最強伝八郎備忘録
第一章 神君伊賀越え
拙者の名は長田伝八郎と申す。神君家康公の嫡男信康様に仕え、その後訳あって信康様は亡くなられたので、今は父上にお仕えしている次第で御座る。最初の主君が亡くなられた仔細は本来何を差し置いても語るべきところなれども、それを思い出すことがあまりにも辛う御座れば、ただ今は勘弁して下され。やがていつかは、それについて語る時もくるで御座ろう。ところで拙者が神君家康公に仕えるようになってから、ある時大変な目にあったので御座る。その時のことがあまりに頭に残っている故、備忘録の割には時系列は本来のものとは異なりまするが、まずはその大事件について語りたく存じる。
それは拙者が齢十九の若輩者の時で御座った。その時拙者は三河守(家康)様の近くに馬回り役として仕え、実質的には身辺警護の任についていたので御座る。当時拙者は、殿が拙者の身分を軽んじていることを逆に利用して、装束はおよそ武士とは言い難き格好をしており申した。服装は動きやすき事を優先した所謂忍者装束に近きものにて、鎧は常に身に付けず、鎖帷子さえしており申さなんだ。これは拙者が動体視力に絶対の自信があり、敵に攻撃されることよりも、己の身動きを遅くならないことを選んだ結果に御座る。忍者装束とは、まず全身に柿渋色の「変わり衣」と呼ばれる羽織りと筒袖の上着、下半身に身に付けたのは同色の野良袴をさらに動きやすく改造したもので、足には脚絆が巻いて御座った。ただ顔は、一種異様な出で立ちをして御座る。まず牛の皮を出来るだけ細長く取り、真中に鋼を張り付けて鉢金とし、通常通り額に巻いて後頭部で縛り申す。するとかなり長い余り革が二つ残るので、それを顔の方に一度戻し、鼻の上部で一度交差させてから再び後頭部に戻し、もう一度それを鼻の下に持ってきて、再び交差させて顎の下で交差させてから下唇の所で交差させ、また後頭部に持っていって縛るので御座った。何故この様な面倒な仕儀に至ったかと云うと、拙者生来の優男にて、それは武者を生業とする者にとっては引け目にこそなれ、敵に侮られて決して有利にはならないからで御座る。古の中国北斉の蘭陵王の如く恐ろしき仮面を被っても良いのですが、あれは虚仮威しにこそなりはすれ、動きが限られてしまって実戦には適さぬので御座る。そして普段は笠を頭に付けていたので御座った。
さて、拙者がこの格好であった天正十(一五八二)年六月二日のこと。京の本能寺にて総見公(織田信長)が明智日向守惟任光秀に討たれたので御座る。当時我ら神君一行は、堺見物も終わり、宿泊先の織田家祐筆にて能吏の松井友閑殿の屋敷を辞し、三河に帰る前に総見公への御礼言上のため安土に立ち寄るべく河内飯盛山辺りを移動していたので御座った。そこで同日未の刻(午前十時)、慌てふためいて早馬を飛ばしてくる者が御座る。一行が驚いてそれを見ると、早馬には不釣り合いの商人姿の茶屋四郎次郎殿であった。馬から飛び降りたかの方は、しばらくは息を切らして何も言えぬ様で、乗ってきた馬は泡を吹き、今にも倒れそうで御座る。
「三河守(徳川家康)様、大変です。本日未明、明智日向守謀反にて、京本能寺にて右大臣様(織田信長)が襲われました。現在右大臣様の生死は不明なれど、明智方は大挙して右大臣様の同盟者である三河守様を襲うことは必定。今すぐこの場を離れ、三河へ逃げねば、我らは全滅です。」
この茶屋四郎次郎と云う男、またの名を茶屋清延と申し、齢三七。商人ながら武芸の嗜みもあり、殿の京における情報収集の責任者的存在で御座る。三河者にしては珍しく目鼻が利き、若い頃わざわざ三河から京へ行って商売を始めた者で御座った。背中には、千両箱と思しき箱を縛りつけてあったのが、何とも奇妙で御座る。
「な、何明智が謀反。そして三郎(織田信長)様が行方不明だと。うーむ。」
