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第十話 辻井栄之助の密命 (3)

 神社の境内にふたりのくノ一が立っている。一方は、茜であり、もう一方は杏奈である。ふたりはしばし黙したまま、見つめ合っていた。


「杏奈……」

 ふたりは幼なじみである。共に同じ里で育った。幼き頃の記憶が蘇る。

 清らかな水の流れ、両側に礫が転がる渓流、それがふたりの遊び場だった。うろこ雲の広がる秋の空、ふたりは水の中に飛び込んだ。

 杏奈は、茜を呼ぶと、川の中を覗き込んだ。

(ねえ、この中には何があるんだろうね……)

(水の中に……?)

(わたしたちの知らない世界があるのかな)

 と杏奈は言った。


 ふたりとも、こうして敵対する関係で再会するとは思ってもみなかった。

 杏奈も幼なじみの茜に話しかけたい気持ちはあったことだろう。しかしそれができないのが忍者の掟というものである。杏奈は、己の任務のために、辻井栄之助を抹殺しなければならなかったし、栄之助の味方と言うことならば、幼馴染みの茜だってこのまま生きて返すわけにはいかないのだった。


「茜。残念だわ……」

 杏奈はそう呟くと、その場で煙を舞い上げて、姿を消した。

 その瞬間、神社は黒雲に包まれて、まるで丑三つ時のような暗さになってしまった。そこにさらに濃い霧がかかってきて、見通しが悪くなった。これが杏奈の幻術であることは明らかだった。

 茜は、呪文を唱えて、霧を風で払うと、杏奈の走る影を見えたので、駆けてゆくと勢いよく日本刀を振り下ろした。が、そこには何もなかった。茜はただ宙を斬っただけだった。

「まずいっ!」

 再び押し寄せてきた霧の中から飛び出した杏奈が、日本刀で突きをした。ふたりが衝突する。茜は刀で防いだが、杏奈の刀さばきの素早さに驚いた。しかし、茜は杏奈の猛攻を防ぎながら、間一髪のところで側面に入ると、杏奈を斬りつけた。


「あっ!」

 杏奈は、右腕を切られて、うめき声を上げると、一瞬ひるんで引き下がった。茜はさらに勢いよく踏み込んで、杏奈の胴体を斜めに叩き斬った。

(斬ったっ!)


 杏奈は鮮血を噴き出して、もがき苦しむように動くと、地面に倒れた。

 茜は杏奈を殺したと思った。とどめを刺すためにさらに踏み込もうとした、その時。


 もうひとつの影が横から現れて、茜に斬りかかってきた。

(まさかっ!)

 茜は、首から下を切り裂かれて、血を噴き出し、人形のように地面に倒れた。


「茜!」

 離れた位置から見ていた栄之助はそう叫ぶと、血まみれになった茜の元へと走っていった。地面に倒れている茜は息をしていない。

 そばには、杏奈が立っていた。先ほど殺されたはずの杏奈が無傷で、茜の死体を見下ろしているではないか。彼女は、栄之助に気がつくと間合いを取った。

「よくも、この化け物!」

 しかし、栄之助も迂闊には近づけない、その時。


「うっ!」

 杏奈の背中に手裏剣が刺さった。杏奈は、血を噴き出し、次々と飛んでくる手裏剣を払い除けると、その場から逃れようとして走り出した。

 たちまち、霧がなくなってゆき、黒雲もなくなって、自然の日射があたりを明るくした。

 栄之助が驚いて、あたりを見まわすと、地面に倒れていたはずの茜の死体がなくなっている。

 代わりに生きている茜が鳥居の上に立ってこちらを見つめていた。



「どういうことだ。さっき、お前は刺されたはずじゃないか」

 栄之助は、茜の無事を確認して安心すると共に、疲れた心のせいか、不機嫌になった。

「刺されたのは、わたしじゃなくて、わたしの幻だよ。杏奈だって、わたしを幻と戦わせておいて、横から斬りかかってきたんだ。だから、わたしは咄嗟に杏奈の真似をして、自分の幻を見せたというわけ。それより、杏奈はわたしたちを殺そうとしていた。今は深手を負ったから、一旦引いたけど、必ずまた現れるよ。ねえ、すぐにこの場から離れようよ」

 栄之助はその言葉にうなずいた。それもそうだと思った。ふたりは急いでこの神社から離れた。


 ふたりは以前、来たことがある渓流にさしかかった。ここで栄之助は、巨石の上に座り込んだ。足首から血が滴っている。いつついた傷だか、記憶にない。栄之助は足首に川の水をかけた。

「ここならもう大丈夫だ。見通しがいいから、いきなり襲われることはない」

「ねえ。教えてよ。あなたの探している文左衛門って一体誰なの」

「文左衛門ってのは、この村に住んでいる百姓の一人さ」


 栄之助は、手ぬぐいを水につけると、それで首元の汗を拭った。

「まあ、こういう状況になってしまえば、お前に事情をすっかりしゃべる他ないだろう。知っていると思うが、俺はとある藩に仕える武士だ。その藩の姫君が今から一月前に失踪してしまったんだ」

「失踪……?」

「ああ。藩としてはもしこのことが幕府に知られたら、大騒ぎになると考えて、今では代わりのものが姫君に成り済ましている。影武者ならぬ影姫というわけだ。というのも、江戸に住んでいる藩主の妻子は、本来、幕府の人質のようなものだからな……」

 関所で通してはならないのは「入り鉄砲と出女」と言われるように、江戸から藩主の妻子が勝手に出ることは硬く禁じられていた。


「俺は信用できるある方から密命を受けて、すなわち姫君を探すために、一人でこの宿場までやってきたというわけだ」

「それは一体どうして……」

「理由は単純だ。姫君は、失踪する前夜、この村の文左衛門という百姓に会いに行くと女中に告げていったからさ」

「でも、なぜお姫様は、その人に会おうとしていたの」

 藩の姫君と田舎の村の百姓に関係があるとは思えない。


「姫君が失踪したのは、ただの気まぐれではない。実はな、我が藩は、妖に憑かれていると思われるある一団にのっとられそうなのだ。もしも、今の藩主が奴等の手にかかって殺されてしまえば、この事態を食い止めることはもう難しいだろう」

「妖に藩が乗っ取られる……」

 茜は、いまだ聞いたことない規模の話だったから、すぐには飲み込めなかった。


「このまま、藩が得体の知れない輩に蝕まれてゆくのを黙ってみてはおれん。ところが、霊感のない俺には、誰が味方で誰が敵なのか、皆目見当がつかん。先ほどの三人の刺客は、おそらく我が藩の侍だろう。上から下に至るまで、藩は得体の知れない悪心に侵されている」

「………」


「姫君はこのことを憂慮されて、慈眼寺という寺のある名僧に相談をすると言って、江戸藩邸を一人抜け出したんだ。しかし、その慈眼寺というのがどこにあるのか分からない。ところが姫君は、失踪する前夜、どうもこの村の文左衛門という百姓が慈眼寺の名僧の居場所を知っている、と女中に喋っていたらしい。俺は、文左衛門に会って、姫君のことを聞き出すつもりだった……」

「そういうことだったの」

 茜はようやく納得したらしく頷いた。そして事態がはっきりと分かって、こんなことを口にした。


「じゃあ、昨夜、文左衛門が神隠しにあったのは、相手方に誘拐されたとも考えられるね。今、彼はどこにいるんだろう……」



       「辻井栄之助の密命 (3)」完

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