人間を奴隷とした猫の物語
猫の秘密
コンピュータ室―――この地域に住む人間の頭脳であった。
巨大なスクリーンが壁にはめ込まれていた。その下で数人の男女が液晶のタッチパネルを見詰めていた。キーボードはなかった。コンピュータの本体は地震などの衝撃に耐える為に地下に格納されていた。
スクリーンにはホツマ文字から解読した文章が表示されていた。
「では、聞いて下さい」男がタッチパネルに触れる。コンピュータの機械的な声が流れる。ここに居る人々は事務椅子に腰を降ろして声に聞き入った。
――――私は松池マサル、マサルの法則を世に出したが、タマの妨害で、タマとは私の飼い猫だった白猫だが、私の本は世に出ることなく、すべて破棄処分となった。それだけでなく、タマは私の命さへ取ろうとしていた。
私の行為は人類を危機に追いやる事になった。今更悔いても遅いが、せめての私が犯した罪の償いとして、このつづりを残すことにした。
タマを指導者とした猫共は、私の書いたものをすべて処分するだろう。私は父の兄、松池ヒロシの書斎にあったホツマ文字で書くことにした。このつづりが無事、人間の手に渡り、解読されることを願って、東海市の図書館の書架に滑り込ませることにした。
松池ヒロシが行方不明になってから、この家は私の父が後を継ぎ、その後私が継いだ。
私は小さい頃から本を読むことが好きで、父は1人息子の為に、この書斎をくれた。私は千冊余の本をことごとく読了した。一般の書店では売られていない本ばかりで、超古代文明とか、神道、仏教などの修行法とか、魔法や占い、霊能者の本など、叔父のヒロシは奇妙な人間だったに違いない。
母は私が高校生の時に亡くなった。私が25歳の時に父が亡くなった。父が残してくれた遺産で充分に生活が出来たので、私はある研究に没頭する事が出来た。
人は歳をとると能力が低下する。知能も落ち、いわゆるボケ症状に襲われる。また人の能力は千差万別で、1を聞いて10を知る者もいれば、10を教わっても1も理解できない者もいる。
数学が得意でも国語はだめだとか、国語は得意でも数学は苦手だとか、人さまだまだ。叔父の書斎の本の中に、これらの問題を解く鍵があった。
私の研究は1人でも多くの人を天才にする事だった。それも万能の天才を創造する事だった。―――
コンピュータは抑揚のない声で話し続ける。その声を聴き、スクリーンに表示される文章に釘付けになった。松池は固唾を呑んで見守った。
―――人の頭脳を向上させるには、色々な方法がある。頭脳を刺激して、常に向上心を燃え上がらせるとか、
頭のよくなる食べ物を食べるとか、多々あるが、人を天才にするわけではない。
だが、私はその方法が必ずあると確信していた。
私は書斎の本の中から”エメラルドタブレット””奇門遁甲家相術””竹ノ内文書”、それにヒロシのメモ帳を取り上げた。
特にこの叔父のメモ帳には、この3冊の本と他の本の内容が要領よくまとめられていた。
不老長寿の方法、神に進化する方法、そのための瞑想法などの仮説が書かれてあった―――
「ヒロシのメモ帳って、あんたの事」アイが尋ねた。松池はアイの手を握り締めた。皆が松池を見る。
「タイムスリップは本当だったのだな」オサムが言った。
―――私がこのメモ帳に着眼したのは、人間やその他の生物は環境によって大きく影響されると言う事だった。
奇門遁甲家相術によると、家を建てる時、平坦な土地の建てるよりも、家の周囲に起伏や曲がりの多い土地に建てたほうが、そこに住む人のためには良いのだと言う。
山の尾根を竜と言う。竜が平地まで下ってきて、くぼんだ所が出来る。これを穴という。この穴に家を建てると、家運は上昇し繁栄する。寿命は長くなり、事故や病気は少なくなると説いている。
つまり秀才や馬鹿が生まれたりするのは、遺伝もあるだろうが、主にそこで生まれ育った環境によると言うのだ。
叔父が不動産の仕事をしていた頃や私がこれを書いている現在は、住みたい土地に住むこと困難になってきている。
叔父のメモ帳には、良い土地に建物が建てられないなら、人工的に良い土地を作るしかないとある。その方法も記されていた。
奇門遁甲家相術に言う。地勢の良い場所に家を建てると、長寿者や頭の良い子が育ち、平坦でいつも乾いたような土地に家を建てると、貧乏で愚かしい人間が育つと言う。叔父はこの考えに興味を抱いたらしい。
何がそうさせるのか。叔父の仮説は、物の形によって生じる”気”インド哲学で言うプラーナだと言う。
本来気は形はなく匂いもないが、人の感情や行動によっても簡単に、その性格が変わると言う。物の形でも、ビルのような四角い建物と、日本家屋の様な切妻の形、鉄や木などの材質によっても性質が変わる。だから地勢の悪い場所の気は人間に悪い影響を及ぼす事になる。
気が充満し、人間に最もよい影響を与える場所は、神社や仏閣のある場所、小高い丘の上、尾根が下りきった所などがあげられる。
良い場所に住みたいと思っても、それが不可能だとすれば、今住んでいるところを、気持ちの良い気の充満する場所に変える必要がある。叔父のメモ帳の結論はここに尽きた。叔父の仮説はさらに進む―――
「ねえ、ヒロシ、すごい事考えていたんだね」アイは穴の開くほど松池を見る。松池の手を握り返した。アイの手の感触が心地よかった。
「そうだ。我々はこんなことを考えたこともないし、そんな余裕のなかった」タローが言った。
―――叔父のメモ帳にはもう1つ、世間への批判があった。例えば食べ物、卵を例にとると、風邪薬や消化剤など、約10種類の薬の入っている餌を食べて、昼夜の別なく生産させられている鶏が生んだ卵と、自然の中で放し飼いで育てられている鶏が生んだ卵とは、カロリー的にには同じでも、その質は大きな違いが生じる。前者は悪い気を含み、これを食べた人間に害を与えるだけだ。
塩を例にとっても、専売公社が作った塩は塩化ナトリュウムであって塩ではない。食べ過ぎれば高血圧につながるし、はっきり言えば毒でしかない。本当の塩、塩田で作られた塩は食べすぎても高血圧にならない。世の物知り屋は塩を摂りすぎると高血圧になると警告する。彼らは塩化ナトリュウムと自然塩の区別を知らない。塩を摂らない害、低塩病については無頓着なのだ。
これと同じことが世の中で平然と行われている。世間によくある悩み事相談や健康相談である。相談者の住んでいる家や場所を考慮して話をする人はいない。努力しなさい。良い医者に相談しなさい。それで終わる。
性格改善の相談でも同じことだ。そこに住む家や場の気をよくすればすべて解決される問題ばかりなのだ。ぐれた子供なども、住んでいる家の一部を改造する事で矯正される。
私は叔父の仮説に興味を持った。メモ帳には、自分の住んでいる所を良い気で充満させる方法が古代宗教の中に見出されると書いてあった。
古代錬金術によれば、賢者の石を作る方法として、塩、硫黄、水銀が取り上げられていた。日本の古神道は、塩はそのまま海に、硫黄は火山活動に、水銀は丹生つまり円で示されている。3種の神器、剣、勾玉、鏡がこれに相応する。
剣は水銀、勾玉が塩、鏡が硫黄に対応している。これを現在的な解釈で言うなら、水銀が地球のマグマのエネルギーを、塩が磁気エネルギーを、硫黄が太陽エネルギーをそれぞれ強化する。これらのエネルギーを上手く利用する事で、人の寿命も3~4倍は伸びる。知能も飛躍的に向上するはずである。
ただし、ここに1つ、大きな問題がある。
これら3つのエネルギーは元々は1つのエネルギーであって、3つのエネルギーは気のエネルギーが分離した形態に過ぎない。その力を極度に高めたところで、人が有害な気として使用すると、寿命が伸びるどころか、短命に終わる恐れがある。知能も低下するだけである。
それをはぶく為に1つ必要な物質がある。3つのエネルギーを人体に有益にするもの、それが水晶である。水晶はその場の気のエネルギーを浄化する力を持っている。昔から水晶が魔除けとして珍重されるのはこのためである―――
スクリーンを見守る人々から嘆息とざわめきが漏れた。
「信じられんことだ!」オサムが叫んだ。信じろと言う方が無理かもしれない。
―――私は痴呆性老人のボケを治す薬が何種類か発見されている事実を知っていた。脳を活性化して知能をより高める薬を目指して、製薬会社や大学が研究していた。
私は彼らの方法では成功はおぼつかないとみていた。彼らの研究には”場”の気が考慮されていないからだ。
”いつ、何処でも、同じ結果が生じる”それが何々の法則とよばれるが、一般的にはそんなことは有り得ないのだ。その場、その場によって、得られる成果に食い違いがあって当然なのだ。
私は叔父のメモ帳に基ずいて、叔父の残した工場の中で、2つのエネルギーを充満させて、強化し、浄化させる方法を考え出した。
この中で、知能を向上させる物質やバクテリアの開発を目指した―――
もはや溜息やざわめきは起こらなかった。誰しもがスクリーンの文字に食い入るように眺めていた。松池は改めてコンピュータを見た。タッチパネルで押して声で指示すると指示者の要求をスクリーンに映し出していった。松池の時代のコンピュータよりはるかに進んでいるが、猫のコンピュータから見るとかなり遅れていることが判る。
―――私の研究は意外に早く成果が表れた。と言うのも、第2次世界大戦後に生じた大量生産と大量消費の風潮から、消費物資を画一的に生産するようになった。例えば食料で言えば、カロリー計算のみで、大量供給された。薬で言えば、ビタミンcが風邪に良く効くとなると、鉱物性ビタミンcが大量に製造された。そして、これらの弊害が表面化していたのだった。その反動として、本物を求めようとする考えが定着しだしていた。
物があふれ、贅沢が日常のものとなったが、その反面、一向に病気が無くならず、体力の脆弱化も目立ち始めるようになった。痴呆症やうつ病が社会問題化していた。
体力の脆弱化はスポーツによって鍛え直すことが出来たが、痴呆症やうつ病はその方策の見いだせなかった。それでも、色々な研究報告,その成果、痴呆に効くと言う薬や物質の情報が社会にあふれるようになった。そのおかげで私はそれらの情報を活用する事が出来た。
人間の脳細胞は150億あり、ニューロンによって細胞同士が複雑に絡み合っている。歳をとるとともにニューロンが消えていく。細胞同士の情報、つまりシナプスが途絶えていく。これが知能の低下で、ボケの始まりともいわれる。
私はニューロンの活性化を促進する物質やバクテリアの開発に没頭した。
ある日、私は家の庭で奇妙な現象に興味をもった。私は独身で庭の手入れをした事がない。近所の主婦が庭で野菜などを作っていた。その一部をおすそ分けしてもらっていた。その野菜畑の一か所だけが、他の野菜よりも3~4倍も大きく成長していたのだ。私は工場に気のエネルギーを充満して強化する方法を講じていたので、そのせいかと考えた。野菜畑の土を採集して、分析を始めた。
その結果、奇妙なバクテリアのを発見した。そのバクテリアを他の野菜畑に入れてみると、野菜の成長が著しかった。
私は工場内で、ネズミやウナギ、トカゲ、手にはいる動物を飼っていて、実験に利用していた。結果を調べ上げて、その影響を克明に記録していた。
私はそのバクテリアで動物実験を行った。結果は何の兆候も表れなかった。植物にだけしか影響しないのかと失望した。
ところで私の家には猫がいた。叔父のヒロシが飼っていた猫の名前をそのまま付けてタマと呼んでいた。
タマが7匹の子猫を産んだ。猫が子を産んだ後の始末程面倒なものはない。私はふと思いついて、子猫にバクテリアを注射した。
生まれて間もない猫1匹1匹に容量を計算して、水に溶解したバクテリアを加減して注射したのだった。
まず1番多くの量を注射した猫は脱水症状のような病気になって間もなく死亡。1番少ない量を注射した猫は、3か月、半年、1年たっても何の変化もみられなかった。
2番目に多く注射した白猫以外は、ほとんど反応らしき変化は見られなかった。
私はこの白猫の反応と成長の注目した。
1か月たち、2か月たった。眼の輝きが他の猫と違ってきた。どう表現したらよいのか。知的な光が表れてきたのだった。
私は白猫の変化を注意深く見守りながら、沢山の猫で実験した。その結果、判明した事は、猫への血管注射は、生後1か月以内に行う事。バクテリアの量は体重の千分の1ぐらいである事。ぐらいと言うのは、千分の2から3ぐらいの許容量がある事。この変化はその猫の1代限りで遺伝はしないことも判った。
それに最も重要な発見は、バクテリアの培養は工場内で行う事。私はバクテリアの培養を他の場所で試みてみたが、全て無効だった。他の動物での実験も行った見たが、何の反応も見られなかった。
私は夢中になって、数10匹の猫にバクテリアの注射を行い、その成果を見守った―――
今、私は断腸の思いでこれを書いている―――
スクリーンの文字と機械的な語り口が、突然変化を見せた。
・・・マサルが泣いている・・・松池はそんな思いにとらわれた。悔いても悔やみきれない思いが一気に噴き出したような心の高ぶりが、スクリーンの文字に表現されているような感じだった。
―――自分がとんでもないことをしたと気が付いたときは、もう遅かった。
私は生まれたての猫にバクテリアを注射して数を増やしていった。半年、1年がたって、成長し始めた猫は人の言葉は喋れないが、私の言葉を理解して、心の中まで読み取るようになっていた。私は単純に、利口になった猫が側にいるだけで喜んでいた。
猫たちは、初めの内、自己主張する道具として、あいうえお順に並べたボードを前足で抑えて意志表示をした。
私は猫が知能を有する事実を社会に公表しようとした。猫達はこぞって反対した。そんなことをしたら、我々は皆実験材料として惨めな生活を余儀なくされると言うのだった。私は猫が好きだったので同意した。
猫達は私以外の人間にはただの猫として振る舞っていた。知能のないただの猫は、これらの猫達を極端に恐れていた。
1年、2年たつうちの、猫たちの知能は人間をしのぐほどになったいた。猫達は私にコンピュータや色々な器具を買う様に指示して、それをどのように組み立てるかを、教えた。私は完成されたその器具をみて驚嘆した。猫の鳴き声が人間の声として発生するのだった。その次に作った器具は私には明かされなかった。それは小型で、猫の首に取り付ける事が出来た。一見して鈴に似ていたので、誰が見ても飼い猫の鈴としか判らないものだった。
「これは何の器具だ」と聞いても犬や他の動物から身を守るための装置だと言うだけだった。私は猫たちの為に、バクテリアの培養に精を出した。まるで何かに取り憑かれたみたいに夢中になった。
今から思うと、どんな事をしてでも、バクテリアの培養を止めるべきだった。しかし好奇心に勝てなかった。知能を獲得した猫たちが私に纏わりついていた。それが自分の子供のように可愛くて仕方がなかった。
猫から色色な器具を作るようにせがまれて、私1人では対応できなくなっていた。その道の専門家や工場に委託して作らせるようになった。工場の責任者から、使用目的を尋ねられても答える事は出来なかった。
それらの器具の中には、サブミナル音楽を利用したものがあることが判った。ある種の言葉を潜在意識に直接働きかけるものだ。それらの器具の中に、人間の心を制御するものがあると判った時は、すでに時遅く、猫達の野望を阻止する事は出来なかった。
私の潜在意識には猫の野望が浸み込んでいた。猫に言われるままに、バクテリアの培養に励んだが、不安と恐怖が交差していた。
バクテリアの培養から3年がたった。
ある日、数人の男女が私の家を占拠した。猫に洗脳された彼らは、私に有無を言わさず、家に住みつき、培養の方法を教えるよう強要した。非力な私は逆らう事が出来ず、彼らの指示に従った。彼らは1か月もすると、数10人に膨れ上がった。私の家の周囲には借家があった。借家人は全員、申し合わせたように退去していった。その後、彼らが住みついた。
彼らは猫を”カミ”と崇める世界平和教団の信者と名乗った。私の不安はさらに深くなった。
