥の座敷に腰掛けて、徳利を左手に、お猪口を右手に握っている若い侍。額に鉢巻を巻いて、長い髪を紐で縛って垂らしている。浪人と見える。
(違った。栄之助じゃない……)
茜はそう思いつつも、その浪人が只者ではないことを見てとった。
「あの、おひとりですか……?」
と看板娘は茜の鋭い目つきに面くらいながらも恐る恐る尋ねた。
「ああ、ちょっとね。なにか食べれるものある?」
「お団子ならすぐに出せますけど」
「それでいいよ。席は勝手に選ばせてもらうよ」
と横柄な言い方で、茜はずかずかと店内に踏み入り、浪人の座敷に腰掛ける。
「あんた、強いんだってね」
灘の生一本、お猪口に注いだ諸白を一口に飲み干すと、浪人はじろりと茜を睨みつけた。しかし黙して口は語らず。ただ鋭い眼光のみがすべてを語る。
「噂は聞いたよ。あの三人組があんたに仕返ししようって騒いでいたよ」
「馬鹿な男たちだ……」
浪人は今にも血反吐を吐き出しそうなほどの低い声である。
「名前はなんていうんだい。わたしは茜」
「俺に名前なんかない。名前なんてものはとうの昔に捨てちまった……」
そう言って浪人は徳利をひっくり返す。ふらふらとそれを揺すって、顔を上げると看板娘に、
「おおい。もう一本だ!」
と怒鳴った。
「わたしね。人を探しているんだ。あなたの噂を聞いてその人かと思ったんだけど違った……」
浪人はその話を聞いて、ふふっと腹黒く笑った。
「人違いなんざよくあるさ……。その探している人ってのは侍か」
「そうだよ」
「俺は侍じゃねえ。そんな聞こえのいい呼び名はもう持っていない。ただ、人を叩き斬るのが仕事さ……」
そう言って、浪人は酔っ払っているらしき手つきで、ふらふらとお猪口を掴み、すっと握りしめる。
「見てな」
浪人はさっとお猪口を放り投げる。その刹那、お猪口は破裂する音を響かせ、真っ二つ、土間に転がり走った。浪人の右手には日本刀が握りしめられていて、すでにゆっくりと鞘に収まってゆくところだった。
「すごい腕だね。でも、それだけの腕があるならどこかの御家が取り立ててくれるだろうに……」
「乱世ならな。それに俺の性格が駄目だ……」
浪人はまたつまらなそうに言うと、徳利を握って、直に口をつけて酒をあおった。しかし空であるから何も入ってこない。やはり機嫌悪そうに徳利を置いた。焦った様子の看板娘が走ってきて、新しい徳利とすり替える。
「お前さんだって只者じゃねえな。俺はお前さんを驚かそうと思って猪口を叩き斬ったんだぜ。それがその肝っ玉さ……」
浪人はそう言って、ふふっと笑う。
「わたしもやくざ者なんだよ」
「それは違うな。そういう匂いじゃない……」
浪人は首を振ると、ちゃぶ台の上を見つめて、なにかを思い出そうとしている。
「俺はひとりだけ、お前さんのような女を知っている。その女はくノ一だった」
茜はどきりとする。自分がくノ一だと勘付かれるのはまるで身ぐるみを剥がされ、裸にされたような気持ちだった。茜は浪人をちらりと見ると、本心を見透かされないようににっと笑った。
「今の世にくノ一なんてもの、あるかね……」
そう言って話を誤魔化してしまおうとする。浪人はもう笑っていない。茜の瞳をじっと見つめている。
「風魔一族の末裔だろう。俺は匂いで分かるんだ……」
「まさか冗談でしょう?」
茜はけらけら笑って、誤魔化そうとする。
「お酒を飲みすぎたね。少し気をつけるといいよ。読み物と現が混ざっちまうよ。それじゃあ、わたしはもう行くよ」
そう言って茜はもう立ち上がろうとする。これ以上、この浪人と話をしているのは危険だと感じたからだ。
「まて。俺は俺の言っていることに自信がある」
茜ははっとして振り返る。座敷に座っている浪人は茜を強烈な眼光で睨みつけている。
「今試す……」
浪人はその途端、勢いよく飛びすさり、右腕を宙に投げ出した。茜はすかさず斜めに飛び込みつつ、日本刀を抜いて、横一文字。浪人も腰の日本刀を抜いて振り上げる。ふたりはぴたりと静止した。茜の首元と浪人の首元にはいずれも鋭利な切っ先が突きつけられていた。
「きゃあっ!」
看板娘が叫び声を上げる。先ほど浪人が投げた小刀が壁に深々と突き刺さっていたのだ。
「まさか、あれを避けるとは……!」
浪人は日本刀を鞘にしまうと、鋭い声で叫んだ。
「貴様、只者ではないな。よし、俺の名を覚えておけ。坂口泉十郎!」
浪人は荒々しく座敷から飛び降りる。見るとはじめから草履も脱いでいないのだった。そのまま土間を蹴るように歩いて、店の隅で怯えている看板娘と店主に銭を放り投げて、疾風のように店から飛び出していったのだった。
「内藤新宿の侍(2)」完




