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第二十二話 くノ一の雫(4)

 雫が大名屋敷を後にする数刻も前のことである。

 鞠乃は、居酒屋を閉めた後に、夫婦の振りをしている幻八と連れ立って、神田の東の端にある湯屋に向かっていた。


 振りとはいえ、鞠乃と幻八は仲のよい夫婦である。ふたりはもう長いこと、一緒に暮らしているせいもあって、共に恋愛感情に似たものを感じていた。鞠乃は、派手で大胆なたちなので、幻八の前でも平気で着替えをするのだが、幻八は恥ずかしがりなので、それに目をやらないようにしている。


「幻八。雫、どうしているかな」

「ううん。妖狐に会いに行ったきり、帰ってこないのだろう」

「湯なんか入ってる場合じゃないかもね」

「よし、俺がひとつ、神田明神に行って様子を見てくるよ。だから、お前は安心して、風呂を楽しんでいてくれ」

「そう? そうしてくれると嬉しいよ」

 幻八は、鞠乃にいいところを見せようと思ったのか、神田明神の方に向かって。全力で走っていった。

(曲がったところのない、犬みたいなやつだね……)

 鞠乃は、ふふっと笑った。


 神田にあるこの湯屋は、この時代にしては珍しく混浴ではなかった。天保の頃に増え始めた女湯と男湯が分かれている湯屋で、鞠乃は料金を支払うと、女湯に入った。


 鞠乃は満二十四歳で、数えだと二十二だが、大人びていて、目鼻立ちのはっきりとした美人である。


 鞠乃は、自らのみずみずしい体に熱い湯を浴びせかけた。大きな手毬のようにたっぷりと膨らんだ胸が美しく上向きにしなっている。うっすらと脂肪ののった腹、ひょうたんのようなお尻、すらりと白くて長い足、このように可憐な肢体の鞠乃は、自身の体つきに相当な自信がある。連れの幻八がいつもくらくらしているのもよく知っている。

(幻八ったら……)

 食事の際、鞠乃の小袖の胸元がはだけていた時、幻八が、見まい見まいと焦って、立ち上がれずに火鉢に頭から突っ込みそうになったのをふいに思い出して、鞠乃はつい笑い出しそうになった。

(ははは。幻八……。ふはは。もう、あいつ……)

 しかし、そんな幻八も今となってはわたしの正真正銘の亭主だ、と鞠乃は思った。


(おや)

 と鞠乃は思った。あれほど自信をもって、笑い声すら漏らしていた鞠乃だが、自分と同じくらい妖艶な肉体をもった美しい女人がたったひとり、湯に浸かってしきりに汗を拭っているのに気づいた。

(このあたりの町じゃ、見かけない顔だ。旅人かな……)

 あまりにも美しい艶肌なので、少し悔しくなる。その上、鞠乃はちょいと興味を持ったので、湯に浸かるとそっとその女人に忍び寄って、話しかけてみる。


「お姉さん。このあたりじゃお見かけないお顔ですね」

「あ、いえ、これはどうも。実はわたし、一目江戸を見てみたいと思って、はるばる信州からやってきたものなんです」

 そう言って、こちらをちょっと見る、その女人の顔は、やはりどこか妖艶な大人の美人である。

「ふうん」

 それじゃ幻八と鉢合わせないうちにはやく信州に帰ってほしいな、と鞠乃は思った。

 

「江戸に見物に来たのなら、こんな神田の長屋の家並みにまぎれてちゃもったいないですね。そうねぇ、まあ、どうです。江戸城を見て、寛永寺、増上寺、それでそのまま鎌倉にでも行って、さらに江の島弁天でも拝んでは……」

 と鞠乃は、わざと神田からどんどん遠ざけようとする。

「それもいいのですが、浅草海苔と佃煮を江戸土産にしようと思っているので、おすすめのお店があれば教えてほしいのですが……」

「浅草海苔は浅草、佃煮は佃島に行けば、きっとありますでしょう。知らないけど……」

 鞠乃はそう言いつつ、視線を落とす。目の前の女人の汗にまみれた胸は、お盆の上にこそないものの、まさに突き立ての白餅。そこに可憐な梅の花が咲いたみたいである。おやっと思うと、背中にも梅の花の入れ墨が沢山入っている。ずいぶん美しい梅花が咲き誇っているものだと鞠乃は思うが、この派手な入れ墨をみるに、ただの信州の村民とも思えない。


「ずいぶん、綺麗な入れ墨ですね」

「ほほほ。わたしの亭主は男前の大工で、やはり背中に大きな鯉が描かれているんですの。主人ったら、褌一丁で、汗をかきながら、お仕事してますと、それこそ鯉が踊りだしそうですの。わたしもならって、こんな入れ墨を入れたんです」

「へえ……」

 鞠乃は感心はしたが、自分は見習いたくない風習だな、と思った。


「もう、わたし上がりますね。暑がりなもので……」

 と鞠乃は言うと、湯から立ち上がる。



 その帰りの道で、鞠乃は幻八が走ってくる気配に気づいた。

「鞠乃」

「どうだった?」

「雫のやつ、どこにもいないんだ。店にも戻っていない。もしかしたらなにか悪いことが起こったのかもしれん」

「そんな……。焦って考えちゃ駄目だよ。手分けして探そうか」


 その時、三方から手裏剣が飛んできた。幻八は驚いて、間一髪のところで避ける。

「一体どこから……」

 その時、鞠乃はくノ一が飛び込んできたことに気づいた。鞠乃は慌てて、鋼鉄の簪を懐から出して応戦するが、すぐに相手のくノ一は回避しながら、縄を宙に放り投げた。その縄は鞠乃の腕に、蛸のようにからみついてきて、たちまち身動きがつかないようにしてしまった。

「しまった!」


 幻八は、宙に日本刀を出現させると、それを掴んで、その敵のくノ一に斬りかかろうとしたが、両側から黒装束の男の忍者ふたりに挟まれた途端、腹を殴られて、苦痛にうめきながら、地面に倒れた。


 鞠乃が恐ろしくなって、目の前のくノ一の顔を見ると、なんと先程の湯屋の女人である。


「ふふふ。あなた、全然気づかないんだからね。わたしは白幽様の忍者七人衆のひとり、梅華(ばいか)さ。せいぜい白幽様に痛ぶられるがいいわ」

 そういうと梅華は、鞠乃に桃色の煙を嗅がせて、気絶させる。ふたりの男忍者に鞠乃を担がせた。三人の悪党は、このようにして鞠乃を捕縛してしまうと、そのまま、宙に飛んでいってしまった。


 このようにして、鞠乃は連れ去られてしまったのである。

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