第二十一話 くノ一の雫(3)
その夜半、雫は、跳び上がった。着地したのは、鯉沼藩の大名屋敷を囲んでいる長屋の上だった。あきらかに暗闇の中で異様な影が蠢いている。あっこれはと思った時はすでに遅く、三つの手裏剣が宙を駆け巡っていた。雫は、慌てて伏せてそれらを回避すると共に、大名屋敷に腕利きの忍者がいることを悟った。雫は、忍術の達人である。忍者がいると知ったからには、すぐに自分の肉体を霧のように消してしまう。
雫は、鈴音と会った後、その足で鯉沼藩の大名屋敷へと向かったのだ。妖狐に提案されたような囮の計略は、まず潜入をしてみて失敗してから試してみればよいと雫は思っていた。
茜は、体術を得意とする一方で、雫は幻術を得意としている。
しかし霧のように見えなくなっているはずの雫めがけて手裏剣は飛んできていた。凧のようについてくるのである。
(なんだこの手裏剣は……!)
雫は、長屋の上を勢いよく走った。焦りが出て、忍者らしくもなく、バタバタバタと足音を響かせてしまった。鯉沼藩の家臣の侍たちが物音に気づいて、なんだなんだと声を上げながら、ぞろぞろと長屋から飛び出してくる。
(まずい!)
雫は、すっと長屋の屋根から飛び降りると、池のある小さな庭の茂みの中に隠れた。雫が顔を上げると、己の眼前に、三つの手裏剣が迫ってくる。
(見抜いた!)
手裏剣には、ある妖術がかけられている。鮮血のように赤い糸が、手裏剣にはきつく結ばれているのだ。
雫は、鈴音に手渡された小刀を逆手で持つと、心を落ち着かせて、迫りくる手裏剣をじっと見つめる。
(今だ!)
えいっと叫んで、雫が小刀を振り回すと、手裏剣は糸を切られた凧のようにあたりに吹き飛んでしまった。
(妖に取り憑かれた忍者がいるということか……?)
その時、騒ぎに気づいて、廊下を走ってきた侍が三人。庭に立っている雫のもとに駆け寄ってくる。
「なんだ。この女子は……」
ひとりの侍は驚いて、その小柄な少女を見つめる。
「他藩のくノ一かもしれん。生きて帰すな!」
気の荒い侍がそう叫ぶと、日本刀を抜いて、庭に飛び降りる。その瞬間に雫は、手裏剣を侍の喉仏に投げつけてしまう。侍は、大きく仰反ると、血を噴き出しながら、庭に崩れ落ちる。
残りのふたりの侍は、あっと叫んで、恐怖のあまり二歩下がる。
「あなたたちと遊んでいる暇はないんだよ!」
雫がそう叫んだ時、彼女は屋根の上にひとりの忍者がいることを悟った。
(まずい。上に忍者、囲まれてしまう!)
雫は、指をさっと振って、庭に大きな煙を立ち昇らせると、すぐさま跳び上がって、屋根の上に飛び乗った。そこに黒装束の男の忍者が立っている。
「雫だな」
「そうだよ。あなたは?」
「お前を生捕りにしようとしているものさ。しかし、自らこの大名屋敷に転がり込んでくるとは、どういう了見かね」
「あの妖がどうか、自分の目で確かめにきたんだ!」
雫は、憤りと共に、相手の忍者に手裏剣を投げつける。しかし、忍者はそれをわずかに体を逸らしただけで回避してしまった。
(むっ。見切られた?)
雫はその時、はっとして後ろを振り返った。後方の屋根の裏に三人の忍者がいることに気づく。今、まさに雫に襲いかかろうとしている三人である。
(一体、何人いるんだ……?)