そう言って殿は、黙り込んでしまわれたので御座った。この殿はこの時齢四十の男盛りであったが、幼少の砌からの苦労の連続だった所為か、物事を何でも時間を掛けて慎重に行うことを旨としていたので御座る。それを謀反人の日向守(明智光秀)も同じ筈で御座った。織田家でも珍しい常識人であったかの武将がこの様な仕儀に至ったことを聞き、殿は頭の中が混乱し、しかも即決即断で事を決しなければ、今後の命運が尽きることにもなり兼ねないことを思うと、余計どうしたら良いのか分からなくなってしまったので御座ろう。主君のこの様な、言い換えれば鈍重な様を見るにつけ、自分とは相性が悪いと改めて思い知らされるので御座った。主君は自分のことを嫌いなので御座る。我ながら明るく考え無しな自分が、三河武士達の重厚な家臣団の中で思いっ切り浮いていることは、言うまでも無かった。そんな自分を側近に加えたのは、信康様に拙者が仕えていた頃から、馬回り役としてこれ以上無い程の才能を見せて来たからで御座ろう。そして、自分が信康様のことで殿のことを恨みながら、決して裏切ることは無いだろうとも、殿は思われている筈だ。それでいて嫌いなので御座る。第一、拙者は良く笑う。武士は、特に三河武士は人前で歯を見せてはいけないのに、拙者は殿に見られているとは知らず、一度大口を開けて笑っている所を見られてしまったので御座る。その時の殿の軽蔑しきった顔。今でも忘れられぬ。
話を戻すと、この時いかに一大事と云えども拙者の他にも最も重要な徳川家臣が付き従っていたと言っても、こんな事態で果断な判断力が期待される本田正信殿は仔細あって徳川家を出奔されていたので御座った。殿の頭の中では、何ごとも如才無く物事を為遂げるかの日向守が、武装さえしていない平服の自分達を放っておく筈が無い、と云う判断だけが渦巻いていたのかもしれない。こうして何も言わない殿に業を煮やし、茶屋はさらに続けたので御座った。
「三河守様、もう一刻の猶予もなりません。私は京の店にある金子をありったけこの様に担いで参りました。途中噂を聞きつけた土民共が襲ってきたなら、これを与えて凌ぎましょうぞ。」
この茶屋と云う男、残念なことにそれ程面識は無かったが、頑固な三河者の中では、珍しく自分と気が合いそうな者で御座る。この時拙者、茶屋殿の話に続けて余程逃げ道を殿にお示ししたかったのだが、自分の様な身分の者が、話に割って入る等以ての外なので御座った。殿は何を言い出すか待っている家臣達に、とんでもないことを言い出したので御座る。
「爺(酒井忠次のこと)。」
「はっ、ここに控えておりまする。」
酒井忠次殿は、この場にいる家臣の中で最年長の五五歳。謀臣本田正信殿のいない今、的確な判断を下せる者として殿が最も信頼する者で御座った。忠次殿は、思慮深げでそれでいて三河武士らしい面構えをしていると云う相矛盾した顔立ちをして返事をしたので御座る。
しかし、自分の方が役立つと自負している石川数正殿はこの時横にいて、露骨に不満そうな顔をしていたで御座った。殿はそれに気付きながら、さらに忠次様への言葉を続けたので御座る。この数正殿、堅苦しい家臣団の中にあって、唯一拙者と気が合いそうな柔軟な頭脳の持ち主で、それを本人も自覚しているのか、盛んに拙者と親しくなろうと話し掛けてくるので御座る。しかしかの方の賢しさは、何か事があった時にこそ信用出来ぬもので、せっかくの誘いなれど、その将来に危うさを感じざるを得ず、今までつれない態度を保ってきたので御座った。
「もはやこれまでだ。日向守に抜かりはあるまい。わしの命運は尽きたようだ。ここから知恩院(浄土宗の総本山)に真っ直ぐ行き、三郎様に受けた恩に報いるため、詰腹を切ろうぞ。」
この言葉には、普段動じない徳川家臣団にもさすがにどよめきが起こったので御座る。しかし、そこはさすがに忠次殿、すぐに主君の意を酌み取ってこうお答えなさったので御座った。