私はバクテリア培養の責任者として一目置かれていたが、厳しく監視されていた。私の家や工場の周囲は柵が施されて、立ち入り禁止となった。
私の知らないところで、とんでもない陰謀がめぐらされていると知った時、これ以上猫の手伝いは出来ないと悟った。私は培養を拒否した。殺されても仕方がないと思った。
彼らは私の要求を無視した。すでに私がいなくても培養は行えるようになっていたのだ。私は無視されたが猫に関する情報を漏らさない限り危害を加えられなかった。
私は密かに社会に告発する意味で、マサルの法則と題する本を発行する事にした。猫が人間以上の知能を有すると書いても、誰も相手にしないと思って、環境と物質の相乗効果が伴うと、動物でも人間以上の知能を持つ可能性があるという内容にした。
自費出版にしたが、大々的に出版して、猫達や世界平和教団の連中を刺激しないために密かに行った。
私は半田でタウン誌を発行している友人にお願いして、千冊の本を作ってもらい、直接本屋さんに卸してもらった。
世界平和教団の力は私が想像していたよりも大きかった。本はほとんど売れないにも関わらず、本屋さんから私の本はすべて消えた。本を発行した知人も、出版元も、全て本は取り上げられていった。
私は猫から責められた。猫は傷ついた獲物でも見るような眼で私を見ていた。自分より弱い者を徹底的に苛め抜くと言った陰鬱な眼の光があった。親代わりの私を慈しむ表情などなかった。私は背筋が寒くなった。猫は3年の恩を3日で忘れると言うのは本当だった。
「マサル、今度おかしな真似をしたら、命がないと思え」
私が心血を注いで育て上げた猫の言葉だった。私は家に閉じ込められて外に出られなくなった。いずれ殺されるだろうと思った。
猫が人間を支配するのは、そう遠い事ではないと予測した。とんでもない事をした。後悔にとらわれていった。酒に入り浸る毎日が続いた。こんな私をみて、世界平和教団の連中はせせら笑った。彼らは完全に猫達にコントロールされていた。培養されたバクテリアは、毎日のようにトラックで運ばれていった。酒浸りになりながらもなんとかしなくてはと、私は焦っていた。
バクテリアが工場以外では培養できないことは、猫達も知っている。その理由を何としてでも私から聞き出そうとするはずだと思っていたが、猫達は何もしなかった。気味が悪い程無視されていた。
ある日、私は深酔いして、うつうつしていた。夢を見ているような、現実と非現実の狭間をさまよっていた。そんな時だった。
・・・工場にどんな秘密があるのか、お前は言わなければいけない・・・
囁くような声を聴いた。
私ははっとして眼を覚ました。何も聞こえなかった。しかし私は気のせいだとは思わなかった。人の心をコントロールできる猫達の事だ。私の心から直接聞きだそうとしているのだと悟った。もはやぐずぐずできなかった。
私は夜中に起きて、猫の秘密をホツマ文字で和紙に書いた。筆になれなかったが、必死で書いた。古文書に見せかけた。これは猫達の追及を避けるためだった。作者を明らかにするために、自分の名前をいたずら書きのように書いた。
私は住み慣れた家を捨てねばならなかった。書斎の中から、叔父のメモ帳と、奇門遁甲家相術、竹内文書、エメラルドタブレットを焼却した。
このつづり和紙が同胞の手に渡ることを祈る。猫達に渡る恐れもあるので、工場の秘密は述べる事は出来ない。もし猫達がこの秘密を知ったなら、彼らの地球支配はより強固なものになろう。バクテリアは何処でも培養が可能となるからだ。
私の計算だと、バクテリアの培養に使用されるビーカー同士の隙間はその3倍は必要である。2百坪余りの工場での培養は1か月かかる。1か月で培養されたバクテリアは百万匹の血液注射が可能になる。1年で千2百万匹の猫が知能を持つことになる。
猫の寿命を15年と見る15年間で1億8千万の猫が生まれる。それ以上の繁殖は無理と見る。これが猫達の最大の悩みになる筈だ。
このつづり和紙が同胞の手で解読されることを祈る。工場の秘密を解明してほしい。バクテリアを無効化にする方法が判る筈だ。これは1個人の力では出来ない。
古代の叡智を学んでほしい。牛と虎に会うと、塩は溶けて消える。その時猫はただの猫になる―――
スクリーンの文字は終わった。抑揚のない声も消えた。
人間狩り
コンピュータ室は、重ぐるしい沈黙が漂っていた。顔を覆ってうなだれる者、放心したように天井の蛍光灯を見詰める者、時間が停止したように誰も身じろぎもしなかった。
「何という事をしたんだ! マサルめが・・・」オサムがこらえていた激情を一気に吐き出した。
「アイ、これを、全国、いや全世界の同胞に伝えろ。カミの秘密が判ったのだ。これだけでも大変な収穫だ!」タローの声に、アイはコンピュータに指示する。
「ヒロシ、君の意見が聞きたい!」タローは緊張した声で言った。皆の視線が松池に集まった。
松池はどう話をしたものか、言葉に詰まった。
「このような世界を造った根本原因が私にあったようだ。何と言ったらよいのか・・・」
「何言っているのよ。ヒロシの預かり知らぬ事じゃないの。5百年前の事を、今更何を言っているのよ」
アイが松池を弁護するように叫ぶ。
「ヒロシ、君を責めているんじゃない。君ならこの問題が一番理解できるのじゃないかと尋ねているのだ」タローの言葉に、皆頷いた。
「実を言うと、私自身が一番戸惑っているんだ。確かに、私は仮説として、塩、硫黄、水銀についてメモ帳を残したが、現実にそれらをどのように応用したらよいのか判らないのだ。ただ、塔の中の私の家に入れば何か判るかもしれない」
とにかく、カミの数は1億8千万以上にはならない事だけは判った。だからこそ、彼らは我々と共存したがっているのだ」タローは言った。
「カミが人間と共存していくうえで、どんな条件を出すか、確かめてみよう」松池は言った。
それから10日ばかり、松池はは彼らの生活ぶりを見た。アイがガイドを務めてくれた。松池は妻との生活を思い出して嬉しかった。
ここには法律と言う物がなかった。所有する物もなければ、売買のための貨幣もなかった。時々戦いを仕掛けてくる猫に一丸となって防戦しなければ生きていけなかった。食料を調達する者、料理する者、コンピュータで情報を処理する者、コンピュータや機械を修理する者、潮流発電機を管理する者、それぞれが力を合わせて生きていかねば全滅は必死だった。
老人達は子供に文字や学問を教えていた。女たちは子供の養育や、その他の男では出来ない仕事を引き受けていた。猟や漁は男達の仕事だったが、猫達に拉致される危険が伴っていた。猫達が拉致する人間は成人の男女に限られていた。彼らは2度と帰ってこなかった。
法律こそなかったが、この世界は生き抜くためのルールがあった。上官の命令には絶対服従であること、男は1人の妻しか持たぬこと、与えられた仕事はやり遂げる事、これに違反した者は放逐される。
松池は猫の社会について話した。猫の生態は5百年前とほとんど変わらなった。発情期がくると、雌猫が子猫を育てる。乳のみの時期が過ぎると冷淡に突き放して相手にしなくなる。猫の成長は早いので自分で学習していく。人間のように”教える”事はしない。バクテリアの威力で子猫は”猫からカミ”に変身する。
猫達の科学技術には人間はその足元にも及ばない。ここにあるコンピュータは猫のものと比べうと玩具に過ぎない。物質転質装置は、3次元と言う物質の概念を捨てぬ限り得られぬ知識であることなどを話した。
アイはいつも松池の側にいた。松池もアイを手放したくなかった。しかし1度は猫の世界に戻れねばならなかった。猫達との共存に何としても人間に有利な条件を引き出してこなければならない。
ある日、松池はアイにプロポーズした。アイはすねるように松池を拒否した。松池はアイを抱きしめて、強引にキスした。アイは松池から離れると、睨みつけるように松池を見た。
「もっと、優しく抱いてよ」アイは甘えるように言った。滅池は優しく抱いた。
松池はオサムにアイと結婚したいと言った。オサムは松池の申し出を快く受け入れた。リーダー達や、その他の仲間たちも松池とアイを祝福してくれた。
猫の世界に戻る前日、アイと夜を共にした。松池はアイに甘い囁きならぬ、猫について尋ねた。
「アイ、猫、つまりカミをどう思っている?」
「どうって?」アイは大きな眼を不審そうにむけた。
「つまり、カミと共存したほうが良いか。もし万一、カミを絶滅させることが出来れば、その方がよいかだ・・・」
アイは急に険しい目を向けると、むっくりと起き上がり裸身をあらわにした。
「カミを滅ぼす事が出来るのかい!」
「いや、判らぬ。もしかしたらだ」
「もしも何も、カミと共存なんて、出来る事ならしたくないんだよ。皆気持ちは同じだよ」
「カミを信用できないか?」
「奴ら、人間を牛や馬ぐらいにしか思っていないのさ。ヒロシだって、連れ去られた同胞がどうなったのか知っているだろう」アイは顔に似合わず厳しい口調で言った。
翌朝、松池は久し振りに地下から出た。半壊したビルの谷間には老人や子供、女たちがたむろしていた。
佐布里の池までアイやオサム、数人の男達と歩いた。彼らは最初池で松池と会った時の服装であった。アイは顔に墨を塗って、男のように歩いた。
「この池は、5百年前はもっと小さかった。当時、飲み水として利用されていた」松池はオサムに言った。
「今も我々の飲み水だ」鋳鉄管を埋めて地下まで水を引いていると言う。
松池は彼らと別れて、猫の世界に戻った。
松池は自分の部屋に戻されたが、2日たち3日たってもリシもロムも姿を現さなかった。いつ彼らに会えるか、コンピュータに尋ねた。
「それについてはお答えできません」素っ気ない返事に、松池は不安を感じた。
4日目、片方の眼と、尻尾が黒い白猫が入ってきた。
「ヒロシ、役目、ご苦労さん。私はクイ。リシ様の使いだ」
「リシ自身が何故来ない?」
「ヒロシが持ち帰った人間の情報を分析し、今後の方針を検討しているところだ」
「私が持ち帰った情報?」松池はいぶかし気に問う。
「そうだ、君の服の襟に取り付けたマイクロコンピュータが、人間の情報を送っていたのだ」
「しかし地下室では送信不可能なはずだ」
クイはせせら笑って黒い尻尾を回した。
「その通りだ。しかし人間のコンピュータを通じて我々に情報を送ってきてのたのだ」
クイはその仕組みを以下のように言う。
―――マイクロコンピュータは人間の声紋と同じ周波数を超音波に変換して、人間のコンピュータに命令していた。ヒロシを通じて地下室の情報は筒抜けになっていたのだ―――
松池は不安にかられて言った。
「人間に何をするつもりだ。私はリシの依頼で、人間との共存を推し進める為に、同胞に会ってきたのだ」
「その通りだ。ヒロシ、心配するな。リシ様は君との約束は守る。君が不安がるといけないから私が中間報告に来たと言う訳だよ」
あと2,3日中にリシ様から話があるからと言って、クイが消えた。松池は嫌な胸騒ぎを覚えた。
2日たち3日たってもリシからは何の連絡もなかった。松池は漠然と日を過ごしていた。コンピュータに制御された部屋の中は快適だったが、今は、アイのいない生活は虚しかった。たとえ貧しくとも、愛する人と一緒にいたほうが幸福だと思った。
アイに会いたい。無性に恋い焦がれる思いが募っていった。この役目が終わったら、アイとの生活に戻ろう。そんな甘い想像にふけって日を過ごしていた。
5日目、リシからの呼び出しがあった。椅子が床の下に沈み込んだ。瞬間、椅子が床の上に引きあがっていた。松池は15帖程の部屋の真ん中にいた。長机がコの字型に並んでいた。その上に多数の猫達が並んでいた。松池の目の前にはリシがいた。その後ろに2人の護衛が厳めしい顔で睨んでいた。
リシがかっと大きな眼を開けて松池を睨みつけた。
「ヒロシ、ご苦労」リシは気味が悪い程、穏やかな声で言った。
松池はこの場の異常な空気に緊張した。・・・何があるのか・・・裁判の時を思い出す。
「人間は君達との共存には、基本的には賛成だそうだ・・・」松池は一句一句言葉を選んで話した。
だが、その声が終わらぬ内に、
「ヒロシ、君は何か勘違いしているのではないのか!」
日頃松池には優しかったロムが叱りつける様に言った。
「どういう事だ!」松池は不安げに言った。
「君は人間だから、人間たちの肩を持つのは当然だが・・・」言いながらロムは以下のように話した。
―――我々カミと平等の立場で共存できると思ているのかね。良く聴くがよい。我々は地球の支配者だ。人間など、殺そうと思えばいつでも殺せる蟻のような存在だ。―――
ロムは切りつける様に言う。
「ロム、あとは私が説明しよう」リシが口を開いた。
―――確かに人間と共存したいと言った。我々としても人間の手足が必要だ。だが、手足としであって、頭として必要だとは言っていない。しかるに人間どもは、我々に対して好戦的で、懐疑的な動物だ―――
「待ってくれ」松池は興奮していた。リシやロムの主張が以前と違っているのだ。
松池はかっとなって言った。
「それじゃ、人間との共存とは、人間を道具として使う事なのか!」
「当たり前ではないか!」猫の一匹が激しく言った。
松池の興奮は頂点に達していた。
「お前たちは、5百年前、人間の愛玩動物だった。人間がお前たちを造ったのだ。それをUFOで地球にやってきたなどと、よくも嘘が言えたものだ」
松池は言い終わって、猫達の罵声を浴びるものと思っていた。言いたいことは存分に言ってやればよい。殺されても構うものか。そんな無謀な気持ちに囚われていた。
猫達は不気味な沈黙を守っていた。リシは黙したまま目を瞑っていた。松池の気持ちが収まるのを見計らったように言った。
「ヒロシ、君は何も判ってはおらんようだな」
「判ってるさ、同胞の世界で、君らの出生の秘密を知った」
「これだろう」リシの言葉が終わらぬうちに、リシの背後の壁がスクリーンと化した。タローやオサム、アイたちがいるコンピュータ室が映し出された。
「これは!」松池の驚きをよそに、コンピュータの抑揚のない声とスクリーンの文字が表出された。
松池は一瞬息を飲んだ。人間のコンピュータはすでに猫に支配されていたのだ。彼は踏みとどまるように、ぐっと体に力を入れた。一呼吸おくと、
「リシ、君たちは自分の先祖の過去を知っているのだろう。何故、嘘の歴史を教えるのか」
「我々は先祖の事は全て知っている。君に教えた歴史が我々の真実の歴史だ」
「馬鹿な」
「ヒロシ、はっきり言っておこう。歴史とは勝者の記録なのだ。敗者は軽蔑される存在として、歴史に記録されるだけだ。これが歴史の真実なのだ」
松池は言葉を失った。
松池のうなだれた姿を見ながら、リシは言った。
「この数日間、君と会わなかったのは、人間との共存を検討するためだ。その結論を言おう」
リシはぐっと体を持ち上げると、
「コンピュータ、用意はよいか」叱りつけるような声で言った。
「リシ様、全てご指示通りに行っています」コンピュータは媚びるような声で言った。
・・・人間のコンピュータなど問題にならない・・・松池は呟いた。
「ヒロシ、よく見ろ、私の声は地下に潜む人間どもに届いている」
「そんな、地下室の天井には電波を通さないシールドが加工してある筈だ」
ロムや他の猫達が口を開けて笑い出す。松池は数日前にクイが言ったことを思い出して、はっとなった。
ロムは以下のように話した。
―――人間のコンピュータなど玩具に等しい。独特の騒音を発している。これは人間の脳波のようなものだ。
この音は人間や猫の耳にも聞こえないが、規則的な音波だから、それを分析する事で、外部から入力する事が出来る。たとえ電波妨害のシールドが施されているにしても、入力パワーが強ければ、人間のコンピュータなど、思うがままに操れる―――
松池は唖然とする。
「それじゃ、私を仲介にやったと言うのは・・・」
「今まで、地下に潜む人間の行動が判らなかった。ヒロシのお陰で、すべて判明した」
「ロム、無駄口はそのくらいにしろ」リシが叱りつける。ロムは恐縮したように体を小さくする。
スクリーンに地下室の光景が映し出されていた。人間のコンピュータのスクリーンにリシやロム、松池の姿が映し出されていた。そこには驚き騒ぐ人々の姿があった。