雫は恐ろしくなる。いずれにしても、忍者を相手にして、これほど人数に差が出てしまっては、いくらくノ一の雫でも争いを有利に進めることはできない。
雫は、この大名屋敷を力攻めすることは困難であることを悟った。すぐさま、自分の分身をその場に残すと、素早く庭に飛び降り、受け身を取って縁側の廊下を走って、その場から逃げ去ることにした。
(むっ。さらに五人……)
雫は危機の連続に、にやりと笑った。
鯉沼藩の家臣の侍たちが五人、目の前の廊下を走ってきている。雫は、それを見ると、美しい小刀を胸元にぐいと引き寄せて、五人の間に割って入るようにして、勢いよくその場を走り抜けた。いくつもの弧を描いて、振り上げられた小刀の煌めき。ぐわっと叫び声があがり、いたるところから血が噴き出し、壁を真っ赤に染める。五人は鶯張りの廊下の上に転げ落ちて、苦痛のためにのたうち回っている。跳ね飛んだ指が転がっている。
(許せ。こうするしかないんだ……!)
思ってもいなかったことだが、雫がその足で踏み込んだのは、藩主松林辰影の寝所だった。そこにひとりの男の背中を向けて立っていた。
(あっ!)
雫は突然の親玉の登場に驚き、畳を踏みしめて、立ち止まる。
(この匂い……!)
数年前、里が壊滅された時、まだ歳ゆかない乙女だった雫が嗅いだあの禍々しい妖の匂いだ。雫は、自然と体に震えが起きて、どうしたらよいかわからなくなる。
振り返った男は、醜い妖というより、美しい人間の顔をしている。形のよい太い眉がすっと真横に通っていて、筋肉質な顔つきが男前の四十すぎの男。それは好男子といってもよいほど、精悍な武将顔。ところがその顔に今では、どこか病的で、陰鬱な妖気が満ち満ちている。
「雫。久しぶりだな……」
「あなたは……」
「鯉沼藩の藩主、松林辰影さ……」
「ちがう。ちがうわ。あなたはあの時の……」
「そうだ。あの時の化け物がこの俺だ。沢山の忍者を殺した。そして、お前は俺の手に落ちるはずだった。ところが、何の因果かそれは叶わなかった。しかし、今、俺はこうして人間の体を手に入れた……」
そういうと辰影は、ふははっと笑い声を上げる。
「お前は俺のものだ。どうしたって逃げられないさ。お前の姉も同じ運命さ……」
「あなたが里のみんなを殺したんだ……!」
雫はそう叫ぶと、全力で手裏剣を投げつけた。ところが辰影は空中を跳ね飛んでくるそれを指をつまむようにして拾い上げた。
「そんな……」
「この場でお前とおままごとをするつもりはない。それよりもお前のつとめる稲荷屋の鞠乃というくノ一の心配をしたらどうだ」
「なんだって?」
雫は嫌な予感がした。
「今すぐお前を捕らえてもよいのだが、お前に猶予をやろう。姉の茜を連れてこい。ふたりをして俺の側室に下るというわけだ。あの里の惨禍を思い出してみろ。おそろしい目に遭いたくないなら、もっと俺に従順になることだ」
「誰が、あなたなんかの……」
「猶予は七日間だ。七日目の夜に、姉の茜を連れて、ふたりしてこの大名屋敷に来ることだ」
雫は恐怖に怯えながらもそんなことはできるはずがない、と思った。そもそも、姉の茜がどこにいるのかもわからないというのに。
「どうしようか考えているな。しかしそうせざるを得なくなるさ。お前のつとめている、あの稲荷屋とかいう居酒屋に帰ってみれば嫌でもわかることさ」
雫はその言葉にどきりとした。そもそも、まさか稲荷屋のことが知られているとは思わなかった。そして辰影の語っていることの意味は判然としない。
「一体、なにを……」
「それは帰ってからのお楽しみさ。雫。ご苦労だった。今日はもう帰っていい。そして七日目の夜に姉を連れて再びここへ来ることだ。ははは。どんなに歯向かっても、今のお前にはどうすることもできない運命だ……」
雫が突然の気配に振り返ると、背後に忍者がひとり立っている。
「雫を表門まで案内して差し上げろ」
雫は、恐怖に取り憑かれながら、忍者の案内を受けて辻に出た。
(一体、稲荷屋に帰ると、何が待っているというんだ……?)
雫は、高鳴る胸を押さえながら、稲荷屋のある方向に走った……。