「殿、なりませぬ。ここで終わってしまっては、苦労のし通しであった殿の半生はどうなるのです。この爺がお守り致します。この場を逃げられるか否か、やってみなければ分かりませぬ。」
すると、猛者揃いの家臣団一の豪傑と自他共に認める本田忠勝殿三四歳が口を開いたので御座る。何しろこの異相の御仁が口火を切らねば、井伊直政殿、榊原康政殿なども口を出すのを憚られる程の威圧感をかの方は持っておられたので御座った。
「そうですぞ、殿。日向守の手の者は元より、賞金首目当ての土民共が例え幾万迫ろうとも、この平八郎の蜻蛉切りの錆にしてくれましょうぞ。それに右大臣様の恩に報いると仰るなら、何としてでもこの場を切り抜けて本国に戻り、兵を挙げて日向めを討伐することに望みを託すことこそ、肝要かと思われまする。」
と忠勝殿は言い、平服にも拘らず何故か常に所持している豪槍『蜻蛉切り』を地面に押し立て、一度それで地面を勇ましく叩いたので御座る。
「そうですぞ。」
「そうですぞ。」
と、同じ四天王の井伊殿、榊原殿が相槌を打ち、殿もその言葉に、
「そうか、そうじゃの。これはわしの心得違いであった。」
と言い、期待通りに反論してくれた酒井忠次殿や本田忠勝殿の言葉に満足しながら、頷いていたので御座った。しかし当時若かった拙者に言わせれば、こうした芝居じみたやり取りが、この非常時に際して何とも無駄に思えて仕方無かったので御座る。しかし殿にしてみれば、緊急時に際して一同の結束を固めるのに重要な儀式なので御座った。こんなことを理解出来る様になった現在の拙者は、当時と比べいささか年を取ったと言えるのかもしれませぬ。待ち兼ねた石川教正殿も恐らく内心そう思いながら、こう言いだしたので御座った。
「そうと決まれば一刻の猶予もなりませぬ。今すぐにでもこの場を脱出し、三河に至らねばなりませぬ。私が考えます所、このまま京に入れば敵の思う壺。ここは服部半蔵を道案内にして、伊賀越えをして真っ直ぐに三河を目指しましょうぞ。出来るな、半蔵。」
と石川殿が服部半蔵様の方を振り返ると、半蔵様は即座にこう答えたので御座る。
「は、お任せ下さいませ。」
と半蔵様は言い、拙者の方を見やって、『抜かりないか』と云う目配せを致したので御座った。と云うのも、御曹司の半蔵様は拙者同様三河生まれで、伊賀のことなど禄に知っている訳では無く、たった今した返答は、皆拙者を当てにしての言葉なので御座る。拙者も三河生まれで御座ったが、修行は皆伊賀の山々で行っていて、どこに何があるのかは勿論のこと、どこに誰が居て、その誰とも知り合いであったので御座った。これは楽な展開に御座る。仮に三河の伝八郎の名を知る伊賀や甲賀者と遭ったら、その名を聞いただけで手出しをするのを諦めてくれることだろう。それにしても、今回も拙者の手柄は半蔵様一人のものとなるのか。それで良い。拙者は拙者の優れた技術を存分に駆使し、常人には為し難きを達成してしまうことに満足するのだ。半蔵様の確認は、そうした拙者の伊賀に対する立場を含めてのことだったので御座る。拙者が大きく頷くと、半蔵様は安心して話を続けられたのでした。半蔵正成様、この時四三歳。服部家は名家なれど、父親の代に伊賀を出奔された家なれば、これ以降の見通しは全て拙者頼みなので御座った。
「しかし、先導にはこの伝八郎めにお任せ下され。伝八郎、良いな。何か申し上げておくことがあるか。」
と半蔵様に振られたので、拙者は遠慮がちにこう申し上げたので御座る。
「はい、普段なら恐れ多くて申し上げ難き所なれど、緊急時と云うことでご容赦下さいませ。伊賀の道を行かれるのでしたら、伊賀や甲賀の者と遭遇する覚悟をしなければなりません。彼ら忍びの者には四郎次郎殿の金子は役に立ちませぬ。もし仮に金子が欲しくなれば、与えられ無くてもこちらを皆殺しにして全部奪えば良いからです。しかし御家来衆の皆皆様、たとえそれで武力衝突になりましょうとも、相手を打ち据えても命までは奪ってはなりませぬ。」