―――人間ども、よく聞くがよい。我らと共存する権利を与えよう。そこから出て地上で暮らせ。食料を与えよう。快適な暮らしができるよう、住まいを与えよう。お前たちの子供は我々が預かる。我々の知識を学び、歴史を学ばせる。我々を神と崇めるのだ。我らの手足として生きろ―――
「ヒロシの言う共存とはこの事か」タローが白髪を振り乱して叫ぶ。
「ヒロシを責めるな。彼は我々の忠実な使者を務めてくれた。お前たちの事を考えて行動したのだ」
リシはさらに言葉を続ける。
「よいか、お前らの行動はすべて白日にさらされる。我らに逆らうな。滅びるだけだ」
スクリーンの中には、タロー、オサム、アイ、その他の多くの顔見知りがいた。彼らは事の成り行きに戸惑っていた。蛇に睨まれた蛙だった。5百年間、猫の怖さを味わってきた、その思いが身に染みている。タローは蒼白な顔になっていた。
リシの顔には、自分より弱い生き物をいたぶる猫特有の表情が表れていた。ロムやその他の猫も、3角にそいだ耳をピクピクさせたり、ゆったりと蹲って、人間の戸惑いと、ひきつった恐怖の表情を楽しんでみていた。
「皆、勘弁してくれ。私が悪かった!」松池はいたたまれずに叫んだ。猫達は、ピクッと髭を震わせて彼を見た。
「ヒロシ!」スクリーンの中でアイが叫んだ。
「心配するな。俺たちは負けやしない」オサムが睨み返す様に言った。
「そうだ。カミに告ぐ。我々人間は、絶対に服従しない。断固戦うぞ!」タローが叫んだ。皆、我に還ったように、気勢を上げた。
「人間は愚かな動物だ」ロムが松池に聴こえる様に言った。
「仕方がない。我らの力を見せてやれ」リシが言う。
突然、スクリーンの中で悲鳴が湧き上がった。
「地震だ!」誰かが叫んだ。
「梁が崩れ落ちてくるぞ」悲鳴はパニックを引き起こす。我先に階段を登ろうとする人々の姿をとらえていた。猫達はその光景を楽しんで、ニャーニャー鳴いて喜んでいた。
「コンピュータ室から離れるな。ここはコンクリートの壁で周りを固めている。ここは安全だ」
タローの絶叫に、人々はコンピュータ室に残った。
「ほう、彼は人間としては頭が良い」リシが髭を震わせる。
しかし大多数の人々はなだれを打つ様にして地上にあふれ出していった。不幸中の幸いと言えば地下室の人間はほとんどが青年か壮年だった。けが人は少なかった。
「やめよ」リシの声に、地震がやんだ。
「人間ども、我らの力を思い知ったか。地上へ出ろ。今度命令に逆らうと、地下のホールは崩壊するぞ」
「タロー、アイ、みんな、頼む、言うう通りにしてくれ」
松池はいたたまれず叫んだ。
「判った。出よう。危害は加えるな」タローは諦めたように、皆に地上に出る様に促した。
スクリーンの光景は一変した。地上の明るい雑木林や、半壊したビルの間にたむろする人々の姿を映し出していた。
「我々の科学技術は、21世紀前半の人間の科学技術を踏襲している。」ロムはリシの顔色を窺いながら言った。リシが何も言わない。
―――この光景も、ヒロシの時代に衛星を打ち上げて、そこからレンズを通して地上を映し出す方法に根ざしている。地上に生存するどんな小さな生き物も、見逃すことはない―――
ロムはお喋りの好きな猫だった。
しばらくして、タローやオサム、アイたちが地上に出てきた。
「よく聞くがよい。お前たちはこれから地上で暮らせ。食料の生産方法は我々が教える。人間が我らと共存できる方法はこれしかないのだ。衣類、住まいに至るまで、地上で造れ」
リシの声が聞こえるのか、人々は空を仰いでいた。
「我々の声が聞こえるか」タローが叫んだ。
「我々はカミの手足になるつもりはない。それに子供を取られるくらいなら、戦って死んだほうがましだ」
スクリーンは地上を旋回するように見下して映している。一体何万人いるのか、林の中には無数の人々が見え隠れしていた。
「ヒロシ、よく聞くがよい。この光景は全世界の我ら同胞や人間も見ているのだ」リシが言った。
松池はリシが何を言おうとしているのかよくわからなかった。リシは松池の浮かない顔を見て、以下のように説明した。
―――いつの時代でも、人間は愚かな動物だ。我々が人間を支配する以前、人間は文明の名のもとに自然を破壊し続けて、自然環境を変える事によってのみ生活を向上させることができると信じていた。世界中の森林は破壊され、海は汚され、大気は炭酸ガスの充満によって、生物の生存さえ危ぶまれた。我々が人間を支配した事は地球上の生物にとっては幸運だった。この5百年間、地球上の大気や海は浄化され、大地は多くの生物が共存を楽しんでいる。人間が我々と共存できる条件とは、我々の手足となって、我々の科学知識を学び、自然を破壊させずに、自然の一員として生活する以外にはない。
人間はいつの時代でも自己中心でしか物を考える事が出来ない、利己中心主義者なのだ―――
リシはスクリーンに向かって言った。
「愚かな人間どもよ、まだ悟らぬか」
リシが言い終わらむ内に、息を飲む光景が展開された。子供に付き添っていた老人たちが、次々と、煙のように消滅していった。
「何をする!」タローが叫ぶ。至る所で悲鳴が響き渡った。
「子供の養育に老人は不要だ」リシが冷たく言い放った。
松池は背筋の寒くなる思いでスクリーンに見入った。
猫の前に、人間は無力だった。スクリーンは無情にも人間の哀れな姿をさらけ出していた。老人たちが次々と掻き消えていく。逃げ惑う人の姿は悲惨だった。
「リシ、もうやめろ!」松池は椅子から立ち上がって叫んだ。
リシは凄まじい顔つきで松池を睨みつけた。真っ赤な口を、かっと開けた。牙をむきだした。
「ギャーッ」化け猫のような鳴き方だった。ロムや他の猫達も同じだった。松池を睨みつけて、今にも襲い掛かるように牙をむいたのだ。
ほとんどの老人が消滅した。松池は力なく椅子に腰を降ろすと、顔を覆った。
「ヒロシ、よく見るんだ」リシの厳命に、松池は恐る恐るスクリーンを見た。
「人間狩りに移れ」声と共に、数百人に及ぶ成年男子が、引き上げられるようにして、空中に浮上した。驚き、嘆く地上のおろおろする人々の表情を尻目に、空中に浮きあがった男達は次々と消えていった。
「心配するな。彼らは我々の手足となるために、かり集められるだけだ」ロムは言った。
「人間どもよ、我々に服従せよ。我々はお前たちの”神”なのだ」
天を仰ぎ、泣き叫び、悲嘆する声が満ちていた。アイはオサムに抱かれて泣いていた。
「アイ!」松池は力一杯叫んだ。猫共を滅ぼしてやる。沸き起こる憎しみを胸に秘めて、松池は椅子から立ち上がった。
「もうやめろ、猫めらが!これ以上続けてみろ。塔の秘密は永遠に謎のままだぞ。お前らの同胞は、頭打ちか、減少傾向にある筈だ」
リシやロムたちは三角形の耳をピクリと動かして松池を見る。彼の凄まじい形相に驚いたのだろう。スクリーンからは人間狩りがやんだ。
「ヒロシ、君に塔の秘密が解けるのか」リシが問うた。
「今すぐに解く自信はないが、その鍵はある」
「それは何だ」
「私だ。判る筈だ。5百年の間に、塔の中の効果が薄れてきている筈だ」松池はかまをかけて言った。
「その通りだ。我々同胞の数が年間五パーセントほど減少している」リシの正直な答えだった。
「ヒロシ、塔の秘密を解いてくれないか。そうすれば、我々も人間に対して手加減しよう」
「その代り、私の行動を制限するな」松池はきっぱりと言った。
塔の秘密
松池は塔の中の自分の家の書斎で寛いでいた。これからどうしたらよいのか、見当がつかなかった。コーヒーを飲みながら、ソファーに横になっていた。松池はリシに申し入れて、塔の中に自由に出入りできるようになっていた。
・・・ここは私と妻の城だった。それに白猫のタマがいた。仕事を終えて、ここに帰ってくると、全身の緊張感が抜けて、安らかな気分に浸ったものだ・・・
今・・・。松池はそんな気分には浸れなかった。リシとの約束、塔の秘密を探らねばならなかった。せめてアイだけでもここに居てくれたらと思ったが、万が一にもアイに危険がせまったらと思うと、気持ちが萎えるのだった。
リシは言った。
―――急ぐことはない。我々も5百年以上も、この塔の秘密を探ってきた。だからすぐにも秘密が解けるとは期待していない。時間がかかってもよい。秘密を解いてほしい―――
松池はリシの言葉を反芻していた。1か月がたち、2か月がたってもリシは何も言わなかった。
その間、人間の世界では、猫達の命令で地上生活を余儀なくされていた。仮設小屋が次々に建てられて行った。干潮の差を利用した発電機は、故障が多い事から見捨てられた。地下1階のホールに猫が与えた蓄電装置で電力が供給されたいた。これは太陽エネルギーを変換した電気エネルギーで、宇宙衛星から送られていた。
限られていた電力で生き抜いてきた人々は、無制限に利用できる喜びを隠さなかった。このニュースは全世界に知れ渡った。猫との戦いに疲れ、資源も底をついていた人間は、猫の呼び掛けに、地上で暮らすようになった。
猫達は人間の心理を巧みに利用していった。無制限に電力を与え、その地域に適した食料の生産方法を教えていく。生活にゆとりを与えて、猫への敵愾心をそいでいく。
「ヒロシ、これも君のお陰だ」リシは言った。人間のコンピュータを制御し、支配できた喜びがリシの表情に表れてていた。
松池の書斎にテレビが置かれた。壁一面に黒いパネルと張り付けた物だったが、そこに映し出される映像は実物を見ているような迫力があった。命令するだけで、好きな画面が選択できた。世界中の情報が手に取るように見えた。
アイに会いたい時は、意思表示さへすればよかった。テレビモニターを通じて、アイと話が出来た。
2か月が過ぎ、3か月が過ぎた。その間松池はアイやタロー、マサルと達と会話を通じて喜びを共にしていた。平穏な日々が過ぎていく。人間が敵対行為を行わない限り、猫達は危害を加えなかった。
松池はテレビモニターを通じて人間と猫との関りを注意深く見守っていた。
・・・この状態がずっと続いてくれればよいが・・・
塔の秘密を解いて猫達に喜んでもらうもらうしかないか・・・心の片隅では塔の中のバクテリアが無効化になることを考えていた。猫達の怒りを想像して身震いした。
・・・とにかく、秘密を解くしかないか・・・松池は自分のメモ帳と、失われた3冊の本の内容を思い出して、作業を進めていった。
・・・竹内文書・・・
超古代の日本は世界の中心であり、歴代の天皇が、天の浮舟という飛行船に乗って世界を巡行したと言われる。釈迦やモーゼ、キリストが日本にやってきたとか、陰陽の祖、伏義も日本にやってきて易を学んで、中国で広めたとか、常識では考えられない事が書かれていた。その奇抜な内容のため、偽書扱いされている。
松池が興味を持ったのは、歴代の天皇の寿命が、2百歳とか3百歳とかいうのがざらであった事。太古の神々は想像以上の長寿であった。そのほとんどが不老の時代とされていた事だった。
弘法大師空海が竹内文書をみて、入唐を思いッたと記していることに注目した。
―――彼は長らく竹内家の寄寓してあらゆる神代文字、特に神代史を研究し、その結果神仏一体の教えを建てた―――という文章に眼を止めた。
この他、上記には、火の神を産んで死んだとされるイザナミの神が、蘇りの秘法によって蘇生されている事だった。
松池は想像をたくましくした。空海は不老不死の秘法を、竹内古文書から学んだに違いない。
高野山や四国八十八か所の地下には、辰砂、水銀鉱脈がある。水銀は、金を含む鉱石を砕き水銀を混ぜると、金だけが抽出され、合金アマルガムとなる。これを加熱すると水銀は蒸発し、金が残る。また水銀鉱脈の下には金や銀の鉱床が存在すると言われる。
辰砂、水銀は、錬金術にとって必要な材料であった、
古代の錬金術は、後世誤解されて伝えられたような、金を造る事とは無縁であった。錬金術の真の目的は人間を超人=神に化身するための重要な作業だった。
だが、辰砂だけでは不十分だった。塩と硫黄が必要だった。それをどのように利用するか。
奇門遁甲家相術によれば、人が長生きできる土地や、短命に終わる土地があると指摘している。頭の良い子が生まれる土地、低能な子供が生まれる土地。金持ちになる土地、貧乏になる土地と、地形によって、人に様々な影響を与えるとある。これを風水という。風水には穴がある。人体で言えば鍼灸のツボに当たる。つまり、家を建てる前に、家相をうんぬんする前に、良い地相の土地を捜せと勧めていた。その良い地相が、水銀、塩、硫黄の配置方法を示唆していた。しかし示唆しているだけで、それ以上の具体的な利用方法は記されていなかった。
・・・エメラルドタブレット・・・
この本の中にその解決方法があった。
エメラルドタブレット―――著者はアトランティス人、トートヘルメス、後のエジプトの神官、トートヘルメスである。今から3万8千年前に、エメラルドのタブレットに、アトランティス語で書いたとする。この不可思議な書物には、近代の聖人、哲学者でさえも及びもつかない深遠な心理が書かれていた。
一般常識では推し量れない内容である。計れないと言うより受け入れられないと言った方がよい。
著者、トートがこれを書いたときはすでに5万歳であり、アトランティス大陸が滅亡した後、エジプトに渡る。
ビゼーのピラミッドを建設したのは、ケオプスと言われているが、この本では、トートが1日で造ったと伝えている。彼は50年ごとに、アメンティと言われる地下の広場に下って、生命の花の下で、若返ると言われている。彼は現在も生きており、人類も未来の為に活躍していると伝えられている。
この本の中で、解説者聖ドーリルが言う様に、1,2回読み返したところで理解できる代物ではない。多分、毎日、一生かけて読みつくし、人間が生まれ変わりが出来るとして、何世代もかけて読み返して、初めて理解できるとされている。文章が難解というのではない。小学生でも理解できるほどやさしいのだ。
問題は内容にある。
人間が自由に、1つの空間から他の空間へ瞬時にして移動する方法、歳を取らずに長く生きる方法、凡人が天才になる方法などが書かれているが、その理解が、物質の世界を超えた観点に立って書かれている。
例えば、物は物としてこの世に存在するが、物は物としての意志があり、心がある。その意志の表示として物が成り立っている。しかし同時に、人間を含め、物はただの幻影でしかない。このような事実に深い理解を抱かない限り、この本は何度読んでも理解できないと言う意味である。
松池はこの本の中で
―――われ、蛇状のドラムを使い、紫と金色の衣を着、銀の冠を頭に置き、我が周りを辰砂の円もて輝かしむ―――という一文に眼を止めた。本の中では、太陽の光という言葉が随所に出てくる。太陽エネルギーこそ、我々の永遠の活力だというのである。
人間は宇宙の表現であると言う。人体こそは宇宙そのものだと言う発想がこの本に見られる。
―――へその少し上にある太陽神経叢こそが、太陽エネルギーの表現であって、これを太陽エネルギーによって賦活すれば、老いずに永遠に生きられる―――
松池はメモ帳の中で、塩、硫黄、水銀をある一定の角度で配置して、その中に身を置くことで、肉体は良い意味での変化が生じると仮説したのだ。
マサルはこの事を理解したに違いない。人間に影響があれば、人間以外の生物にも変化が生じると考えたのだろう。
松池はテレビモニターに向かって、ロムをよんだ。すぐにもロムが現れた。ロムは人なつこそうな顔で、ニャーと鳴いた。どことなく軽い感じのする猫であった。親しみやすかった。
「ロム、聞きたいことがある。マサルは、この家か、工場に、何かを仕掛けたと思われるが、君の意見を聞きたい」
「我々も、当然それを考えてきた。だから、樹木や草の一本一本を、注意深く省いてきた」ロムは言いながら以下のように説明した。
―――地下に何か埋められていないか、センサーによって調べ尽くしている。1つ判明した事は、工場の床下に、大量の水晶の原石が埋められている。工場内の気を浄化するための様だ。それ以外何もわからない。この5百年、必死な努力で、塔の解明に取り組んできた。試しにこの塔と同じような条件の場所を作って、バクテリアの培養をやってみたが、無駄に終わった―――
