第二話 小猿の三平
ある夜半だった。
くノ一の茜は、森の大木の太い枝の上に仰向けになり、夜空に浮かぶ満月を眺めていた。どこからか梟の鳴く声が聞こえている。静かな夜だと茜は思った。
茜は、先日の騒動で、三両もの大金を手に入れたため、路銀に事欠くということはしばらくなさそうだった。何不自由なく旅が続けられそうである。それでも彼女にはどこか心細くなる夜だった。
(里から飛び出した私は、いつだってひとりぼっちだ……)
茜は寂しくなった。そうなると月も眩しく感じられた。月光を避けるように、うつ伏せになった。枝に押されて、胸が潰れる。葉が風に揺れた。その風にわずかに妖気が混ざっている。
(ん? これは……)
茜が面を上げると、途端に面妖な子猿が目の前に姿を現した。
その子猿は、妖だった。その瞳は真っ赤に光り、ニタニタ笑っているようなその顔つきは、なんとも不気味な見た目である。
茜は、すぐに妖を退治することもできたが、生かしておいてもどうということもない雑魚のように思えたので、あえて手出しはしなかった。
「そこの娘さん。くノ一と見えるね」
子猿は、赤い目をぐいっと見開いて、少しおずおずと尋ねた。
「そうだけど、あなた、何なの?」
「おいらは妖怪の端くれさ。三平ってんだ。まあ、聞いておくんな。ちょっと頼みごとなんだが、今からここに忍者が現れるはずだ。そいつを倒してもらいたいんだ」
「なんで、私なの?」
「あんたが、あの死人の滝の妖を退治したことは知ってんだ。大した腕の持ち主だね。おいらはあんたに惚れてんだぜ」
話が分からないので、茜は眉をひそめる。
「なぜ私があなたみたいな妖の指図を受けなくてはいけないの?」
「あんた、勘違いしているんだよ。妖ったってね、悪いやつばかりじゃねえんだ。おいらみてえに善良なやつもあんのよ。それがね、たった今、退治されそうになってるの、可哀想だと思わないかい?」
「でも、あなたは何か悪さをしたから、退治されそうになっているんじゃないの?」
茜はめんどくさそうに言う。
「堪忍してくれよ。村人をちょっと脅かしたら、なんであんな忍者がいたんだか知らねえが、やつらめ、とんでもねえやつを連れてきたんで、もう参ったよ。おいらはやっとこさ、ここまで逃げてきたわけよ。ねえ、助けてくれよ……」
「私は、忍者とは闘いたくない。それに会いたくもないの」
「そんなこと言ったってよ。やつはすぐここに来るぜ? あっ、やつが来た……」
子猿は青い顔をして姿を消した。茜もはっとした。その刹那、満月が雲に隠れてゆき、闇が迫ってくるように感じた。ものすごい勢いで殺気がその場を呑み込んだ。
「まずい」
茜は、すぐに枝を蹴って、宙に跳ね上がった。その瞬間、枝に二つの手裏剣が刺さった。
茜は、もっと高い枝に着地して、どこに敵がいるのか、目で探った。すぐに二つの手裏剣が、こちらに飛んでくるのが見えた。茜は隠していた日本刀を振って、手裏剣を宙でなぎ払うと、地面に飛び降りた。
(このままではやられる!)
