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第二十話 くノ一の雫(2)

 雫は、墨を塗りたくったような神田明神の境内の杉の木の前にひとり立っている。

 自分が囮を買って出て、妖を油断させる計略に雫は乗り気であったが、そもそも、彼女はその妖の居場所を知らなかった。どこかの大名屋敷で藩主のなりをして、あぐらをかいているということだけは妖狐の話から分かっていたが、それだけでは江戸五百藩といわれているうちのいずれの藩か見当がつかず、したがって打つ手がない。ただ、向こうも自分を狙っているということだが……。

(情報を集めないといけないな……)

 雫は、そう思った。


 雫はその晩のうちに、江戸城の大奥女中として潜伏している鈴音というくノ一に会いに向かった。

 江戸城には、侍の勤番の他に、忍びの見張りが無数に散りばめられている。必ずしも雫の味方ではない忍びたちである。

 雫は、同業者である忍者にもわからないほど、気配を消して、江戸城の堀や石垣を乗り越えて、大奥の寝所に忍び込んだ。すぐさま大奥女中をしている鈴音の眠っている女中部屋に近づき、そっと襖を開いて、中の様子をうかがう。

「どうした。雫……」

 と鈴音は寝ているふりをしたまま尋ねる。

「実はちょっと聞きたいことがあって……」

「まあ、まちな。ここではまずい……。人気のないところに行こう」

 そういうと鈴音は、藁人形をさっと懐から出して、暖かい息を吹きかける。すると自分とそっくりな女人の幻が生まれて、あたかも彼女が布団で寝ているように見立てた。


「行こう……」

 ふたりは大奥の女中部屋から飛び出し、全速力で庭を走った。巨大な門の上に見張りの忍びが立っている。忍びはふたりの影を見て、手裏剣を投げた。ふたりにはまったく当たらない。忍びは日本刀を抜くと、門から飛び降りて、こちらに向かって走ってくる。そこで鈴音はさっと石を庭の片隅に投げ込む。ざっと砂の音が鳴ったかと思うと、鈴音は雫を担いで、反対の方向に跳び上がった。敵の忍びはそのことにまるで気がつかなかった。あまりにも単純な技だが、一流のくノ一が行えば、いとも容易く相手を欺いてしまうものである。

(素早い……!)

 雫は驚いた。この鈴音も、くノ一七人衆のひとりだった。


 ふたりは、江戸城の本丸から出ると、大名屋敷の塀の続いている辻の影に立っていた。

 鈴音は女人であるが、どこかさっぱりとした男前の美しいくノ一である。雫は、まわりを気にしながら妖狐の話を聞かせた。

「すると、あんたはついにあの里を壊滅させた妖の手がかりを握ったってわけだ」

「そう。本当かどうかはわからないけれど」

「まあね。すると、あんたは、このところ、妖に取り憑かれておかしくなった藩主がいるか知りたいんだね」

「そう。江戸城に潜伏している鈴音ならわかると思って……」

「そうねぇ。考えてみるよ。そうだね。近頃、鯉沼藩の藩主がおかしくなったって噂だけど」

「鯉沼藩?」

 雫は驚いて聞き返した。

 

「そうだよ。松林辰影って藩主が、なんでも何年も前から病がちになって寝込んでいたのだけど、このところ、持ち直したらしい。でも、不自然なことは不自然なんだ。人が変わったようらしい……」

「妖が取り憑いている可能性はあるかな?」

「さあてね。あんた、自分の目で確かめてみな」

 鈴音はそういうと、ふふっと笑って、雫に美しい小刀を手渡した。


「もしもの時のために持っておきな。困った時はこいつでひと暴れするんだ」

 雫はその小刀を受け取った。雫が今まで触ったことがないくらいの名刀である。

「ありがとう。でも、鈴音はわたしと一緒に、鯉沼藩の大名屋敷に忍びこもうとは思わないの?」

「わたしは江戸城で、諸藩の情報を集めるというお仕事があるからね」

 鈴音のいうことはもっともである。雫からしても、鈴音には江戸城の大奥に潜入していてもらった方がいい。

「だけどね。もしも、あの里を壊滅させた妖と対決しようっていうのなら、あんたがいくら忍術の達人だからって、まさかひとりで大名屋敷に飛び込んでどうにかなるわけないでしょう。もしも、やるっていうのならわたしもやるけどさ」

 鈴音はそう言うと、下唇を噛んで考え込む。


「お姉ちゃんがいれば……」

 と雫はぼそりと言った。

「茜か……。どこにいるのかね。あの子は何も知らずに……」

 鈴音は不機嫌になって吐き捨てるように言った。茜が里を抜け出してから、里は妖に襲わられたのだ。すると茜は今でも里が崩壊したことを知らずにいることになる。

 でも、たしかに茜と雫が力を合わせれば、この妖退治は成功するかもしれない、と鈴音は思った。鈴音たちが育った忍者の里のくノ一七人衆の中でも、ふたりは特に優れた能力を有していた。


「わたし、お姉ちゃんがいれば、どうにかなる気がする」

「ねえ、雫。里のことを何も考えずに、手前勝手に抜け忍なんかしているやつを頼りにしてどうするのさ……」

「それは……」

 雫は答えられなくなって、静かにうつむいたのだった。

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