「ロム、工場の中を、見せてくれないか」松池は心情を吐露してロムの同情を誘った。
―――工場は松池が27歳まで土管を造っていた。1部は取り壊したが、小さい頃は遊び場であったし、仕事も10年以上やってきた。血の出る思いで働いてきた。工場の内部は汗が浸み込んでいる。隅から隅まで覚えている。今と違っている所があれば判ると思う・・・―――
「土管?」ロムは返答の代わりに、疑問を呈した。松池は土管とは何であるか説明した後、しつこく頼み込んだ。
ロムはしばらくは眼を細めていたが、
「あの中には、リシ様以外には誰も入れない。しかし君が我々に協力するのであれば、リシ様に相談してみるが・・・」
「協力するもしないのも、私の肩には同胞の運命がかかっている。君達の手足でもよい。同胞が君達と共存して、生きてほしい。君達が繁栄し、同胞がそのおすそ分けを頂戴したいのだ」
松池はここぞとばかりにロムの自尊心をくすぐった。
ロムは鷹揚に頷いた。 しばらくして、リシがロムを伴って書斎にやってきた。
「工場の中を見せても良い。それで何か判るならば・・・」開口一番リシが言った。
「今は何とも言えない。ただあの工場は私の汗と、苦い思い出が染みついている。変わった所があれば、ピンとくるかもしれない」
「ピン?」
「つまり、勘が働くと言うやつだ」
リシは大きな眼で松池を見た。工場の中を見せようかどうかためらっているようだ。
「ここは、私の書斎だった」机の上に乗ったリシを見ながら、松池は言った。
―――この中の本はほとんど失われていない。1冊1冊、苦労して集め、眼を通した物ばかりだ。だからこそ、失われた3冊の本の事がすぐに判った。その場の雰囲気というか、その違いが、判るんだ―――
リシは頷いた。
「君を信じよう。ついてくるがよい」
松池はリシとロムの後に従って家を出た。塔の内部は、一定の温度と湿度が維持されていた。照明器具はないのに、一定の明るさに保たれていた。
工場の入り口のドアはベニヤの板戸だった。松池は入り口の所に来て、リシに尋ねた。
「家と言い工場といい、造った当時のそのままだが、よく5百年以上も保っていると感心している。塔で覆ったり、中の空気が浄化されているだけではあるまい」
松池の前を歩いていたリシは、振り返ると、松池を見上げていった。
「その通りだ。5百年以上も現状を保つには、それだけでは無理だ。建物すべてに凝固剤を染み込ませてある。千年以上は保護できる」
松池は感心して、木のドアを開けようとした。
「触るな!」リシが叫んだ。
「ロムはここで待て」リシは命ずると、
「コンピュータ、開けよ」木のドアは自動的に外側へ開いた。
「ヒロシ、靴を脱げ」リシの指示に従った。
工場に中は床がベニヤで敷いてあった。中に入ると、1坪ほどの部屋になっていた。周囲がベニヤで仕切られて、木のドアがあった。
リシが命じるとドアが開いた。中に入る。
2百坪の工場内は床から天井、壁に至るまでベニヤで覆われていた。窓はふさがれていた。1メートルの間隔を置いて床から天井まで木製の棚が並んでいた。棚の中にはガラスビーカーが並んでいた。天井からはロボットアームが各棚ごとに取り付けられていた。アームは2本になっていた。1本は人間の手のような動きを、もう1本は掃除機のホースの様になっていた。
「ヒロシ、これが我々の生命の源だ。ビーカーの中にはマサルが開発したバクテリアが培養されている。マサルが研究した当社から、ここは変わっていない。変える事が出来ないのだ」
松池は働いていた時の工場の内部と違っていることに驚いた。松池の頃は、南北に長い工場の、北西の側にある、入り口のドアをはぶいては、床はコンクリートの打ちっぱなしで利用していた。西側に土練機や土管機を配置していた。工場が広いのは、土管機で製造した土管を乾燥させるためだった。天井の梁はむき出しのままだった。窓は小さく、日中でも薄暗く、乾燥を促すために、窯場が工場の東側の下に建っていた。窯場の暖かい空気が工場内にこもるようになったいた。冬場は暖かく仕事がしやすかったが、夏は暑くて、サウナ風呂で仕事をしているようなものだった。松池はこの仕事が嫌で、理由をつけて休む日が多かった。
ベニヤで覆われた工場内は、思い出の片鱗さえなかった。
「ヒロシ、何か判ったかね」リシが言った。
「床下に水晶の原石が埋められているとロムから聞いたが・・・」
「その通りだ。床下を見るかね」
工場の真ん中あたりの床が60センチ四方切り取られて、はがせるようになっていた。松池は床板をはがした。床下はかがんであるけるほどの高さがあった。中は暗かった。
「光を」リシが言った。床下が明るくなった。
「君たちの科学技術はすごいもんだね」松池は感嘆して言った。
「人間の科学程度が低いだけだ。この塔もコンピュータの管理下に置かれている」リシはにこりともせずに言う。
「リシ、これは私の推測だが、地球は3つのエネルギーに支配されている。太陽エネルギー、磁気エネルギー、マグマのエネルギー。水晶はこれらのどれにも属さない」
松池は以下のような持論を展開する。
―――宇宙はビッグバンで始まったと言われている。小さな一点から巨大な宇宙が出来上がったとするならば、そこにはすでに、宇宙を形成するエネルギーが存在していたと考える。松池はそれをインド哲学のプラーナ、我々の言葉で”気”と考えた。
3つのエネルギーはもともと気が3つに分裂したものだ。気のエネルギーは変質しやすい。水晶はその場の気を浄化する力を持っている。―――
「私は水晶の下に。水銀が埋められているとみている。水銀=マグマのエネルギーはそのままでは不浄だからだ」
リシはしばらく眼を瞑って3角の耳を松池に向けていた。
「ヒロシの言うう事は判ったが、我々もそれを予想して調べたが、水晶以外何もなかった」
松池はここぞとばかりに声に力を入れた。
―――私はこの時代にタイムスりップするまえ、古代の叡智に興味を持っていた。エメラルドタブレットにもあったが、この世の世界の物質、非物質と言えど、全ての根源は振動によって成り立っている。つまり気の振動によって、物の形となる。ある物は水素となり、ある物は鉄になったりする。
人間の科学はそこまで到達していなかった。君達の科学はそれを熟知していて、思う存分に応用している。ここの光だとて、この中の物質、例えば空気に一定の振動数を与える事で物質変換している―――
リシは松池の顔を眺める様に見ていた。髭をピクピク動かして歯を見せて言った。
「君は5百年前の人間にしては賢い。その通りだよ。それでも我々はこのバクテリアの秘密を解くことは出来ないのだ」リシはなおも以下のように付け加える。
―――我々が知りえたのは、ヒロシがここで働いていたころの、この床のコンクリートとマサルが実験室として改造したころのコンクリートの質が異なっている事だけだった。センサーによって水晶が確認されたが、それだけだった―――
「リシ、水銀の振動数は判るか」
「簡単な事だ」言いながらリシはコンピュータに命ずる。
「水晶の下の砂か粘土の中に水銀が混合されていないか、調べてくれ」
「1分お待ちください」床上の方から、聞きなれたコンピュータの声がした。
しばらくして
「お知らせします。リシ様のいる所から、半径百メートル四方に、つまり建物全域に粘土に混合された水銀が検出されました。推定重量1トンです」
「今まで、こんな簡単な事に、何故気付かなかったのか」リシが言った。
松池達は床下から這い出た。松池はその場に腰を降ろした。リシは松池の正面に蹲って座った。
「1つ言える事は、君達の五感が、人間と比べると、大変敏感だからと思う。君達の、聴覚や視覚、嗅覚は人間など及びもつかない程鋭い。コンピュータのセンサーは君たちの5感を基準にして作られていると思うが、どうか」
「その通りだ」
「水銀は粘土と混合して埋められた。あの水銀独特の匂いが消されてしまった。センサーにも反応しなかった。だから見過ごされてしまった」
「なるほど」リシは松池を見上げていった。
「君は他の人間より賢い。それに役に立つ」リシは真ん丸な眼を松池に向ける。そして以下のように言う。
―――我々の数は現在1億5千万で頭打ちだ。いやむしろ下降傾向にある。人間は我々の10倍以上だ。人間が我々を恐怖の的と考えている以上に、我々も人間を恐れているのだ。今後、人間と共存していくとなると、数において劣る我々は消えていかねばならない。
君は判ると思うが、どんなに強くても多くの子孫を残せぬ生物は、どんなに弱くても数において勝る生物に、征服されていく事になる。
我々は手足としての人間を必要としている。たとえ何千年たとうと、人間の知能が我々に追いつくことは不可能だ。人間が進歩する以上に、我々も進化しているからだ。我々は人間の良き支配者、神として人間と共存していきたいのだ。その為にも、我々は数を増やさねばならぬのだ。これは我々の死活問題だ―――
松池はリシの率直な言葉に感心した。今や猫は人間の神なのだ。この認識を改めない限り、人間は常に苦境に立たされるのだ。
松池は改めて周囲を見回した。数段ある棚の中に、ビーカーが並んでいる。人の腕のようなアームが忙しなく、ビーカーの間を行ったり来たりしていた。ビーカーの中には黄色い液が入ったいた。
「この5百年、ここに入った者は君だけだ。ロムさへ入ることは許されないのだ」
リシが言った。松池は黙ったまま、リシを見ていた。黒い毛がつやつやとした大きな黒猫だ。
「残る2つのエネルギーの秘密を解けるか」リシの問いに、松池は言った。
「まだわからない。1つ言える事は、2つのエネルギーについては、この塔の中には配置されていないと思う。配置されていたら、マサルが排除したはずだ。多分マサルでも排除できない方法で配置したと考えるのが妥当ではないか」
リシは感じ入ったように、松池を見ていた。私達は工場を出た。
2つのエネルギーの秘密
松池は久振りにアイと再会した。あてがわれた仮小屋の1つに住んだ。アイは松池の子を宿していた。妊娠して3か月という。
2,3日後タローやオサム達がやってきた。地下生活から解放されたせいか、顔つきが穏やかになっていた。ただ、これからどうなるのかという不安は隠していなかった。
ここに住む4万余の人々は老人を消された憎しみを忘れてはいなかった。それでも生き延びる為に必死で働いていた。仮小屋を建てたり、樹を伐採したり、猫から教えられた畑の耕作をしたりしていた。猫の怖さが身に滲みていたので、猫を憎んでもそれを顔に出すまいとしていた。
松池はオサムに詫びた。
「皆を苦しめて、心苦しく思っている」
「1時期はヒロシを憎んだ。今では、これでよかったかもしれんと思っている」
オサムは呟くように言いながら、松池を直視する。
―――年寄りが殺されたのはヒロシのせいではない。我々がカミに反抗したからだ。カミに逆らわない限り、殺されることはない。それだけははっきりした―――
「それに、ヒロシ」タローが横から口を入れた。しばらく見ないうちに随分と老けたと思った。
―――今までは地下生活を余儀なくされて、毎日毎日が緊張に連続だった。食料や生活資材の調達に心を砕かねばならなかった。よくぞ、5百年も続けてこれたと思う。今は、食料から生活資材すべてをカミが与えてくれる。田や畑の耕作の仕方まで教えてくれる。それにここは海が近いから、魚にも不自由しない。カミへの憎しみはあるが、1日も早く忘れたほうが良いと思う様になっている。ただ、これからどうなっていくのかが心配だが・・・―――
松池はリシの気持ちを話した。
「カミは、我々を手足として使いたいのだ。だが、カミの種族は減りつつある。それが彼らの悩みの種だ」
オサムは松池の顔を見ながら言う。
―――カミがその昔、人間の愛玩動物であったとしても、今は人間の支配者だ。これからは5百年前の記憶は薄れていくだろう。地下生活から解放されて、カミの支配の中で生きていくのも良いと考える様になってきている―――タローもキタも頷く。長い緊張生活から解放された喜びと安どの表情があった。
「カミと共存していくかどうかは君達次第だ。さっき言ったようにカミは種族が減りつつあるのを苦慮している」松池の言葉に
「その鍵を君が握っている」タローが言う。
「ところで、ヒロシ、塔の秘密は判ったの?」アイが言った。
松池は塔の中の工場の様子について話した。
オサムが尋ねる。
「水晶や水銀を埋めて、どういう効果があるんだ」
水晶はその場の雰囲気を浄化すると答えたが、皆はこの意味が理解できずに、不思議そうな顔をした。
「つまり、我々でも、お互いに気の合う者と,合わない者がいる。その雰囲気だと思えばよい訳か」タローが言った。松池はそれ以上のたとえ話をしたかったが、説明しにくかったので、
「まあ、そんなところだ」あいまいに答えた。
「ヒロシ、その3つのエネルギーだが、具体的にはどんな効果や影響があるんだ」キタの問いかけに、
「はっきりとした事は判らないが、仮説として聞いてもらいたい」松池は皆の顔を見回した。
―――水銀、これはマグマのエネルギーだ。これはその場に誕生した人間、いや人間に限らないから生命体と言い直そう。その場に生まれた生命体の成長に大きな影響を与える。
奇門遁甲家相術によると、山の尾根を竜骨と呼び、竜骨が平地に下ってきて、くぼ地が出来る。これを竜穴と言うが、ここで生まれた者は長寿であり、頭も良いと言われる。反対に尾根と尾根との間の谷を下った平地に生まれた者は短命で知能指数の低いと言われる。
もっともその他にも色々と条件があるが、要はマグマのエネルギーが山頂まで上がってきて、尾根を伝って下ると推測される。逆に谷にはマグマのエネルギーがほとんど存在しないとみる。
マグマのエネルギーはその場に生まれた生命体の成長の過程に大きな影響を与えている。
次に、太陽のエネルギーは、生命体の情緒に影響を与える。
情緒というと、知的生命体だけのものの様に考えられるが、情緒ー感情は植物も持っている。太陽エネルギーは多くても少なくても情緒が不安定になる。適当な量の場合、その場に住む生命体は性格が穏やかになる。その上成長も早い。
話はそれるが、5百年前には自動車があった。便利な乗り物なのだが、人をひき殺したり、ぶつかり合って、人が死んだりした。統計によると、満月や新月の夜にはその傾向が著しかった。
つまり、太陽エネルギーは適度であれば心を平和的にするが、満月のように多かったり、熱帯地方のように極端に強すぎると、人は興奮し好戦的になる。新月のように少なすぎると、不安が昂じて情緒が不安定になる。
太陽エネルギーは日光だけではない。太陽の黒点による磁気嵐や太陽風も同様と考える。
太陽エネルギーを適度に調節するのが硫黄なのだ。これをどのように配置したのか判らないのだ。―――
「マサルが、何らかの方法で、どこかに配置したんだね」アイがみんなを見回す様に言った。
松池は頷いた。
―――次に磁気のエネルギー。これは塩だ。このエネルギーの特徴は、その場に住む生命体の生命力を強化して、長く保つ働きをする。その上知性を向上させる。
古代の伝説を読むと、例外なく、人は驚くような寿命を保っていた。昔は地球の磁場が強く、現在は弱くなっていると言われている。地球の磁場は数千年単位で強くなったり弱くなったりすると考えられる。―――
「で、その塩の配置も不明?」タローが口をはさむ。
「そうだ、マサルだけが知っている」
「ヒロシ、もしもだ、このまま硫黄と塩の配置場所が判らないと、カミはどうなる」キタが尋ねる。
「多分、千年後には半減すると思われる。あるいは、急減するかもしれない」
「カミはいつか滅びると?」
「だから、彼らは必死なのだ」
「もう1つ、マサルのつづり和紙にあった、牛が虎に会うと、塩は溶けて消える。つまり、磁気エネルギーが無効化になると考えられるが・・・」
「この言葉に意味が不明だが、もし解明出来たら・・・」
松池は独り言のように呟く。タローたちは家を出ていく。松池はアイと2人だけの生活に入る。