拙者の言葉に、半蔵様が代表して即座に疑問を呈して来たので御座った。
「何故、命を奪ってはならぬのじゃ。」
「はい、伊賀者は統一性が御座いませぬもので御座いますが、外から侵入してきた敵には一致団結して歯向かって参ります。しかも、我らが右大臣(信長)様と共に伊賀攻めをしたのもまだ記憶に新しい所。ここは右大臣様のことを逆手に取り、我らが伊賀者の味方になった、と云う印象を与えねばなりませぬ。それが例え身を守る為とは云え、伊賀の地で伊賀者の命を一人でも奪えばただでは済みませぬ。かと言ってこちらがまるで抗わぬのでは侮られ、全てを奪われてしまいます。話し合いをするにも、まずはこちらの力を見せてからでなくては乗ってきたりはしますまい。この所、皆様には重々承知の程を。」
見たことも口を聞いたこともなく、しかも小柄で不気味な覆面をした拙者の様な者にこう言われ、狐につままれた様な表情をしつつも、その言葉一つ一つに一同が頷かれたのも、この非常時に際し、一歩判断が間違えば全滅することを良く承知していたからで御座る。それと同時に、拙者の話の筋が通っていたからなのかもしれませぬ。とにかく後は出発するだけとなった時、客将の穴山梅雪殿が口を挟まれたので御座る。
「三河守殿、お待ち下され。」
梅雪殿この時四一歳。主家武田家を裏切って徳川に投降。武田本家滅亡の直接の原因を作ったとも揶揄される。どことなく殿と面立ちも似ていたが、殿が筋肉による固太りであるのに対し、かの者は贅肉による水膨れで御座った。
「梅雪殿、緊急時故、手短にお頼み申す。」
「拙者今考えたのですが、この様な大勢で逃げ回るのは非効率で御座る。ここは我らと二手に分かれるのが宜しかろうかと存ずるが、いかに。」
この言葉を聞き、殿のみならず回りの者は皆、梅雪殿が殿と一緒にいては危ないと判断してこの様なことを言い出したのは明らかと思ったので御座る。殿の寵童で整った顔をしているのに似合わず気の短い井伊殿二一歳は、刀の柄に手を掛け、今にも斬りかからんとしていたので御座った。横にいた榊原殿三四歳が、それを必死に止められたのであった。もちろん、梅雪殿御家来衆十一名もにわかに殺気立ち、双方の睨み合いがしばらく続いたので御座る。その様子を見ていた殿は、大きくため息を一つつくと、諦めたようにこう言ったで御座る。
「こんな所で同士討ちをしている暇など無かろう。梅雪殿、そなたはいかにもわしの譜代では御座らん。運命を共にする必要など御座るまい。どこへなりとも、行ってお仕舞い下され。」
殿にそう言われると、梅雪殿は回りの険悪な雰囲気を気にしながら、御家来衆と共に、殿に一礼してそそくさとその場を立ち去ったので御座った。ただ梅雪殿一行は、我らの少し後方に下がっただけで、途中まで同道しようと云う図々しい腹の様で御座る。
邪魔者がずっと後方に下がり、一行は態勢を整えていよいよ伊賀路を進むこととなった。先導には拙者と共に茶屋四郎次郎殿が務め、その後ろには、服部半蔵殿と、これまで道案内役を務めていた織田家の若侍長谷川藤五郎(秀一)が続いたので御座る。この時、藤五郎殿がさらに殿にこう言い出したので御座った。
「殿、出発前に申し上げたき儀が御座います。」
「何か、長谷川殿。」
長谷川殿は、行方知れずになる前の信長殿が、堺見物をする殿の為につけた案内役で、信長殿のお小姓として伽の相手もした人物で御座る。ただそれだけの人物では無く、伊賀近辺の土豪達と親しい忍びとしての顔も持ち合わせていたので御座った。
「先程から拙者思案していたのですが、穴山殿がおられて口に出し兼ねておりました。かの方が離れて並ばれている今こそ、申し上げる時が来たかと思われます。」
「ほう、それは何じゃ。」
