第十二話 茜の気持ち
辻井栄之助がいなくなってからというもの、茜は何事に挑戦する気力も失ってしまった、あれからというもの、宿場に妖が出没する頻度は日に日に増加する一方だったというのに。
夜中になると宿場にはいくつもの真っ黒な人影が溢れかえり、不気味に蠢き、人に悪さをしようとするので、宿場の旅籠や人家の木戸はすべて閉め切られたままである。それで妖は木戸を叩いたり、声をかけたりしたばかりでなく、窓から屋内を覗き込み、隙間さえあれば、風のように入り込んで人さらいをした。
死人が出たという噂も茜の耳に入ってきていた。しかし茜はこの頃、ひどく気鬱になってしまって、昼も夜も部屋にこもっていた。
茜はある朝、座敷に腰掛け、朝餉として茶碗に山の如く盛りつけられた白米、言うなれば銀舎利を黙々と頬張っていた。
最近、茜は旅籠の主人夫婦と食事を共にするようになっていたが、夫婦は、食膳の前に腰掛ける茜がこの頃、ひどい仏頂面になっていることに違和感を抱いていた。
「茜さん。なにかあったんで……」
旅籠の主人は恐る恐る尋ねた。
茜はそれに答えず、沢庵漬けをひとつ箸で摘むと、
「白米に沢庵だけかいっ!」
と鋭く叫ぶと、その沢庵を宙に放り投げた。
途端、茜は飛びすさり、膝下の日本刀の刀身が閃光を放ち、宙に円を描いて、たちまち鞘に収まった。食膳と共に茶碗と皿が揺れて、その上に投げ落とされた木製の箸がカランカランと音を立てている。茜はしばらくそれを睨みつけているが、また暗い表情を浮かべ、箸を手に取って、残りの沢庵漬けをぽりぽりと噛み始める。
旅籠の主人は黙したまま、恐ろしげにその様子を眺めていたが、自分の皿の上に半分に切られた沢庵漬けが乗っていることに気づくと、自分まで斬り殺されてはたまらないので、膝でそっと後退りした。
そうかと思うと茜は夜中に突然、布団を払い退け、日本刀を掴んで、勢いよく立ち上がることもあった。
「お、おう、どうしたんだよ……」
と驚いて声をかける小猿の三平を尻目に、茜は旅籠から飛び出し、夜半の宿場町の辻に踊り出る。
黒い影たちが宿場の辻を支配し、至るところに妖しい灯火がともっている。
「ええい。化け物どもめ!」
茜はそう叫ぶと、黒い影たちを片っ端から叩き斬る。それで妖の血に染まって帰ってくるのだった。
見かけた旅籠の主人が、ある日、茜の部屋を尋ねた。
「あのお侍となにがあったのかわからねぇが、茜さん。あんまりひとりで悩むとよくないぜ」
茜は自分の両膝を抱えて座っている、床の隅のなにもないところを睨みつけたまま。
「心が乱れるとなにも分別がつかなくなっちまうものさ」
「わたしにはわからないことばかりだから……」
そう言うと茜は沈んでいる表情を浮かべて、
「あの人がいなくなってからひどく寂しいんだ。でも、その気持ちが自分でもわからない」
「俺もわからないことだらけさ。ずっと妖退治をしてたんだからな、お前さん、きっと疲れたんだろう。まあ、しばらく休むことだな。もし、どうしても気持ちがおさまらないなら、金剛寺の鉄海和尚に相談してもいいが……」
そう言って、旅籠の主人はおもむろに立ち上がり、二階の窓に歩み寄り、家並みの向こうの山から飛び出している金剛寺の壮麗な五重塔を眺める。
「金剛寺の鉄海和尚ねぇ」
旅籠の主人は首を傾げる。
茜がちゃぶ台の横に腰掛けて呆然としていると、旅籠の主人が振り返り、声をひそめてこんなことを言い出した。
「おかしいと思わねぇかい? こんなに宿場には、毎晩の如く妖が出没しているのに、あの金剛寺には一度も妖が出没していないんだからな」
「それは、鉄海和尚の法力のおかげでしょう?」
茜はそんなことは不自然とも思わない。しかし旅籠の主人は首を横に振った。
「そんなにあのお坊さんに偉大な法力があるのなら、自らこの宿場の妖を退治するはずじゃねえか。それがこうして幾月経っても宿場の妖は一向に退治されない」
「まさか……」
茜はなんとか反論しようと試みるが言葉が喉から出てこない。
「考えてもみろよ。この妖の騒動に黒幕がいるとしたら……」
「なんて罰当たりなことを。でも、まさか、そんなことが……」
茜は、しかしそう考えてみるとなにからなにまで合点がゆくような気がした。栄之助がいない今、自分がなにをしたらよいのかわからない。それはひどく不安な気持ちだった。それでも、妖のために変容してゆくこの宿場をどうにかしなければならないのだ。
(栄之助はいない。わたしはどうすることもできない。苦しみに対する答えもない。でも、わたしはずっと妖退治をしてきていた。そしてわたしはそれをずっと使命のように思っていた。そういう生活があったことも事実なんだ。このまま、部屋の隅を見つめているだけじゃ現状は変わらない。わたしはいつだってわたしの生き方をまっとうするだけのことなんだ……)
茜はそう思うと、日本刀を自分の近くに引き寄せた。
「茜の気持ち」 完




