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第一話 死人の滝

 挿絵(By みてみん)


 挿絵(By みてみん)

イラスト制作 Kan

 一人のおなごが今、杉林の広がる切り立った峠を越えようとしている。

 峠の先に漂っているのは奇妙な気配。それは妖気のようなもので、まがまがしき死人の朽ち果てる匂いとなっておなごの身に迫ってきている。

 この先にあるものが何なのか、おなごはいまだ知らずにいた……。


 おなごは、頭の後ろで黒髪を結い上げていて、余った髪が白い首筋に下がっている。

 また、色白の素肌は、秋の日差しを受けてほのかに光り輝き、切れ長ながら柔和な眼差しの奥の黒真珠色の瞳は、えも言われぬほど美しかった。


 このように見事な器量のおなごが、甲州街道を一人で旅している。……というのは徳川の治世、天保の浮世ではいかにも物騒な話だが、無礼な野盗が近づいて来たとしても、彼女は即座に隠し持っている太刀をふるって、容赦なしに成敗してしまうのだった。


 おなごは(あかね)という名のくノ一である。もっとも武州にある忍者の隠れ里からたった一人抜け出し、今では行く当てのない風来の旅人と成り下がっていた。

 茜は、満で二十歳である。数えだと二十二ということになるだろう。

 茜は生まれつき鋭敏な霊感の持ち主で、行く先々で妖怪や幽霊といった、この世のものでないばけものどもを成敗し、得た報酬で このような当てなき旅を続いているのだった。


 茜は、抜け忍の身とはいえ、くノ一に他ならない。

 茜はその小袖の懐に、日本刀とか手裏剣、俗人には見たことも聞いたこともないような、さまざまな武器をいずれも豆粒ほどの大きさにして収納している。さらに彼女は剣術に飽き足らず、柔術も嗜んでいる。


 だから、そのあたりを彷徨く野盗では、とても彼女を思い通りにはできないのであった。


 茜が峠を越えたところで、茶店が見えた。今にも倒れそうなぼろ小屋だった。そこには、皺だらけのお爺さんが難しい顔をして座っていた。茜は、ここで一服しようと考えた。

「お爺さん。お茶を一杯ください……」

「へえ、おや、珍しいねえ、おなごが一人旅とは……」

「ねえ、何があるの。ここは」

「団子くらいですな」

「じゃあ、お団子をひとつ……」

「へえ、すぐ上等なやつを……」


 茜は、首筋を伝う汗を拭って、今まで歩いてきた峠の道を眺めた。よくこの荒れた道を歩いてきたものである。そして、茜は左手につながっている道を眺めた。そこから先はまた険しい道である。

「あの、つかぬことをお尋ねしますけど、この先には何があるのでしょう……」

「へえ、この先、三里ほど行ったところに村がありますが……」

「それよりも手前に何かあるでしょう」

「それよりも手前……?」


 お爺さんの顔はみるみる険しくなった。

「お嬢さん。もしかして、死人(しびと)の滝のことを言っておられるのか」

「死人の滝とは、何です?」

「そら、若い娘が次々と身を放り込ませる滝壺ですけど……。あそこには化け物が住んでいて、そうさせるんだとか……。悪いこた言わねぇ、あそこには近づいちゃあいけないよ……」

「そんな、恐ろしい滝壺があるのですか……」

 しかし、茜の脳裏には別のことが浮かんでいた。その化け物を成敗して、誰かから報酬を得るということができないだろうか、と。


 茜は、お団子を一口頬張りながら、色々なことを考えていた。



 茜はさらに峠を降りていった。そして妖気の漂う方へと足を進めていった。空間がねじ曲がっているように感じられるほどに強烈な妖気が谷底に充満していた。

 茜がしばらく山道を下ってゆくと、滝の音が聞こえてきた。茜はにやりと笑った。そこが間違いなく、死人の滝だった。


 そこはわりに広い滝壺だった。崖の上から滝が落ち、水が溢れて、小川となってあたりを流れていた。茜はあたりを見まわした。しかし妖気はあっても、化け物らしき姿は認められなかった。

 水の底を探ると案外、深かった。死人の姿もなかった。茜は当てが外れた気がした。


 茜は岩に座ってじっくり考えた。この滝壺の化け物を成敗すれば、付近の村から報酬が得られるものだろうか。それには事前の交渉が必要だろう。しかし今の自分にはそんな時間の余裕はない。路銀がないのだ。

