第十一話 辻井栄之助の密命 (4)
翌朝、辻井栄之助は囲炉裏の近くで旅の荷物をまとめていた。茜はその様子をじっと眺めている。台所では、女房が味噌汁を作っている。米もそろそろ炊けそうだという頃合いなのだが、栄之助は飯を食べる気持ちの余裕もなさそうである。
「どこかに行くの?」
「ああ、俺はこの宿場から出てゆくことにした」
「どうして?」
茜は驚いて、栄之助の表情を窺った。しかし栄之助はただ生真面目に口を一文字に閉じて、荷物をまとめているばかりである。
「文左衛門がいないのならこんなところに留まっている理由はない。それに俺がいたら、いつまた奴らが襲ってくるとも限らない。この旅籠の親父に迷惑をかけたくない。俺は一刻も早く文左衛門を見つけ出さなくちゃならないからな」
「じゃあ、わたしも一緒に行くわ」
「いや、お前はここに残ってほしい。奴らがもしこの旅籠に押しかけてきたら誰がこの家族を守る。用心棒代わりになってくれ。それにお前にはまだ、この宿場の妖を一掃するという仕事が残されているだろ」
栄之助はそう言うと、旅籠の親父に小判を二枚渡した。二両である。単純に小判の一両を現在の十万円と換算するならば、二十万円というところ。旅籠は一泊、銭で二百文が相場だから、三十日の宿泊ならば旅籠賃は六千文というところだろう。江戸時代にしても時期によって異なるが、小判の一両は、銭の四千文に当たるから、二両ならば、銭八千文ほど支払ったことになる。
おまけにこの旅籠は、旅籠とは名ばかりで、建物がオンボロな上に、料理も酒も大したものを出していなかったので、普段一泊百文ももらっていないところだった。
「おい、辻井さん、こんなに受け取れねえよ」
「いいんだよ」
栄之助はそう言うと、親父だけでなく、女房にまで引き留められそうだったので、さっさと旅籠屋から飛び出した。
「ちょっと待ってよ」
茜が追いかける。旅籠から離れた路上で、栄之助は呼び止められて振り返った。
「本当に行っちゃうの?」
「文左衛門がこのあたりにいないと分かったら、この宿場でじっとしている理由はない。それよりも足を使って街道で探した方がいい」
「そっか……」
(ここでお別れなのかな)
だとしたら、もう栄之助と会えないのだろう、と思うと茜は急に寂しくなった。
江戸時代も残りわずかなこの時期、旅人同士の出会いは一期一会である。住んでいる場所を知っていればどうにかなるが、茜は栄之助のことを何も知らされていない、栄之助の藩がどこなのかも教えてもらっていなかった。
「ねえ、あなたの仕えている藩を教えてよ」
「茜。俺は密命を受けて、姫君を探している身だ。自分のことをそう簡単に他人に語れんのだよ」
「ごめん……」
茜は、こんな時にも気難しい口調で、武士道なのか、儒教めいた道理を語る栄之助に悲しくなって謝った。
わたしたち、もう会えなくなっちゃうんだよ、あなたにはそれが分かっているの、と茜は目で訴えたかったが、それが自分のわがままだと知っていたので、彼女は迷惑をかけまいとしてうつむいた。
栄之助は、
「達者で暮らせよ」
と古風な常套句を呟くと、背中を向けて歩き出した。
茜は、栄之助の背中が小さくなってゆくのを見た。今、引き留めなければ、もう会えなくなると分かっている男の背中が小さくなるのを、茜はただ黙って見つめていた。
栄之助の背中が見えなくなってしまうとかえって気持ちが楽になった。旅籠へと帰る道の途中では、栄之助と出会えたことを前向きに捉えて、あの人もわたしも異なる道を進むけれど、きっと心のどこかではずっと繋がっているんだ、と茜は思った。
茜は、旅籠に戻ると、自分の部屋に入った。ひどい喪失感を味わっていた。小猿の三平は、柔術でも学びたいのか、受け身を取っていて、鞠のように部屋の中をころころと転がっていた。茜は、座り込むと、なんだかひどく胸が掻き乱されてゆくようだった。
「三平……」
「どうしたんだよ。なんか、顔色が悪いぜ」
「栄之助がね、宿場を出て行ったのよ」
「本当かよ。そりゃあ、なんていうか……。でも、あいつはお姫様を探しているわけだし、こんなところにじっとしているよりもいいんじゃないか?」
「そうね。これで、いいのよ」
茜はにこっと微笑むとそう言った。思ったよりも明るい声の響きになった。
(いいんだ。わたしはあの人が幸せなら……)
幸せなら……。
「寂しいのかい?」
三平が心配しているような声で尋ねてきたので、茜は慌ててかぶりを振って、一段と明るい声を出そうとした。
「寂しいだなんてっ……!別にあの人と分かれても、わたし、どうってことないよ。一ヶ月しか一緒にいなかったんだし、なんか文句ばっかり言い合っていたし、それにわたし、あの人のこと、何も知らなかったんだもん。だから、わたし……」
茜は自分の声が震えていることに気づいた。
「自分の気持ちが分からないんだ……」
自分の頬に熱い涙が伝ったのを感じて、茜はそれを隠すように、窓の外を眺めた。宿場に並んだ甍の先には日に輝いている山並みがあってそれは、朝靄の中で美しかった。
「辻井栄之助の密命 (4)」完




