第十九話 くノ一の雫(1)
くノ一の雫は現在、町娘に扮して、江戸の神田の町人地に潜伏している。
雫は、姉の茜よりも三つ年下の女子であり、その小柄であどけない容姿からは到底、想像できないことであるが、幻術の腕前は姉の茜よりもかなり高い質を誇っていた。
雫が町娘として江戸の神田に潜伏している理由は、自分の故郷である忍者の里を壊滅させたあの禍々しい妖の正体を突き止めることにあった。
姉の茜は、ずいぶん前に、忍者の里から失踪し、いわゆる抜け忍となったまま、今でも行方が知れないのだった。姉はおそらく今でも里の惨状を知らないままだろう、と雫は思う。
ある年の冬、茜と雫の故郷である忍者の里は、得体の知れない妖に襲われ、忍者の多くが無惨に殺されて、壊滅させられる事態に陥った。
この時、忍者たちはこの得体の知れない化け物に捕らえられそうになりながら、からくも落ちのびて、日本中に四散したのだった。
雫は、忍者の多くがその後どうなったのか知らなかったが、茜がいなくなってから雫の面倒を代わりにみてくれた鞠乃という年上のくノ一に匿われていることになった。
この鞠乃も、くノ一であり、かつての忍者の里の仲間のひとりである。
この鞠乃は、忍者の幻八という男と夫婦の振りをして、今では神田で稲荷屋という小さな居酒屋を営んでいる。
雫もここで、鞠乃の親戚の子という振りをして働いている。
美人がふたりも働いている居酒屋となれば、商工業者の町、神田でも特に繁盛した店だった。
神田といえば青物市場が有名である。新鮮な大根が船で運ばれて、ごろごろ集まってくるそんな八百屋ばかりの町でもある。
稲荷屋では、大根の煮物や、豆腐田楽を看板のつまみにして、にごった安酒と共に出している。
腹を満たし、酒によった客は自然と饒舌になり、その口からはさまざまな噂話が飛び出してくるものである。
暮れ六つ(五時ごろ)にようやく仕事を終えた大工などにとっては、町木戸が閉まるのが夜四つ(十時ごろ)であるから、本当に一杯飲んで帰るという程度のものがほとんどであったが、いつの世も、門限を過ぎて、道端に酔いつぶれる者は後をたたなかった。
「鞠姉。あのお兄さんがかんざしをくれた……」
雫は、土間を囲むように座敷の並んだ部屋から厨房に戻ると、煮込み料理を作っている鞠乃に、たった今、左官屋らしき若い男から手渡された美しい簪を見せた。
「また、お客さんからそんな高そうなものもらって。困るじゃない。すぐに返してきなよ」
「ううん……」
看板娘の雫を目当てにして、来店する男性客も少なくない。今しがた、雫は馴染みの客から高価なかんざしをもらったわけであるが、雫にとってそんなことは日常茶飯事だったし、恋愛ごとにはめっぽう鈍い仕事人のくノ一なので、そのかんざしをどうしたらよいかわからなかった。とりあえず、回収してきた空の徳利の横に置くことにした。その素振りも見るだけでも、雫の気のないことがわかる。ただ、雫が得てきたのはそれだけではなかった。
「あのお兄さんがね、あの神田神社の境内で妖狐が出たっていうんだ」
「妖狐……」
「昨晩のことだよ。なんでも沢山集まっていたらしい。もしかしたら、なにか妖に関する手がかりが得られるかも知れないから……」
雫はそこで腕組みをする。
「わたし、店を閉じた後に、夜の町を見てくるね」
と雫は鞠乃に言った。
「ひとりで大丈夫?」
「大丈夫。妖の匂いを嗅いで違ったら戻ってくる」
犬みたいなことをいう女子である。それでも、忍びの里を壊滅させた妖の禍々しい匂いは、嗅覚の鋭い雫には忘れることができないものだった。もし匂いを嗅いで、関係のない妖と分かったらすぐに戻ってくればよいのである。
雫は、くノ一の装束を身にまとった。
雫は、居酒屋から飛び出すと、夜の神田の八百屋街の上に思いきり跳躍し、屋根の上を走って、神田神社まであっという間についてしまう。
神田神社の周囲には屋根が続いていて、境内は広々としている。昼間は大変眺めがよいのだが、日の暮れたこの時刻には、墨を塗りたくったようで、たしかに境内の杉の木のまわりに無数の狐火が見える。
「あれは狐火。だけど、あの時の妖ではない……」
雫は、人に災いをもたらさない妖を退治する趣味など持っていない。
それならば、と雫は背を向けて帰ろうとする。
「オマエハ クノイチノ シズクダナ」
人間とは思えない声が響いてきた。雫は驚いて振り返る。神田明神の境内、杉の大木の裏に、美しい妖狐が四つ足で、すらりと立ってこちらを見つめている。
「いかにも。わたしが雫だ……」
「キヲツケルコトダ。オゾマシキ アヤカシガ ソナタヲ ネラッテイル」
「わたしを……? なんのことだ」
「アヤカシノタイショウガ、フタリノクノイチヲ エジキニ シヨウトシテイルノサ」
「ふたりのくノ一……」
雫は、自分ではない方のくノ一が誰なのかピンと来なかった。
「その妖の大将というのは、以前にもわたしを捕らえようとしたことがあるのか?」
「サヨウ。ソナタモオボエテイルダロウ。シノビノサトヲ カイメツサセタ、オゾマシキ アヤカシノタイショウ……」
「なに!」
雫は驚いて、妖狐に走り寄ろうとする。妖狐は勢いよく跳び上がり、次の瞬間、立っていたのは杉の大木の枝の上。
「今どこにいるのだ。その妖は……」
「ダイミョウヤシキデ アグラヲカイテイルサ。ハンシュニナリスマシテネ。シズク、アノアヤカシヲ タイジデキルノハ、ソナタシカオラヌ。コレハ ワタシカラノタノミデモアル……」
「その妖を退治する。それはわたしの宿願でもある。それはわかった。しかし、なにか上手い手があるだろうか……」
「ソナタガ オトリニカッテデルナラバ、コチラモ デキルカギリノ テダスケハスル」
「わたしに囮になれ、というのか」
「アノバケモノハ ソナタヲホッシテイル。オトリトナッテ アザムクコトダ」
そう言うと妖狐は枝から跳び上がり、夜空の闇の中にすーっと消えていった。
雫がふと振り返ると、墨を塗りたくったような境内には、狐火はもうひとつもなかった。
「果たして、わたしにそんなことができるだろうか……!」
雫は、妖狐の計略にぞっとして叫んだ。




