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第十八話 藩主松林辰影の狂気

 挿絵(By みてみん)

イラスト制作 Kan

 鯉沼藩(こいぬまはん)の江戸屋敷は、江戸城より南、虎ノ門のあたりにあったとされる。


 鯉沼藩の藩主、松林辰影(まつばやしたつかげ)は、ある時から妖に取り憑かれたようになってしまった。

 死人の幻が見えはじめたのが数年前のこと。それははじめ、ぼうっと白い影が浮かんでいるという程度のものだった。白い影は、絶えず辰影の脳裏に忍び入ってきて、奇妙な言葉を繰り返していた。


「シズク……シズクハ ドコダ……シズクハ ワタシノモノダ……」

「誰だ。貴様は。シズクとは何のことだ」

「クノイチノ シズクダ……サトハヤケオチテモ……シズクノ シタイハナカッタ」

「ええい! 化け物め」

 辰影は日本刀を抜くと、声の聞こえる方へ盲滅法に振り回した。しかし何の手応えもない。

「シズクモ……アカネモ……スベテワタシノ オモイノママニナルノダ……ソレニハ オマエノカラダガイル……」

「やめろ! 入ってくるな!」

 辰影は黒い妖気に包まれ、叫び声を上げて倒れた。


 しばらくして、辰影は病に伏してしまった。辰影は病床で、同じようなうわごとを繰り返しているばかりで、いつ命を落としてもおかしくない状況が何日も続いた。

 家臣らは秘密裏に僧侶を呼び、祈祷をして悪霊とも妖ともわからぬその化け物を祓おうとした。

 しかし一向にその化け物は辰影の体から抜け出していかなかった。

 重役といえる年寄りたちの間で、このことは決して他言してはならぬ、という厳しい取り決めが交わされた。

 そこで、松林辰影と顔形のそっくりな影武者を用意し、松林辰影の振りをさせることによって、時の将軍、徳川家斉(とくがわいえなり)の目を欺いていたのである。


 実にこの鯉沼藩こそ、辻井栄之助の仕えている藩なのである。



 ある日暮れであった。辰影のもとに奇妙な怪僧が現れて、わたしめに祈祷をまかせていただきたいと申し出た。自分を売り込んできたのである。

 怪僧は名を白幽(はくゆう)と名乗った。

 白幽は、慈眼寺という寺の七怪僧の一人だということだった。

 その寺は、伝説にこそあるが、現実にあるものとは思われていなかった。

 胡散臭い僧侶である。しかし鯉沼藩の重役は、今は藁にも縋りたい気持ちであった。


 白幽はすぐに準備に取りかかり、呪文と共に祈祷をすると、辰影の病はたちまち治ってしまった。重役どもは歓喜した。ところがその日から辰影は、まるで人が違ってしまったようになったのである。


 辰影は、やはりどこか狂気に満ちている様子で、顔色は常に青ざめ、少ししかものを言わなくなった。いつも腕組みをして、なにかを考え込んでいようである。かと思うと今まで重用してきた家臣を無慈悲に追放してしまう。そんな暴挙に出た。


 そしてある夜、辰影は突然、叫び声を上げると、江戸屋敷において、自分の影武者を日本刀で叩き斬ってしまった。

「殿がご乱心だ……!」

「このようなものはもういらない! わたしの病はとうに治ったと申すに……!」

「どうか落ち着いてください!」

 しがみつく近習の者の腹を、辰影は、得意の一振りで、上下に切り裂いてしまった。ぱっと鮮血が散り、はらわたが畳に溢れる。


 声を聞いて駆けつけた恩顧の家臣、尾崎宗孝(おざきむねたか)は震える唇で、辰影に問いかける。

「これから、どうなさるおつもりか……」

「もう機は熟した。白幽と力を合わせ、再び政治の表舞台に立ち、藩政を改革しようというのだ」

「あの僧とですか……。しかし殿、そのようなことは爺が決して許しませぬ」

「貴様に許してもらわんでも構わんさ。それとも貴様もこの男のようになりたいのか!」


 辰影が指さした先には、苦悶の表情を浮かべた惨殺死体が寝転がっている。

「殿。目を覚ましてくだされ。あの僧侶は、この藩を我がものにしようとしている悪鬼そのものではありませんか!」

「なに、白幽が悪鬼だと! 面白いことを言うてくれるな! 貴様の首を叩き斬ってくれようか!」

 辰影は、尾崎宗孝の首元に日本刀の切っ先を突きつけた。そして辰影は、はははっと笑い声を上げた。その時……。


「殿」

「えっ」

 辰影が声のする方に振り向くと、そこには怪僧、白幽が立っていた。いつの間にか畳の間の片隅に現れていたのである。

「一体いつの間に……」

「その者の処罰はわたしに任せてくだされ。白幽はこれでも腕利きの忍者七人衆を従えております。殿のお手を血に汚されることはもうありませんように……」

 そう言うと白幽はじろりと天井の片隅を睨んだ。二つの黒い影がさっと降りてきて、たちまち尾崎宗孝にそばに飛び込んでいった。

「あっ」

 尾崎宗孝はそう叫ぶより先に、喉仏を針で突き刺されていた。そして滴る鮮血は、すかさず白い布で拭き取られ、その死体はふたりの忍者に抱えられて、たちまち庭に運び出された。


「なんという手際の良さだ……」

「どうかわたしめにお任せくだされ」

「うむ……」

 辰影は頷くと、白幽の方をじろりと見る。


「それで娘がどこに消えたか、掴めたか……」

「いえ。しかし、萩姫はおそらく慈眼寺のある僧侶に助けを求めようとしたのでしょう」

「慈眼寺の?」

「ええ。わたしと同じ慈眼寺の七怪僧の一人。わたしに対抗できるとしたらその者しかおりません」

「どこにいるのだ。そやつは……」

「わたしにもわかりません。慈眼寺はとうに幻の中で焼け落ちてしまいましたもので……」

「わからぬことを言うやつじゃ。しかし、娘がその僧侶に助けを求めているとなると厄介だな」

「ええ。一刻も早く萩姫を見つけて殺してしまう他ありませんな」

「な、なに、娘を……」

 辰影はその言葉に唇を振るわせる。人間らしい感情がよぎったのだろう。

「ええ。しかしそうする他ありませんぬ。一刻の猶予も許されません」

「そうか……」

 辰影は、腕組みをする。人間らしい感情は少しずつ消えていってしまう。また辰影は不気味な笑い声を上げた。


「政治を牛耳った末に、わしは(しずく)がほしい。美しい雫だ。わしが求めているのはまさに雫なのだ。霧深きあの忍者の里に生まれた少女。今では焼け落ちて何もないあの忍者の里。忍者たちは四散したが、あの時、くノ一七人衆と呼ばれていた七人はいずれも一人前のくノ一として生きているはずだ。その中でも、茜と雫の姉妹ほど美しい女子(おなご)はこの世におるまい」

 そう語る辰影の目は、もはや人間のものではない。そしてくノ一について延々と語る辰影の記憶は、本人のものとは思われない。一体誰のものなのだろうか。


「かならずやふたりとも辰影様の手の中に転がり込んでくるでしょう」

 と白幽は言って、にやりと微笑んだ。


 辰影は白幽と結びつき、権力を振りかざすようになった。今、鯉沼藩は妖の毒気に頭から侵食されていっているのである。

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