翌日、松池はアイと外に出る。仮小屋が建設中だ。人々は松池を見てうん臭そうな顔をする。自分たちの父や母を殺されている。本当なら危害を加えられるところだ。猫から食料を与えられ、衣食住を提供されている。戦争が終わった後の安堵感がある。石を投げつけられる事もない。
松池はアイと、佐布里池に行った。
5百年前前とは大きさが違っている。池ではなく湖だ。深い静けさを漂わせていた。松池の時代には池は公園の一部となって、人々の憩いの場となっていた。
今見る佐布里池は、山奥の原始林の中の湖だ。厳粛な雰囲気があった。
「こんなにのんびりとしたことはなかった」アイは松池に寄り添いながら言った。
「アイ、これから2人の世界を作っていこう」松池はアイの面長の彫の深い、白い顔を覗き込む。アイは松池の首に手を回してきた。2人は1つになって、その場に崩れた。
夜、松池たちは地下ホールに入って行った。地上の生活に慣れない人々が多くいた。彼らは眠れない夜を地下ホールで過ごしていた。
それでも日に日に人々の表情からは緊張感が薄れていった。松池がここへ来た頃は、食事は、空腹の胃袋に食べ物を押し込むだけだった。味もそっけもなかった。
今は、猫から与えられた豊富な食料と、各種の調味料が加えられた。料理の方法もコンピュータが教えてくれる。料理は日増しにおいしくなっていく。食事の時間も長くなる。食事を楽しむ姿も目立つようになった。
衣服も与えられた。女は女らしい服装をするようになった。その服装は今は夜だけに限られていた。そのうち、2,3年もすると、日中の仕事が男だけになり、、女は昼も着飾る事になると思われる。
梁の壊れた地下ホールは修復された。蛍光灯の数も増えた。昼間のように明るくなった。
松池はアイや、タロー、マサル達と、ゆったりと食事をしながら、雑談にふっけった。
その後、松池はアイと図書室に行った。松池はあるだけの知多半島の地図を取り出した。
「どうする気?」アイは地図を広げながら言った。
「少し気になることがあってね」
松池は地図を見て失望した。すべて5百年前のものだ。ほとんどが虫食い状態だった。気を取り直して1枚の地図に見入った。常滑市の地図だった。
松池はタイムスリップする前は、家と仕事場である会社を往復していた。会社は店舗付きの3階建ての鉄骨の建物だった。会社は家から、約2キロ北にあった。半田と常滑を結ぶ、知多半島横断道路に入り口近くにあった。
松池は自分の家から会社までの方位を確かめた。ほぼ真北に位置していた。
「アイ、塔の秘密の2つ目が判った。詳しくは明日話す。これからコンピュータ室に行きたい」
アイを伴ってコンピュータ室に入る。テレビモニターに向かって言った。
「ロム、いるか」
すぐにもスクリーンに三毛猫のロムが現れた。
「ヒロシ、何か用か」ロムは親しげに言った。
松池は地図を見せながら、この辺りに自分の会社があった。自分がタイムスリップした後、どうなったか知りたいと尋ねた。
「お安い御用だ。コンピュータに答えさせよう」
ロムの姿が消えた。代わりに、松池の会社の全景が映し出された。
鉄骨の3階建ての切妻の建物は、1階が松池の会社、2階3階を借家として貸していた。外壁をオレンジ色にして遠目からもよく見える様にした。
「これ何?」アイのびっくりした声に、松池は現実に引き戻された。
松池はタイムスリップする前の仕事や生活ぶりを説明したが、アイは何度聞いても判らないと首を横に振った。松池はこれ以上説明しても仕方がないと思った。
「コンピュータ、私がタイムススリップした後、この建物はどうなったか」
猫のコンピュータは声が優しい。以下のように答える。
―――この建物は、あなたがタイムスリップした後、あなたの弟によって、運営され、会社として継続して使用されました。それから20年後、マサルが後を継いだ時、建物は一旦取り壊されました。それから1年後、2階建ての木道住宅が建てられました。―――
スクリーンには 2階建ての建物が映し出された。
―――その後、この建物は周辺の建物と共にすべて破壊されました―――
スクリーン内のうっそうたる森林の光景を見て、松池はしばらく黙想した。
「ロム、この地に、硫黄が埋められていないか、確かめてくれないか」
すぐにもスクリーンにロムが現れる。松池をみて言った。
「こんな所に硫黄が埋まっているとでも?」
「いや、推測だ。マサルが硫黄を埋めるとしたら、ここしかないと思ったのだ」
松池は5百年前の社会情勢を説明した。土地に何かを建てたり、何かを埋めたりするにしても、法的な規制があって、何処でもいいと言う訳にはいかない。まして所有権と言う物があって、自分の土地と他人の土地とはっきりとした区分がある。
アイと同様、ロムもよく判らないと言う。
「ヒロシの言うう事には、時々判らないことがある」言いながら、コンピュータに命令した。
スクリーンに、赤外線センサーで映し出された森林が現れた。鳥ならこのように見下して見えるのだろうなと思ってみていた。
結果はすぐにも判明した。ロムが興奮した口調でスクリーンに現れた。
「ヒロシ、あったぞ。君という人間は、とんでもない奴だ。何故判ったんだ」
松池はその理由を話してしまうと、塩の秘密が判ってしまうと思った。
「勘さ」
「カン?」
「直観力というやつさ」
「塩の秘密は判るか」
「考え中だ」
「ヒロシ頼むよ。リシ様も喜ばれるに違いない」
スクリーンからロムの姿が消えた。
「アイ、行こうか」松池はアイの手を取って、地上の自分たちの家に急いだ。
「ヒロシ、太陽エネルギーの秘密がどうして判ったの?」
松池は歩きながら、アイに口付けし、耳元に声を潜めて言った。
「ここは、猫のコンピュータが監視している」
アイは眼が覚めたように松池を見た。2人は再び抱き合う様にして仮小屋に入った。
翌朝、朝食を終えると、家の中に、タローやオサム、キタ達を呼び入れた。
「昨日、太陽エネルギーの秘密が判った」
タローが驚きの声を上げる。松池はタローの驚きを無視して言った。
「塩、つまり磁気のエネルギーの秘密も判った。カミには内緒にした。考えがあって、太陽エネルギーだけ教えた」
松池は言葉を続けながら、ロムに話したと同じ話、5百年前の社会情勢や、土地は自分勝手に利用できない事を話したが、理解してもらえなかった。
それにも関わらず、松池は説明を続けた。
―――太陽エネルギーは位置的に南に当たる。太陽は東から登り、西に沈む。
松池は当初、塔を中心として、南の方に硫黄が埋めてあると解釈していた。説明したように、松池の時代、土地は個人、あるいは会社、国が所有していた。マサルが何処にでも、勝手に硫黄を埋める事は出来ない。マサルが土地を買えば話は別だが、その事実もなかった。
マサルが自由にできる土地は、松池の会社の土地しかない。しかしこの土地は塔の方角から北に当たる。松池は考えあぐねた。
行き詰まったら、原点に戻れ、松池は奇門遁甲を調べ直した。
マサルが北に硫黄を埋めたと判った。その理由も・・・。難しく考えすぎていたのだ。
理由は簡単だった。―――
松池は常滑市の地図のコピーを広げる。タローやアイたちの眼はは地図に釘付けとなる。
―――奇門遁甲の配置は8か所。
北に坎、南に離、東に震、西に兌、それに南東に巽、南西に坤、北西に乾、そして、マサルのつづり和紙にあった虎と牛に当たるの北東に艮が入る。
南に離という文字があるのを見て、どういう理由で、離となずけられたのか考えてみた。
南は火を現す。火は燃え上り、燃え移る浮動性を持つ。つまり火として表現された太陽エネルギーは、いずれ燃え上がり、物質としての効果を散らしてしまう。だからこそ、離=発散として表現されたとみたのだ。離としての太陽エネルギーは、いずれかは効力を失ったしまうとみた―――
タローやアイたちは呆然とした顔付で聞いている。内容が全く理解できない、そんな表情がありありと浮かんでいる。
松池は一方的に言葉を続ける。
―――北は坎、穴、人と人との交わり、または夫婦や男女の交わりという意味がある。北に硫黄を埋める事で、穴をふさぎ、太陽エネルギー、つまり陽が北の陰と交わることで、常に一定のエネルギーを保つと判断したのだ―――
「その通りだったわけね」アイは得意そうに皆を見渡す。
「古代の叡智は偉大だよ。何百年、何千年という体験を積み重ねている」松池は言った。
―――目に見えないエネルギーが、場所場所によって変化し、行く方角によっても、エネルギーの質が変わってしまう事を知っていたんだ。それを、離や坎、兌震という文字で表現しようとしたんだ―――
「それで、塩、磁気エネルギーは?」マサルがせき込んできいた。
「ここまで判れば、あとは簡単だ。海だよ」
「海?」
「海そのものが磁気エネルギーだ。つまりだ・・・」
松池は皆を見回して以下の様に述べる。
―――私は、当初塩が太陽エネルギーではないかと考えていた。地球の地軸は約22度傾いている。それによって、四季が生じている。季節を生じさせるのは太陽エネルギーだと考えたのだ。
塔の西から南西にかけて海が広がっている。マサルはこの海そのものを塩のエネルギーとしたに違いない。そう考えて、私も考えを改めたのだ。
奇門遁甲によると、海のある方向は南西、ここは坤に当たる。
坤の象意は致役、つまり身を労して働くことを言う。また他には母という。万物を産み育てるという意味もある。その他に蓄積、培養などの象意もある。
前にも説明した事があるが、塩、磁気エネルギーは、そこに住む生命体の生命力を長く保持し、知性をより向上させる。まさに坤の象意そのままだ―――
タローは関心したように松池を見ていた。
「ここまでわかると、塩は牛と虎に会うと解けると言う、マサルのつづり和紙の言葉が自然に解明出来る」
松池の言葉に、オサムやキタ達が色めき立った。
「塔の中のバクテリアが無効化になる!」
「その通りだ。カミはただの猫になる」松池の諭すような声。
「しかし、そんなことがカミに知れたら、我々は消されてしまうぞ」タローが戸惑い顔で言った。
皆、顔を合わせて黙った。
「いや、判らないと思う」松池はあたりを憚るように声を落とす。
「牛と虎、つまり艮の方角に海水を引き込めばよい。カミに判らぬようにね」
「そんなことができるのか」
「その前に、牛と虎に会うと塩は解けるという意味を説明させてほしい」
松池は一息入れて、話を続ける。
―――牛と虎、つまり北東の方角を艮と言う。艮は陰から陽への変化を表す。同時に止まると言う象意がある。一般にいう物事の停止ではない。変化して止まると言う意味だ。
その他に陰と陽との分かれ目で、継ぎ目と言う意味もある。重要なのは、変化して止まると言う象意に注目したのだ。艮に大量の海水を置くと、坤にある海のエネルギーが変化を起こして、その作用を止めてしまうと考えた。―――
松池は口を閉じる。
「ただ・・・」ぼそりと呟く。
アイが不安そうに松池を見る。
「本当に塔の中のバクテリアが無効果になるかどうか、理論上、そう判断するだけだ」
「マサルが言っている」オサムは口をとがらす。
「マサルは実際に試したわけではない」松池はオサムを制する。
「その通りだ」タローは危険な事はやめようとばかりに言った。
松池はタローを無視して以下のように話した。
―――塔から北東の方角に、佐布里池がある。少し北寄りだが、多少の狂いは大したことはないと思う。この池の水を、密かに海水と入れ替えるだけだ」
「何だって!」キタが驚きの声を上げた。
「無理よ、いくら何でも」アイが厳しい口調で言う。
「まあ、話は最後まで聞いてくれ」松池は地面に佐布里池を書いた。
「この池の周辺の地形は今も昔も大して変わってはいない。この地帯は丘陵地帯だ。その窪地に池が出来ている訳だ」
皆、真剣な顔つきで松池を見ていた。
「それに・・・」松池は一息ついた。
「この周辺には大きな川はない。川幅が2メートル程の小川が海に流れている。佐布里池の水源は湧き水だ。大きな山が控えていて、水が流れてくるわけでもない。そこでだ・・・」
松池は地面に書いた佐布里池の水源の湧き水を池の所に、円を描く様に指でなぞった。
「水源の水を池に流さずに、ホースで地下ホールの貯水槽に入れる。。それと今までは小川の水を飲料水として地下の貯水槽にながしていたが、直接海に流す」
松池はダンを見る。
「ダン、潮流発電機はまだ使えるか」
ダンは細面の顔を両手でたたいて言った。
「使えるよ。カミが部品をくれるから助かっている」
「いつでも使える様にしておいてくれ。地下ホールから海水をホースで佐布里池に引き込む。ポンプアップすれば可能だと思うが」
「ああ、パワー的には問題ない」ダンが言うと、
「しかし、ホースが見つかってしまうぞ。カミの”目”は蟻さえ見逃さない」タローが不定するように言った。
「湧き水のホースと海水のホースを川の底に沈める」
「あっ」オサムが感心したように言う。
「つまり、全部地下に埋めてしまうんだ」
皆、頷いた。
「池の水が海水に入れ替わるまで、どれくらいかかるのか」キタが眼を輝かして尋ねる。
「コンピュータに聞いてみるよ」アイが言った。
「いや、ダメだ、コンピュータはカミに握られている」
松池は言いながらダメ押しをする。
―――絶対にカミにさとられてはならないのだ。1か月で済むか、3か月かかるかはわからぬが、海水に入れ替わっても、海水は入れ続ける。小川が流れていないと、カミは不審に思うだろう―――
「しかし、小川の水が海水になると、周りの草木が枯れる恐れがあるが・・・」
「小川の周りは伐採しないように、カミの眼から見えないようにしておく事でよいのではないか」
「塔の中のバクテリアが無効化になったと知ったら、カミの世界にパニックが起こるだろうな」オサムは喉の奥でくくっと笑った。
「そうなった場合、カミは我々をそのままにしておくだろうか」タローは不安そうに言った。
「食料や生活物資を、出来るだけ多く、地下ホールに貯蔵する必要があるな。それにコンピュータを破壊せなばなるまい」
「コンピュータを壊す!」アイが叫んだ。
「ヒロシ、そんなことをしたら、私ら、手足をもがれたと同じになってしまうよ」
「しかし、アイ、もはやコンピュータはカミに操られている」
松池はアイの肩を抱きしめる。
―――地下ホールの地震は我々のコンピュータを通じて、カミが引き起こしたものだ。コンピュータを使わずに生きていく事になる―――
「何年?」
「カミの種族が滅びるまでだ。約15年ぐらいか、コンピュータはなくても、世界中の同胞とはラジオ短波で通じ合える。潮流発電機で電気は確保できる」
松池は皆の顔を見回す。
「今言ったことを実行するかどうかは、君達が決める事だ。ただし・・・」
「ただし、なに?」
「実行するかどうかを、先送りにすると、実行は困難になっていく。それでなくても、カミは食料や生活に必要な資材を惜しげもなく供給してくれる。カミの手足となって共存したほうが良いと言う意見が多くなってくる。それにもう1つ・・・」
松池はため息をついた。ゆっくりと以下のように話す。
―――カミとの共存には、将来起こるだろう不安がある。
例えば、塔の秘密を、解明したとする。カミの種族は驚異的に増えていく。猫の繁殖力は人間の数倍だ。その数はたちまちのうちに、人間を追い越していく。
それに、カミに知能は年々発達している。だから人間と同じ能力を持った精巧なロボットを、いつしか造らないと言う保証もない。そうなったら、人間は必要でなくなる。滅ぼされるだけだ。―――
重ぐるしい沈黙が漂う。
松池は口を切った。
「老人が消されたとき、私は必ず復讐してやると心に誓ったが、今は迷っている。カミに復讐するかどうかは君達が決める事だ」
「15年、辛抱すれば、カミに勝つのか」オサムが尋ねる。
「カミは手足としての人間が欲しいだけだ。もしバクテリアが無効化になると、カミは死に物狂いで人間を消しかかる筈だ。地下ホールでカミの力の衰えるのを、耐え偲んで待つのが戦いとなる」
松池は力説した
「タロー、やろうよ。それしかないよ」キタがせきこんで言った。