 しばらくそんなことを考えていると、森の中から一人の少女が包みをもって現れた。歳の頃、十八というところだろうか。可憐な少女だった。

 少女は包みを滝壺近くの岩の上に置くと、せっせと来た道を戻ろうとした。そこで茜は声をかけた。

「お嬢さん」

「ひゃっ」

 少女は驚いて、茜を見た。


「それは何、一体、何を置いたの?」

「これは亡くなったお姉さまのお供え物です。あ、あの、ここは危ないところですから、すぐに引き返した方がいいですよ……」

 茜はその答えを聞いて、岩の下に飛び降りた。

「なぜ?」

「化け物が出るからです……」

「ふん……。一体、ここに現れる化け物とは、何ものなの?」

 少女は、近づいてくる茜の美しさに驚いた様子だった。しかし尋ねられたことを慌てて答えようとする。


「百年も昔に、ここで心中をした男女があったんですわ。ふたりは深く愛し合っていました。でも、男は死んで、娘は生き残ったんです。それっきり、娘がどこへ行ったのかは分かりません。でも、男の魂は長くこの滝壺に残って、共にあの世にゆくはずの、娘を迎えようとしているんです」

「ふん。でも、その願いは到底かないませんね。その娘も今ではどこかの墓に埋まっているはずです……」

「そうです。しかしここの化け物は聞く耳を持ちません。百年も経ったと気づかないんです。ですから、村の娘が近づくと、化け物は死に別れた娘かと思って、水の中に引っ張りこむんです」


 茜は、なるほど、と頷いた。

「お尋ねしますが、その化け物を退治したら、村の方々はお喜びになりますか?」

「ええ。それは、もちろん……」

「では、どうでしょう。私が今夜、その化け物を綺麗に退治いたすというのは……」

「そ、それは、無理です。それはあまりにも……」

「いえ、私ならばそれも無理ではありません。これでも化け物退治を生業としている者です。でも、ただというわけにはいきません。明日、村に寄りますから、お嬢さんから皆さんによろしくお伝えてくださって、三両ばかり用意しておいてくれませんか」

「三両で良いのですか。化け物を退治していただけるのなら、爺さまはきっといくらでも出すでしょう」

 こうして口約束ながらも交渉は成立し、娘は期待と不安に胸を膨らませながら、道を登っていった。



 それから茜は、この化け物をどう料理しようかと考えた。

 しばらくして、茜は、妖気の匂いを嗅ぎながら、さも余裕だと言わんばかりに、着物を脱ぎ始めた。そして全裸になった彼女の白い肌が、水に映った。そして彼女は水にその体を浮かべた。汗が水にのって流れた。彼女の体は、若々しい官能的な芳香に包まれていた。

 これでは、彼女は化け物を誘惑しているかのようだった。しかし茜は化け物にわざと油断しているところを見せているのである。

 彼女は水の冷たさが心地よかった。熱っぽかった素肌が、ほんのりと冷えて、眠気が襲った。だんだんと化け物が出ることを忘れた。


 その時、まがまがしい妖気が茜に降りかかってきた。そしてそれは茜の白い体をすっかり包みこもうとした。茜は、あっと叫んで、水から跳ね上がると、岩の上に立って、隠し持っていた手裏剣を投げた。途端、空中で物凄い叫び声が響いた。


 見ると、黒い狼のような獣が、滝の上に飛び上がっていた。

「あれだっ」

 茜は、その姿を目に焼き付けた。



 それから化け物は姿を現さず、日が暮れた。一面は暗闇に包まれている。その中から相変わらず滝の音だけが聞こえてくる。茜は、きっと化け物はもう一度、自分を狙ってくるだろうと考えていた。しかし、こうなるともはや化け物を肉眼で捉えるのは難しかった。


 焚き火をしながら、茜はまた眠ったふりをした。本当に眠りたくなるような心地よい風が吹いていた。心拍のせいだろうか、胸がかすかに揺れる。


 しかし頭上ではかすかに妖気が渦巻いていた。それは長いこと停滞していた。しかし、その時、茜はその妖気の渦巻きがどんどん強烈になってくるのを感じた。

(来る……!)

 茜は、はっとして、その妖気の核に向かって、隠していた日本刀を一心に差し向けた。嫌な手応えがあった。その途端、物凄い叫び声が茜を包み込んだ。同時に生暖かいものが自分に降りかかってきて、あたり一面に醜悪な妖気が舞い散った。


「グアアアアアアアア……!」

 それは男の声だった。茜が驚いて目を開くと、そこには宙に浮かぶ一匹の狼があった。そして、喉元を突き刺されて、黒い血を噴き出しながら、滝壺の方に消えていった。


 茜はむくっと起き上がり、はだけた着物を整えて、松明をかざすと、滝壺近くの岩の上に狼の死骸が転がっていた。茜は考えた。この狼は何だろう。心中した男の霊が、この狼に取り憑いていたのか。それとも、心中した男の霊などははじめから関係なく、全てはこの狼が化けてしでかしたことだったのか。全てが終わってしまった今、茜には分からなかった……。


              「死人の滝」完

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― 新着の感想 ―
[良い点] こちらの作品も読ませて頂きました。 挿絵からは茜はお色気要素が強いのかな、 と思いましたが、いざ読んでみたら違いました。 でも正統派の冒険系妖怪退治ものという 感じの作品で一話の時点でもと…
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