茜は、手裏剣が飛んできた位置を正確に覚えていた。そこに手裏剣を飛ばしていた。しかし手応えは感じられない。
(よけたか)
「まてっ!」
地面に着地すると背後から声がした。はっと振り返ると、月明かりの中に、臙脂色の忍者装束をまとい、黒髪を頭の後ろで結ったくノ一が、日本刀をこちらに向けていた。美しい瞳が並んでいる。茜はその声に聴き覚えがあった。
「なんだ、あなたも、くノ一じゃない」
とそのくノ一は、安心しきったように言って、日本刀を下ろした。
「てっきり妖かと思ったけれど、これはとんだご無礼を……」
茜は、できる限りそのくノ一と目を合わせないようにして、木の影に隠れている。自分の声も聞かれたくなかった。そのまま、無言で立ち去ろうとすると、
「待って。あなた、どこの里の忍びなの?」
と尋ねられた。
茜は答えない。いや、答えられないのだ。もし声を出せば、自分の正体が分かってしまうから。しかし、そのくノ一は何かを察した。
「あなた、もしかして、茜?」
相手のくノ一がそう言った途端、茜の姿はもうそこになかった。
茜は、夜の森を全速力で駆けていた。茜は忍びの里を抜け出した裏切り者と目されていた。裏切り者はたとえ親類と言えど殺さなくてはいけない、という里の掟があった。そしてあのくノ一は、幼なじみの杏菜であることは間違いなかった。
(でも、私は杏菜と殺し合いはしたくない……)
茜はそのことを恐れていた。
翌日、茜は宿場町に訪れた。日が燦々と照りつけ、風が吹き抜け、砂ぼこりが立つ中に、屋根瓦の立派な家がまばらに建ち並んでいる。人や馬の姿も見られた。わりと賑やかである。五重塔も見えた。茜も野宿はもう嫌なので、先に急がず、ここらで一泊するかという気になった。旅籠があるだろうと思って、道を進んだ。
茜は昨日のことが頭を離れなかった。いつか殺し合うことになってしまうのだろうか。
茜はすぐに「銭小売」の看板を見つけ、一枚の小判を銭に両替した。
茜は、絹市が行われているのを見つけた。行商人たちが絹を購入している。絹に混ざって、子猿の三平が籠に入れられて、四文で売られているのを見つけた。
「やあい、猿だ。猿だ」
「棒でつついちゃえ」
行商人がいない隙に、集まってきた子どもに三平はいじめられて苦しげにもがいている。
「こら、やめなさい」
茜は驚いて子供たちを止めた。茜は子供たちを追い払い、四文銭を行商人に渡して、三平を籠から出した。三平といったら、妖怪らしさが無くなって、すっかり元気のない見た目になっていた。
「どうしたの、あなた」
「あのくノ一に捕まってさ、妖気を吸われちゃったのさ……。困ったもんだよ」
「あらあら」
「まあ、殺されなかっただけましだけどよ。お仕置きされてさ。それでおいら、こんなところに売りに出されたわけよ……」
「ずいぶん可愛らしい見た目になったもんじゃない。私、そっちの方が好きよ」
「馬鹿いうねぇ。おいらはもう駄目だで。なあ、しばらくおいらを一緒に連れて行ってくれ。妖気が戻るまで、一人歩きは心配なもんで……」
「いいけど」
茜は馬鹿馬鹿しく思いながら、道を歩いた。
この憐れな小猿と一緒に旅を続けるのも悪くない、そうだ、猿まわしをして歩こうなどと茜は思った。
茜と三平は、坂道を登って、古めかしい寺にたどり着いた。そうだ、ひとつ参拝していこうという気になった。
そびえる山門には金剛力士が二体、忿怒の相を浮かべ立っている。補陀落山金剛寺と額が掲げられている。
山門の奥には、立派な本堂があった。その手前に杖をついた老僧が立って、ぼんやりと庭の池を眺めていた。しかし瞼は瞑っているようにもみえる。
「おなごと小猿が一匹。浮かない面して、山門をくぐったの」
と老僧はくるりと頭を撫で、笑ってそう言うと、池にぽんと石を投げ入れた。
石が水しぶきをあげて、波紋が緩やかに広がってゆく。
この老僧、できるな、と茜は思った。
「私は、妖退治をしながら旅をしているものです」
「そうか、そうか。妖退治をね。それならば、この宿場は具合が良いの」
「どういうことですか?」
「まあ、すぐに分かる」
老僧はケラケラ笑うと、その場を去った。池の波紋はいつまでも残っているように思えた。
茜は本堂に向かって、一文銭を賽銭箱に入れて合掌し、三平と共に寺を下った。
いつのまにか日は傾いてきていた。そこで、茜は旅籠に向かうことにした。茜はまだ杏菜のことを考えていた。
「小猿の三平」完