「そうだ。今まで何のために戦ってきたのだ。敵に食料を恵んでもらって、闘争心を失ってはいけないんだ。戦うべきだ」
「ヒロシ、犠牲が出るだろうか」タローの問いに、松池は答える。
「地下の天井には、紫光線防御シールドが張り巡らされている。コンピュータさえなければ、カミは手を出せない。今までの経験だ判っている筈だ」
「コンピュータを壊さないようには出来ないのかい」アイが不服そうに言った。
「15年間の辛抱だ」オサムがなだめる。
「私も、キタやオサムの意見に賛成です」今までうつむいていたミツルがポツリと言った。日頃口数の少ない彼が自己主張したのだ。タローは決心したようにうなずいた。
「佐布里池の水を海水に入れ替えたとしても、果たして塔に中のバクテリアが無効化になるかは未定だ。その事は心にとめておいてくれ」松池は以下のようにダメ押しした。
―――池の水が完全に入れ替わるのに、3か月はかかると思う。効果が表れるにしても、すぐに出るか、しばらく後になるか、それも未定だ。食料、生活資材など必要なもの全ては、地下ホールの貯蔵庫に入れる事になるが、夜間、密かに行った方が良い。カミの眼が光っているとみるべきだ。皆には内緒にした方が良いと思う。―――
「何故だ。皆、心を許し合った同志だぞ」オサムが抗議した。
「判っている。だがカミの眼、つまりセンサーは人間の表情さえ読み取る。つまり気配を感じるのだ。敵を欺くには味方からというのが、5百年前の格言だ」
「敵を騙すには味方を騙すのか。ヒロシの世界は奇妙なところだな」オサムがあきれたように言った。
「この世界は敵味方がはっきりしている。我々の世界では人間の敵は人間なんだ。誰が味方で誰が敵かわからない事もある」松池は5百年前の人間関係を話した。そしてさらに言う。
「君たちの科学技術は発達しているが、敵との戦い方は私の世界の方が優れている。ここは私に任せてもらえないか」松池は声を大にして言った。
「皆、ヒロシの指示に従おう」タローが言った。
「海水の入れ替えは、先ほど言った通りにやってほしい」そして念を込めて話す。
―――海水の効果が表れるにしても、まだ先の話だ。食料や生活資材の備蓄はすぐに始めてほしい。もしカミや他の同志に知られたら、冬のそなえにとでも言えばいい。4万人分の備蓄だから長期間になると思う―――
松池は1人1人に依頼する。
「世界中の同胞にも、暗号を使って連絡が出来るか」
「暗号は我々の得意技だ。任せてくれ」ミツルが得意そうに話す。
松池たちは一応の相談が終わると、何事もなかった様に、それぞれの仕事に戻った。
破滅の道
松池は塔の中の自分の家に戻っていた。
佐布里池の海水作戦はカミにさとられぬように作業が進められていた。松池は書斎からテレビモニターでタローを呼び出した。
「やあ、タロー、仕事は順調かい」すべてうまくいっているかという意味だ。
「ヒロシ、順調だよ。昨日の仕事は全部片付いた」
・・・海水の入れ替え準備はできた・・・
「それは良かった。今日の仕事は?」
「すでに始めている」
・・・海水の入れ替えを始めている・・・
「アイはいるか?」
「今、外で仕事をしている」
「子供はいつ生まれるだろうか」
「あと、4か月ぐらいと思う。気になるか、ヒロシ」
「ああ、私の子だからな。万事うまくいくように祈っている」
タローとの会話が終わると、松池はロムを呼び出した。
「ロム、我々は君達に感謝している。平和な日々に皆喜んでいる」
「ヒロシ、お互い様だ。リシ様も喜んでおられる。ところで、3つのエネルギーの内2つは判明した。後1つは判るか」
「判ると思う。もうしばらく時間をくれ」
「ああ、ゆっくりやってくれ。リシ様も慌てなくても良いと言っておられる」
松池はロムと他愛もないお喋りをした。松池は心の不安を隠すために饒舌になっていた。ロムとの会話が終わると、一人になって考えた。
もうしばらくすると、猫達はバクテリアの異変に気付く筈だ。当然疑惑は松池に向けられる。猫の注意をひきつける。佐布里池の海水の入れ替えを悟られてはならない。カミが猫に成り下がるまで、隠し通さねばならないのだ。
松池は緊張を隠すために、酒をあおった。ここにいつまで居れるか、死を覚悟せねばならない。
3日たって、ロムをよんだ。松池は会社のあった所に行きたいと話した。硫黄がどういう形で埋められているか、コンピュータのシュミレーションを見せてもらった。
1トン余の量が埋蔵されていると聞いたときには、マサルの執念にも似た行動緑に感服した。
松池はロムに言った。
「君も知っての通り、妻のアイの出産の日が近い。アイの側にいてやりたい。ここをしばらく留守にしたい」
「ヒロシ、リシ様もヒロシ二世を見たいそうだ。私達に気兼ねしなくてもよい」
松池は家を出た。工場の周囲や家の周りを歩いた。多分ここに二度と帰ってくることはないと思った。あるとしても、15年後になるか、あるいは猫に殺されるかだと思った。彼は佐布里池の海水化が、バクテリアに変化を与えると確信していた。
・・・マサル・・・弟の子供は、松池がタイムスリップする時、まだ小さかった。
マサルが蒔いた種を、松池が刈り取ろうとしている。何という皮肉だ。元はといえば、松池が集めた古代の叡智にある。たとえ環境破壊を起こそうとも、地球の支配者は人間なのだ。猫なんぞに支配されてたまるか。人間の威信にかけても、猫を滅ぼさねばならぬ。松池は心に誓った。しばらくは、その場に座り込んでいた。
嵐の前の静けさ。不気味な雰囲気がタローやオサム、キタ達の間に漂っていた。数十人の者たちが一体となって、極秘に事を進めていた。他の多くの者に話してはならないという鉄則は守られていた。
長い年月の間に生じた同胞意識は、統制のとれた行動となって表れていた。しかし、異変が生じたら、4万余の人間を地下ホールに避難させる事は大変だと予測された。
リーダーたちは毎日、緊張の連続を強いられていた。
佐布里池の海水の入れ替え作業が始まって、2か月がたった。今のところ、カミの動きに変化は見られなかった。しかし、どんな事態が生ずるか予断は許さなかった。
アイの出産が2か月後に迫っていた。松池はアイを地上には出さなかった。アイに限らず、妊婦は養生大事という名目で地上に出ることを許さなかった。女、子供は地下の入り口近くで仕事をするように命ぜられていた。
「外に出たい」活動的なアイは口をとがらせた。松池はアイをなだめた。アイは仕方なく他の妊婦と生まれてくる子供の話に花を咲かせて、気を紛らわせていた。
松池は異変が生じた後の処理について、タローやキタ達と何度も打ち合わせを行った。
「カミは、異変が生じたとき、どういう形で対応してくるだろうか」ミツルは冷静な顔で尋ねた。
「判らない」誰もがそれを知りたかった。不安は日増しに大きくなっていく。
松池は毎日、地下室のコンピュータのモニターからロムを呼び出した。
もうすぐ子供が生まれる事や、冬が近くなるので、食料や生活資材の備蓄の事を話しながら、ロムの態度に眼を光らせていた。
ロムはいつでも提供できるから、備蓄の必要はないと言う。
松池は笑いながら、地下生活が長かったので、貯め込むと言う習慣を変える事が出来ないと話した。ロムは笑った。猫が歯を剥いて笑うと、気持ちが悪かった。
「ヒロシ、もう1つのエネルギーの秘密を解くと、君は我々の歴史に名が残る」ロムは澄んだ丸い目をキラリと光らせていった。
「必ず解いて見せる」松池はウインクする。
「期待している」
ロムが消えると、これから起こるであろう事態についてあれこれ思案した。殻に閉じこもる以外手がない。これはリーダーたちと話し合った結果であった。猫の科学力に太刀打ちできる訳がないのだ。カミが猫に成り下がるまで忍耐するしかないのだ。
・・・今のところ、塔の中のバクテリアに変化はなさそうだ・・・ロムの態度からそう判断した。
3日たった。大雨が降った。松池は不吉な予感に襲われた。この世界に来て1年3か月になる。塔の中の自分の家やカミの超高層ビルでの生活が長かったせいか、雨を見たのはこれが初めてだ。
「雨はふるのか」オサムに尋ねる。
「季節になるとふる。今年は雨が少ないと思っていた。こんな大雨は珍しい」
「もしかして、カミのせいでは・・・」
「カミにそんな技術があるのか」
松池はカミのコンピュータは台風さえ消滅させて、電気エネルギーに代えると話した。
オサムは不安そうにいう。
「雨も自由の降らすのか?」言いながら
―――もしそうなら、カミは佐布里池の秘密を知っていることになるぞ。だが、こんな回りくどい事、するだろうか。池の水を蒸発させた方が早いぞ」
「そうだな」松池は雨を眺めた。
雨は3日3晩降り続いた。食料などの地下倉庫への備蓄は順調に行われていた。佐布里池の水の塩分が薄められるのは仕方がなかった。
「いまいしい雨が」マサルはとげとげしい声で言った。
「焦るな」松池は自分に言い聞かせるように言った。
2日後ロムとテレビモニターを通じて話をした。
ロムは正直な猫だった。喋り方や表情に、心の動きが素直に出てくる。
「雨は、君たちのせいか」松池が尋ねる。
「何か不都合でもあったか」
「そういう訳ではないが、雨が続くと、外での仕事がやりにくい」
「我々は必要としない限りは、自然には関与しない。この雨は降るべくして降った雨だ」
「私がこの世界に来て、初めてみる大雨だ」
「雨が珍しいのか」
「・・・」
「ヒロシ、君は面白い人間だ。リシ様も君に好意を抱いておられる」
「リシは元気か」
「ああ、元気だ。今、アメリカ大陸に行っておられる」
「何かあったのか」松池は不安になる。
ロムは饒舌に以下のように話す。
―――1年に1回、カミ族の首脳会議が開かれる。今年はアメリカ大陸と決定した。リシ様は世界中のカミ族の総帥であらせられる。今回の議題は、人間との共存がテーマだ―――
松池はリシが不在と聞いて安堵した。あの猫さえいなければ、この計画はうまくいく。
「リシはいつ帰ってくる?」
「2か月ぐらい後だろう」
「帰ったら、会いたいと伝えてほしい」
今日の、リムとの会話はこれで終わった。
松池はリシと顔を合わせるのが苦手だった。あの黒猫は一体何を考えているのか、底が知れないのだ。じっと見つめられると、心の底まで見透かされているようで、身震いがする。
月満ちて、アイは男の子を出産した。松池の喜びは佐代と結婚した時以上だった。緊張の中の束の間の喜びに浸った。タローやオサム、キタ達も祝福してくれた。この幼い命を守るためにも、どんなことをしてでも猫と戦わねばならないと、気を引き締めた。松池はロムにも赤ん坊を見せた。ロムは素直に祝福してくれた。
「あんたって、どういう神経をしているの?」アイが不思議そうに言う。
「これから、カミと戦うんでしょう。そのカミの祝福を受けるなんて」
松池はアイの言葉を優しく遮った。
「敵を油断させるためさ」
「私達には出来ない芸当だわ」
松池は笑った。うれしくて仕方がなかったのだ。緊張の中の笑いは必要だとアイに言った。アイは解しかねる表情をした。それでも、赤ん坊を抱きしめると、アイは幸せ一杯の表情に変わった。猫との戦いの事等、念頭から忘れさ去ったような顔になった。
1か月が過ぎた。
カミの異変は表れなかった。後1か月ぐらいで佐布里池の水は海水に入れ替わる。もうそろそろ、カミに異変が表れてもいい頃ではないか。キタが苛立つ様にいった。
松池は、海水に入れ替わったとしても、果たして効果があるのか不明だと念を押した。日が過ぎるごとにその思いが強くなっていく。
1日1日が平穏に過ぎていく。緊張感だけが高まっていく。効果が不明だとしても、カミに異変が表れないとは言えないのだ。その時の為に、リーダーたちが気持ちを高ぶらせていたのだ。
「もともと、厳戒態勢には慣れているから大丈夫だ」オサムは笑いながら言った。とは言え、その顔には疲労がにじみ出ていた。
「あと、1,2か月で結果が出る筈だ」松池は皆を激励した。
1か月がたった。
松池はアイと楽しい日々を送っていた。毎日のように、ロムとテレビモニターを通じて話し合っていた。ロムの様子は普段とは変わらなかった。
松池は焦りを感じるようになった。佐布里池の水は海水化していた。彼は散策をしながら、小川の水を調べたり、池の海水の濃度を確かめたりした。池の水は潮の匂いが強烈だった。草木も枯れかけていた。 幸いにも森林がこの事実を覆い隠していた。
松池は池の周辺をタローと歩いていた。
「ヒロシ、あと2か月待って、塔の中のバクテリアに変化がなかったら、止めようと思う。潮流発電をいつまでも回転させておくことは出来ない。カミに怪しまれる」
「タロー、3か月にしてくれないか。それで効果が出なかったら止めよう。この池の海水はこのままにしておいてほしい。あと、1か月したら、私はカミの世界に戻る」
「その間に効果が出ていたら?」
「私は殺されるかもしれない。その時はアイを頼む」
松池の決意を聞いて、タローは頷いた。
松池はアイを連れた、外に出た。久しぶりの事だった。アイは赤ん坊を抱いていた。
「ねえ、ヒロシ、赤ちゃんの名前、どうするの?」
「私の父の名前を取って、ゲンジとしたいが、どうだろう」
「あんた、ゲンジだって」アイは赤ん坊をあやしながら言った。
松池はアイのお喋りをうわの空で聞いていた。ぼんやりと仮小屋が建てられていくのを見ていた。
・・・あの小屋は無駄になるかも・・・
人々は日中は外で過ごした。夜は地下ホールで生活していた。その表情は以前と比べて平穏と喜びに満ちていた。
・・・もうしばらくすると、元の緊張に満ちた世界に戻るかもしれない・・・
松池は佐布里池の海水化の効果を期待していた。もし効果が出たら、皆に憎まれるかも知れないのだ。様々な思いが交差したいた。
「アイ、私は近いうちに、カミの世界に帰ろうとおもう」アイは心配そうな表情で松池をみた。
「心配するな。カミにとって、私はなくてはならぬ人間だ。殺しはしないと思う。たとえ、海水の事が露見してもな。しばらくは会えないと思う」
アイは松池に寄り添って歩いた。松池はアイと色々な事を語りたかった。自分たちの仮小屋に入った。アイは軽い食事を作った。
食後、「カミをどう思う」アイに唐突に聞いた。
「カミ?そうだね。人間よりも頭が良くて、科学技術力も優れていて・・・」
「私の時代、カミは猫と呼ばれていて、愛玩動物だった」
「過去の事はどうでもいいんじゃないの。」アイはカミとの戦を避けたいようだった。
「ヒロシの時代にもカミはいたの?」
松池は自分に言い聞かせるように以下のようにいった。
―――人類が地球上に誕生したころからカミはいた。ただし、今の時代のカミのように、カミの実体がはっきりしていなかった。カミは神と呼ばれたいたが肉体を持っていなかった。人間が造り出した想像上の生き物の様だった。人間よりはるかに優れていて、指導してくれる存在、それが神だった。人間はいつも自分以上の存在を追い求めていた―――
「何のために?」
「何のと言われると、説明のしようがない。不安や悩み、精神的な苦しみを抱えていたからだ」
松池はアイの大きな眼を見る。
「今の時代のカミと、私の時代のカミとは、大きな違いがある。今のカミは敵として存在し、恐怖の的だ」
アイは頷いた。
「私の時代は、人間がどんな状況にあったも、人間の味方だった。ただし、Aという民族のカミが、Bという民族のカミの敵になることはあったがね」
松池は一息つく。アイは不可解そうな顔で松池を見守っていた。
「つまり、カミは実体がないから、人によっては、どのようなものにもなる。しかし根本的には、人の心の奥底に潜むカミの概念は1つだった」
「それは・・・、何?」
「愛だよ。アイ、君の名前のアイ。人間同士がお互いを認め合い、愛し合う心にこそ、カミがいると信じている」
松池はアイと赤ん坊を抱きしめた。
「どうしたの、ヒロシ」
松池は無性にアイがいとおしかった。
「アイ、よく聞いてくれ。カミは食料や生活資材を与えてくれる。だが、彼らは我々を手足として利用したいだけだ。いずれ破局がやってくる。アイ、皆の心に愛という神を植え付けてくれ。心の中に神さえいれば、カミに滅ぼされる事はない」
「ヒロシ、どうしたの?]
[私は1度カミの世界に帰る。でないと疑われる。嫌な予感がするんだ」
「嫌な?」アイは不安そうな顔で松池を見る。
「これでもう会えないような・・・」
「馬鹿を言わないでよ。気のせいよ」
「ああ・・・」
松池は赤ん坊を側においてアイを抱きしめた。湧き上がる不安を振り払うように、アイの肉体をむさぼった。赤ん坊が火が付いたように泣き出した。冷や水をかけられたように、アイから離れた。アイは赤ん坊を抱きしめて、あやした。
2日後、松池はタローやオサム、キタ達リーダーと仮小屋の中で会った。彼らに言った。
―――私は佐布里池の海水の効果はあると信じている。だからカミに異変が起こると確信している。それを確認するためにも、カミの世界に帰る事にした。そしてここに帰ってくる。だが、万が一という事もある。1か月たっても私が帰ってこなかったら、コンピュータを破壊してほしい。アイが悲しむのは仕方がない―――
「しかし、ヒロシ、君が帰ってこないからといって、塔のバクテリアに異変が起こっているとは限らないぞ」タローが言った。
「それは判っている」松池はタローを制した。
「あるいは何も起こらないかもしれない。それなら、私を自由に、こことカミの世界を行き来させてくれる筈だ」
「塔の中で異変が起こっているかどうか、どうやって知るのだ」オサムが言った。
「これだ」松池は草の葉を見せた。この草の名前は知らないが、何処にでも繁殖する草だ。これを持って帰る。庭に植えておく。カミは塔の中の草木を全部省いてしまったから、バクテリアの効果が判らないのだ。マサルも言っているように、あのバクテリアは草木の成長にも影響を与える。バクテリアの効果が有効ならば、この草の成長も著しいだろう、松池は重ねて言った。
「効果が無効になっていれば?」キタが尋ねた。
「ここに生えている時と同じだ」
「成程」オサムが感心して言った。
「1か月の意味は」タローが聞く。
「特にない。すでに効果が現れていなければならない。それを確かめる日数だ」
「判った。もうここまで来たんだ。やるしかないだろう。タロー」オサムが声を張り上げる。
翌日、松池は出発した。佐布里池をめぐりながら、自分の不思議な運命を思いやった。
松池は20代の半ばで独立した。決して順調ではなかった。40代で結婚するまで悪戦苦闘の毎日だった。佐代と結ばれて、ようやく幸福をつかみかけた矢先、佐代の死に見舞われた。その悲しみに浸る暇もなく、この時代にタイムスリップした。
本来ならば、猫を神として崇め、アイとの幸福な日々にふけっていればよかった。
しかし、猫の秘密を知った今、人間としての尊厳がそれを許さなかった。
佐布里池の水は海水の匂いが強烈だった。幸い深い森林がその匂いを覆い隠していた。これで地球の磁気エネルギーの流れが変化する筈だった。否、すでに変化していなければならないのだ。
猫達は、この変化を悟られまいとして、覆い隠しているとも考えられるのだ。それを知るために、松池は出発したのだった。
人間とは何と不条理な生き物かと思った。猫の保護の下でアイと幸福な生活を送ればよいものをと思った。それを捨ててまで、何をしようとするのか。生きて帰れる保証はどこにもない。たとえ、バクテリアに何の変化が見られなかったとしても・・・。この時は他の手を考えるだろう。人間としての真の幸福を得る為に、あえて辛い道を歩む自分に、後悔の念がちらりと顔を出す。
「アイ・・・」再び会える日を願って、松池は佐布里池の深い森を後にした。
磁気転質効果によって、松池は一瞬のうちに、銀色の超高層ビルの、自分の部屋に入った。松池が帰る事を予測していたのか、松池が転送されると同時に、ロムがスクリーンに表れた。
「ヒロシ、久しぶりだね」ロムは普段と変わらない。
「スクリーンで毎日会っているから、久しぶりとは思えないが」松池は軽い冗談を飛ばした。
「ところで、君はずっとここにいるのかね」
「アイと子供と3人で生活がしたいので、しばらくしたら帰りたい。それまでの間に、磁気エネルギーの秘密を解明しておきたい。ロム、自分の家に行っても良いかな」
「君の自由にすればよい」
「これを庭に植えたいがよいか」
「何だね。それは」
「ただの草だ。家の周りに草木がないので、無味乾燥だから、庭に植えたいのだが」
「好きにしたまえ」
松池は塔の中の家に入ると、草の一部を書斎の中に、一部を、マサルがバクテリア発見のきっかけを作った庭に植えた。太陽光線がないが、コンピュータ制御によって、適度の光が与えられていた。草はすぐにも根ずいて、青々とした葉を繁らした。
松池は毎日、草の繁殖ぶりを注意深く見守った。
ロムがやってきた。
「ヒロシは草が好きなんだな」
「草でもいじくっていると、気がまぎれるんでね」
「ところで、相談がある」ロムは真ん丸の眼を松池に向ける。真剣な表情だ。
「我々は人間と共存していく。そこでだ。人間のコンピュータは古すぎて、しかも精度が悪い。我々のコンピュータの末端機を利用してほしい。末端機とはいえ、マザーコンピュータがそっくり利用できる」
「相談してみよう」
「急ぐ必要はないが、これは相談というよりも、命令と心得てほしい」ロムは日頃の軽い口調に似ず、厳しい声で言った。
「4,5日時間が欲しい」松池は草の成長が気にかかっていた。その結果によってタローと相談してみようと思った。
3日たち4日たった。草の繁殖は素晴らしかった。青々とした葉を大きく茂らしていた。
松池はテレビモニターでタローと会った。
「君が持って行った観賞用植物はどうだい」とタロー。
「見事に成長している。怖いくらいだ。そちらはどうだい」
「私の方は、水が合わなくなっている」
「どうした」
「花が枯れかけている。もうやめた方が良いと思う」
「君がその気なら、私は何も言わない」
タローは決心したように頷いた。その表情を見ながら、
「カミからの命令がある」松池が言いかけると、テレビモニターは三毛猫のロムに代わる。
「ヒロシ、私が言おう」ロムは厳しい口調で話し出す。
―――よく聞くがよい。私の声は全世界の人間に届いている。人間のコンピュータは古く、我々と共存していく上で支障をきたしている。人間のコンピュータはすべて破棄する。
その代りカミのコンピュータを使用させる。全ての知識や情報は我々のコンピュータが与える。
仮小屋が一通り出来上がったようだ。次は超高層ビルの建設に移る。このビルこそが我々のコンピュータの末端機だ。この中に、人間が住むのだ―――
ロムの姿が消える。タローが現れる。ロムの命令を予期していたと見えて、比較的冷静だった。
「ヒロシ、コンピュータを破棄すると、アイが泣くかもしれん」
「アイはいるか。代わってくれ」
アイがテレビモニターに映る。
「アイ、ゲンジは元気か。見せてくれ」
アイは赤子をあやしながら見せた。その様子をみて、
「アイ、聞いた通りだ。コンピュータを諦めてくれないか」
アイはうつむいたまま何も言わなかった。唇をかみしめていた。松池はこれ以上言ううのが辛かった。
「ロム、お願いだ。人間のコンピュータをアイに与えてくれないか」
テレビモニターからアイが消える。ロムが現れた。
「何のために与える」
「アイの玩具に」
「玩具?」
「そうだ、アイの遊び道具としてだ。どうだろう」
「よかろう」ロムは赤い口を開けて笑った。
「アイ、良かったな」
テレビモニターに現れたアイは子供のように破顔していた。
「ヒロシ、早く帰ってきて」
松池が答える代わりに、ロムが言った。
―――ヒロシにはしばらくここに居てもらう。磁気エネルギーの秘密を解明してもらわねばならぬ。その後、世界各地に塔を建設する事になる。その場所選びに、参加してもらう事になる。アイにコンピュータをあたえたのだ。それで我慢してくれ―――
アイはしぶしぶ承諾した。
数日間、松池は書斎で本を読んでいた。何気なく鉢の中の草を眺めていた。青々と茂って、人の頭ほどの大きさになっていた。鉢からこぼれそうだった。
・・・よく茂った。佐布里池の海水効果はなかったのか・・・
マサルの理論は効果がなかったのか、失望感が広がる。実験から得られた理論ではないから、やむを得ないか。気学から割り出した、手前勝手に解釈した理論だ。
・・・仕方があるまい。猫と共存していくしかないか・・・
松池は草の葉を撫ぜる様に触れる。今までは鉢を眺めるだけだった。直接手で触れる事はなかった。
手を触れた瞬間、鉢の土が暖かいのに気付いた。周りの空気よりも暖かいのだ。松池は鉢の土に手を入れる。暖かい。不審に思って、鉢を持ち上げる。床に手を触れる。その部分から、地熱のような温かさが伝わってきた。
松池は外に出る。庭の草の土の中に手を突っ込んだ。草の部分だけが暖かい。
・・・騙された!・・・
松池は何気ない顔で書斎に戻り、ロムに呼びかけた。
「タローに用があるのだが、呼び出してくれないか」強いて平静を装った。
「ヒロシ、その前に、リシ様が話があるそうだ」
「急ぐのか」
「すぐに、リシ様の部屋に行ってほしい」
「判った。行こう」松池は怪しまれないために、タローとの交信を後回しにした。
松池は家を出た。庭の草に手をやった。庭の南の方のエレベータの入り口に入った。エレベータで地下に降りる。少し歩くと鉄の扉がある。松池がその前に来ると自動的に開いた。扉の外に出る。扉が大きな音を立てて閉まった。
「ガシャーン!」にぶく響く音は、松池がこの塔に永遠に入れない拒絶のサインの様に聞こえた。後ろでその音を聞きながら、松池は長いコンクリートの廊下を歩いた。
松池はリシの部屋に通された。リシの部屋に入るのはこれが初めてだ。全世界の総帥の部屋と言っても、松池の部屋と変わることはなかった。
リシはオレンジ色の光が充満する部屋の小さなソファの中で蹲っていた。眼を細め、真っ黒な体を、時々ビクビク波打たせて、何かを思案していた。
松池が部屋に入ると、床からソファが浮き出てきた。
「座り給え」リシの声は穏やかだった。
松池がソファに腰を降ろすと、リシは大きな丸い目を見開いた。
「ニャー」真っ赤な口を開けて、松池を一喝した。
「この裏切り者が!」
松池はびっくりしてリシを直視した。
「みたまえ!」リシが叫ぶと同時に、右側の壁一面がスクリーンと化した。
書斎の中の鉢と庭の草が写った。鉢の向こう側で松池が眠っている。この映像は、遠くにある被写体も、近くにあるものと同じように鮮明に映っていた。
鉢の草と庭の草に紫の光線が降り注いでいた。地面や床の下から草に優しい熱が送られているに違いなかった。草は活気があふれる様に成長していた。
場面が一変する。
空から見下ろした佐布里池が現れる。うっそうたる森の中に、池の水面が日に照らされて鏡のように光ったいた。
「池の周囲の生態系に変化がみられます」コンピュータが警告する。
「池の水は?」リシが問う。
「海水です。周囲の草や木が枯れているのもそのためです」スクリーンが消えた。元のオレンジ色の壁になった。
「ヒロシ、君が我々を裏切ったことは残念だ。最近まで、君を信じてきた。いや信じようとしてきた」
リシは怒りの眼を松池に向ける。そして以下のように話した。
―――君に不信の念を抱いたのは、君が人間の社会に戻ってからだった。君は毎日のようにロムに話しかけていたね。普段の君は無口だった。それが別人のように饒舌になった。
ヒロシは我々に何かを隠している。私の直感だった。それでも、2つのエネルギーを発見してくれた君を信じたかった。
ここではっきり言おう。
佐布里池の水が100パーセント海水に入れ替わって、1か月後、塔の中のバクテリアの効果が無くなった。
パニックが起こった。世界の終末を迎えたような騒ぎとなった。その時、君が我々の世界にいなかった事が不幸中の幸いだった。
私はすぐにも君の作為だと悟った。君を呼び戻そうと思ったが、賢明な君の事だ、すぐにもバクテリアの無効化を推測するだろう。我々の唯一の弱点を知られることになる。私は耐えて待つ事にした。
私は世界中を飛び回った。同胞の動揺を鎮める為だった。私は同胞の厚い信頼を得ていた。これを機に、我々は必ず繁栄を勝ち得るであろうと断言した。
私は直感していた。君が磁気エネルギーを発見したとね。だからこそ、私は注意深く君の行動を見守ることにしたのだ。君は必ず動き出す。ロムには普段と変わらぬ態度を取るように指示した。
その上で、原因の究明に乗り出した。
迂闊な話だが、我々は奇門遁甲などという、君の時代の方位術には興味はなかった。縁もなかったのだ。我々の科学技術はそれを超える程の力を持っていたからだ。
だから、牛だの虎だのとかいうのが方位を表しているとは思いもよらなかった。君が何かを為したと言う確信だけがあった。それが何か、私は君の行動を見守ることにしたのだ。
地下のホールには人間のコンピュータがある。それを通じて、地下内を探ることが出来た。地下には備蓄された生活用品の他には何もなかったが、1つ大きな手掛かりを得た。
潮流発電機が稼働している事だった。電力エネルギーは我々が供給しているにも拘われずだ。電力が何処に供給されているのか探ってみた。
その結果、海水をくみ上げて、ポンプアップして、地上のどこかへ送っているらしいとまでは判った。問題なのはそのパイプが何処に配置されているかが判らなかった。我々のコンピュータのセンサーでも見通す事は出来なかった。
我々の捜査が行き詰まったかに見えた。我々カミ族の生存という重大な危機にあった。諦める訳にはいかなかった。
”ポンプアップしていたのが海水”
私は磁気エネルギーが塩という君の持論を思い出した。
コンピュータに、陸地のどこかに海水が蓄えられているかどうか探らせた。それが地下なら手の施しようがないが、私は、人間が新たに地下を掘る時間的余裕はないとみていた。地上のどこかにある筈だと確信していた。
海水は独特のバイブレーションを持っている。真水やそれに近い水のバイブレーションは極めて低い。その差は容易に察しがついた。ものの1時間も経たないうちに、コンピュータのセンサーは佐布里池の水が海水化しているのを発見した。
この時、私は磁気エネルギーの秘密が判った。塔の中のバクテリアの秘密が全て解明できた。これは君のお陰だと思っている。しかし、君は我々を裏切った。この償いはしてもらう。
佐布里池が完全に海水化して、1か月がたった。バクテリアの効果が急激に衰えていった。私は君が来るのを待った。待つ以外方法がなかった。
君が草を持ってやってきた時、私は勝ったと思った。草の成長はコンピュータに命じて、作為的に行わせた。我々の弱点を知るのは君だけだ。―――
「みたまえ」
リシの声が終わると同時に、スクリーンが表れた。
佐布里池から海水が流れ出し湧き水が池に流れ込んでいた。スクリーンの場面が一変する。地下ホールの潮流発電機が映し出される。ダンが発電機を止めて、機械の点検を行っていた。
―――これで海水は池に流れ込まない。1か月ばかりかかるだろうが、佐布里池は元の水になる。我々の被害は3か月ばかり、バクテリアが製造できないで済んだ。
その代り、5百年かかっても判らなかったバクテリアの秘密が解明できた。我々はこれから世界中に塔を建設していく。我々の子孫は人間の数を超えて繁栄していくだろう。―――
リシの声が途切れる。松池は言った。
「リシ、君は私を裏切り者と呼んだが、私は卑劣な行為をしたのではない」
「どういう意味だ?」リシは興味津々たる大きなまん丸い眼を松池に向けた。
「私は人間の1人として、当然の事を下までだ」松池の心は高揚していた。さらに言葉を続けた。
―――君がどういおうと、地球の支配者は人間だ。私達が君達を創ったのだ。人間が人間としての地球上の支配者の地位を取り戻そうとしたまでだ。
それに、もう1つ、今は君達が人間の支配者であると認めよう。君達は手足として、人間を必要としている。私が懸念するのは、今は君達と共存できるかもしれない。
だが、10年後か、50年後か、いや百年後かもしれない。君達は人間以上のロボットを造り上げるかもしれない。その可能性は高い。その時、人間は抹殺されるだけだ。リシ、そうじゃないのか―――
「人間は自己中心的でわがままな種族だ」リシは赤い大きな口を開けてニャーと鳴いた。
「ヒロシ、良く聴け、君の言うう通り、我々は手足としてのロボットを創造するかも知れない。いや現にその開発を進めている」リシの眼に怒りの表情が宿っていた。彼は覆いかぶせる様に言う。
―――しかしだ。ここ当分の間は、人間以上のロボットは不可能だ。たとえ百年後に現在の人間以上のロボットが創造出来たとしても、百年後の人間が、現在よりも肉体的にも知的、精神的にも向上し、進歩しておらねばならぬ。そうでなければ、その時点で我々は人間を他の動物と同じように扱うだけだ。
君の時代でもそうではなかったか。利用価値のない動物は抹殺されるか、減少されるかの運命をたどっていた。今の我々は君の時代の人間に相当する。ヒロシ、判るな。―――
リシは尊厳な態度で言い放つ。
―――我々はこれから人間に我々の知識を与える。環境や食生活、全てが改善される。向上するよう努力するしないは人間次第だ。人間はもっと我々の知的状態に近ずくべきだ。心地よい環境を与えられ、その中で惰眠をむさぼり、向上する意欲を失ったら、人間は滅亡するだけだ。
我々も5百年前よりも向上している。向上する努力を忘れない限り、我々はいつの時代でも人間を必要とする。―――
リシは松池を見ていた。松池は何も言えなかった。リシの言うう事はいちいちもっともだと思ったが、割り切れないものが心に残った。彼らは松池の時代、猫とよばれた愛玩動物に過ぎなかった。そのぬぐいがたい偏見があった。
気まずい沈黙が流れた。それを断ち切るように、リシが口を開いた。
―――ヒロシ、君は我々の支配に同調できない。たとえ表面的に同調できたとしても、心の奥底では我々に反発している。たとえどんな理由があろうとも、君は我々の裏切り者だ。君の処分を言うう前に、これを見たまえ―――
リシが顔を向けた方向のオレンジ色の壁がスクリーンとなる。その中に映し出されたのは、タローを初めとするオサム、キタ、ダンなど約30人近いリーダー達だった。アイもゲンジを抱いてそこに居た。
「何をするんだ」
「君の裏切りに加担した罪によって、消される」
リシの冷たい声が終わらぬうちに、タローの姿がスクリーンから消えた。次にオサムが消えていった。彼らの表情は恐怖にひきつっていた。
「やめてくれ」松池は叫んだ。彼らの逃げ惑う姿を、スクリーンのモニターは容赦なくとらえていた。
キタが消えた。細面のダンも、顔を引きつらせながら消えていった。
「アイ!」松池が叫び。
「君の声は、向こうには届かない」リシは松池の苦悩を楽しむかのように言った。
リーダー達の1人1人が、確実に消えていった。最後にアイと赤ん坊だけになった。
アイの顔は恐怖にひきつっていた。赤ん坊をしっかりと抱いていた。松池は動転していた。気が狂ったように叫び続けていた。
アイの腕から赤ん坊が消えた。アイは、空になった腕をみて、ヒステリックに叫んでいた。何を叫んでいるのか不明だった。涙を流しながら空を見上げていた。
アイが消える。その瞬間
・・・ヒロシ・・・愛の唇が動いた。
「アイ!」松池は叫んだ。
「なんてことをするんだ」松池は我を忘れてリシに飛びかかった。
「押さえろ!」リシの重々しい声に、いつ現れたのか、いかめしい軍服を着た2人の守衛が松池の腕を捕らえた。
「連れていけ」リシが命じる。
松池は力なく引きずられていった。彼の脳裏には死刑を宣告された時の情景が蘇った。壁を通り抜けると、見も知らぬ部屋に入れられた。
部屋は血を塗ったような鮮明な赤一色だった。その赤の中に・・・ヒロシ・・・アイの悲痛な表情が映し出された。
「アイ・・・」松池は床をたたいて叫んだ。気持ちが悪くなってきた。吐き気を催し、気が遠くなった行った。
新たな伝説の始まり
ヒロシがカミの世界に行って、6か月がたった。アイはゲンジを抱えながら、スクリーンの中でヒロシと会っていた。
「ヒロシ、いつ帰ってこれるの」アイが聞く。
「まだ無理だ。塔の秘密が解明できた。私は世界中のカミの世界に、塔を建設しなければならない。当分帰れないよ」
「ヒロシ、見て、ゲンジよ。こんなに大きくなったわ」
ヒロシはにこやかに笑いながら、スクリーンから消えた。
タローやオサム達リーダーは多忙を極めていた。銀色の、のっぺりとした窓のない超高層ビルの建設が、カミの命令によって始まっていた。1つのビルに千人が移住する。カミは将来の人口増加を見込んで、50棟の建設を計画していた。
世界中の人間社会では、その人口密度に応じて、銀色の超高層ビルの建設が始まっていた。人々は建設の労働に駆り出されていた。カミの小型のコンピュータが、ビルが完成するまでの間、設置されていた。
「新しい時代が始まった。これでよいのだ」タローはヒロシを思い浮かべながら感慨を漏らした。
オサムやキタ、ダン、ミツルなど若いリーダーたちが結婚した。全ての物資がカミから供給を受けていた。人々の表情には平和な安堵と満ち足りた安らぎがあった。
ある日の事だった。
タローやオサム、キタ達10数人のリーダー達は、仮小屋の中でアイを囲んでいた。
アイは熱心に話をしていた。
「タロー、よく聞いて、ヒロシは消されたのよ。スクリーンの中のヒロシはシュミレーションよ」
「どうして、そう言える」タローが尋ねる。
「妻の勘よ。ゲンジを見せても、ニコニコするだけで消えてしまうのよ。そんな馬鹿な話ってある。ヒロシは父親よ。ゲンジが可愛いはずよ。ゲンジ、元気かって、声をかけるのが当たり前でしょう」
「アイ、たとえヒロシが消されたとしても、今更どうにもならないよ」オサムが冷ややかに言った。
「違うわ。良く聴いて!佐布里池の海水は効果があったのよ。だからヒロシは消されたのよ。お願い、カミと戦いましょう」
「アイの気持ちは判るが、皆、平和を望んでいる。海水の効果があったとしても、もう後戻りはできないのだ。判ってくれ。アイ」タローが慰める様に言った。
アイは悔しそうに唇を噛んだ。「判ったわ、でもヒロシの事は忘れないで」
「ヒロシの事は忘れないさ。我々に希望の灯をともしてくれた」キタは端正な顔立ちを震わせていた。
―――我々はカミの力の前に屈服した。カミの歴史を我々の歴史として受け入れるのには抵抗があるが、反発すれば、それだけカミからの締め付けがあるだろう。
我々はカミの手足として共存していくしかないのだ。
だが、カミの真実の姿を見せてくれたヒロシの事は、決して忘れない。人間の尊厳として、我々の心の中にはヒロシが生きているんだ。カミの弱点は語り継いでいこう―――
キタは肩を震わせて泣いた。
アイは黙って仮小屋を出た。地下ホールの、自分に与えられたコンピュータ室に入った。
「コンピュータ、ヒロシに関する事項はすべて記録しておいて。カミの弱点も」
アイは自問する。
―――海水の効果はあったのだ。それと、人間の真実の歴史を、子孫に伝えていくべきだ。それが私の使命。ゲンジにも、ゲンジの子供やその子供達にも。私達人間がこの世界に生存する限り、伝えていく―――
アイはヒロシの残した記録をすべてコンピュータにインプットした。いつか、カミと戦う日が来るだろう。その時、ヒロシの考え方が必要になると確信していた。
「皆がヒロシを忘れないよう、新しい伝説を作るのが、私の役目」
アイはゲンジに口付けしながら、コンピュータと向き合っていた。
エピローグ
西の窓から海を見ていた。夕陽が伊勢湾を染めていた。鈴鹿の山に太陽が沈み込もうとしていた。眼下に見下ろす町の屋根やお寺の大きな屋根が、くっきりと生えていた。
港の堤防の中に漁船が帰っていた。大きな夕陽を見ていると、つるべ落としという表現がぴったりするほど、陽はぐんぐんと山の後ろに沈んでいった。いつ見ても飽きぬ光景だった。穏やかで暖かい風が吹き上げていた。
松池は、いつからこうしているのか、ふと我に還って思う事があった。いつからでもよい。今という平和の日々がいつまでも続いてくれればそれでよいのだ。
「あなた、お茶が入りましたよ。そちらにお持ちしましょうか」妻の佐代の声だ。
「こちらへもってきてくれ」
佐代は書斎に入ってきた。
「きれいな夕焼けね」佐代は眼を細めて海を見下ろした。
「ニヤー」白猫のタマが入ってきた。
「タマ、いらっしゃい」佐代はタマを抱き上げた。松池は妻の肩をしっかりと抱きしめて、夕焼けを見ていた。
「リシ様。ヒロシの脳波に乱れはありません。ヒロシは幸福な夢でも見ているんでしょうな」ロムは上目使いでリシを見て言った。
「夢ではない。過去の幸福なひと時に入り込んでいる。現実の世界としてな」
「しかし、タローやオサム、アイたちが次々と消えていく、あのシュミレーションは効果がありましたな」「惜しい人間だった」リシはスクリーンの中の、ベッドに横たわるヒロシを見て言った。
「バクテリアが無効化になった時は驚きましたな。私なんど、一瞬目の前が真っ暗になりましたからな」
「しかし、そのおかげで、3つのエネルギーの秘密が解明できた。その功績に免じて、死だけは免れさせた」
「ヒロシは、このままどうなるでしょうか」
「肉体の衰えは意外に早いだろう。早く死を迎える事になるだろう」
リシはしばらくの間、ヒロシの寝姿を見ていた。
「コンピュータ、ヒロシの記録をすべて抹消せよ。我々の歴史からもだ。ヒロシは初めから存在しなかったのだ」
「さようなら、ヒロシ・・・」リシはニヤーと鳴いた。その目に涙が光っていた。
スクリーンが消えた。
・・・塔の中のバクテリアに異変が生じようとしていた。約3か月の無効化の間、別種のバクテリアに変質していた。それがいま、増殖しようとしていた。猫のコンピュータのセンサーはまだそれを感知出来なかった。・・・
―――完―――
お願い―――この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は、現実の個人、団体、組織とは一切関係ありません。
なお、ここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり現実の地名の情景では有りません。