と、藁をも掴みたい思いの殿は、身を乗り出して長谷川殿の言葉を促したので御座る。
「はい、拙者これより三河守様一行に先行して、大和の国人十市玄蕃殿や宇治田原の山口城城主山口甚介秀康殿、呉服社別当服部美濃守貞信殿の所へ赴き、御助勢下さるよう頼んで参ります。もっと早く申し述べたかったのですが、穴山殿が明智勢に捕らわれれば、こちらの行く先が知れてしまいますし、先方にも迷惑が掛かります故、これまで黙っておりました。お許し下さい。また、それにつきまして、茶屋殿の乗ってきた馬をお借りさせて頂きたい。」
殿は長谷川殿の意外な人脈の広さに驚き、この拙者同様役者の如き色男の顔に見入ってしまったので御座った。拙者も、ただ口を利いただけの自分よりもかの方達を良く知っている方がいて、誠に心強い限りだったので御座る。
「そうか、そうしてくれれば心強い。そちがそれ程顔の広き者とは思わなんだ。お願い致す。」
「それから貞信殿は半蔵殿の縁者故、半蔵殿からの書状も頂けると、心強いので御座るが…。」
「心得た。」
半蔵殿は懐紙を取り出し、さらさらと長谷川殿の紹介状をしたためると、それをかの方に手渡したのでした。
「なに分よろしく頼む。」
「心得た。しからば御免。」
と長谷川殿は言うが速いか、茶屋殿の乗ってきた馬をお借りして、一行を置いてあっという間に道を先に駆けていってしまったので御座る。一行は改めて動き出し、徳川四天王の酒井忠次殿、本田忠勝殿、榊原康政殿、井伊直政殿と大久保忠佐殿四五歳が殿の回りを固めていたので御座った。その他徳川主従総勢三五名の運命共同体で御座る。ただ少し気になることと言えば、本来なら殿のお側近くにいなければならない筈の石川数正殿が、殿から少し離れた所を歩いていたことであったかもしれない。その心根は、道を別った穴山梅雪殿と余り変わら無いものだったのかもしれなかったので御座る。
とにかく一行は飯盛山西麓を発ち、山城国宇治田原の山口城を目指すことになったので御座った。一行が普賢寺谷に差し掛かった時、尊大な穴山殿の家臣の一人は、穴山殿一行の道案内を買って出てくれた土民の者が、身分不相応に持っていた銀製の鍔に目が眩み、難癖を付けて切り殺してしまったので御座る。土民の仲間は慌てて逃げてしまい、足の速いかの者は、あっと言う間に追うことも出来ぬまま見えなくなってしまったので御座った。しかしこのことが、結局穴山殿の命運は尽きさせてしまったので御座る。まもなく木津川の草内渡しの辺りに差し掛かると、長谷川殿の知らせで駆けつけてくれた山口城家臣新主膳正末景と市野辺出雲守ら六、七十人が来たお陰で我ら主従は無事城まで行けたのだが、穴山殿はそうは行かなかった。恨みを持った土民が仲間をかき集め、この辺りで待ち構えていたので御座る。彼らはこの時点で穴山殿を殿と勘違いし、これを襲えばかの方の所持している金品や明智方からの報奨金は思いのままだと触れて回り、仲間を大勢集めて来たので御座った。よって穴山主従十二名も一角の武士ではあったが、我ら一行をやり過ごした後に続く彼らを、圧倒的な数の土民によってあえなく袋叩きになってしまうので御座る。
この話は後々聞いた話なのでそうとも知らぬ我らは、山口甚介殿の居る山口城へと入ったので御座った。山口殿は甲賀五三家多羅尾光俊殿の六男にて、元々信長殿に与力していたとは言え、このような事態になったからには、情勢はどちらに転ぶかは分からなかったので御座る。にも拘わらず、有り難いことに山口殿は助勢して下さり、その結果、伊賀に隣接する甲賀の大立者にして山口殿の実父多羅尾殿の合力も確約され、一同に一縷の望みが見えて来たので御座った。
拙者は小者故、殿と御家来衆とは別に厩で食事をしていると、殿達への饗応の合間に山口甚介殿自らが、こっそりこちらを尋ねて来られたので御座る。甚介殿は壮年で、いかにも鍛え上げられた方で、低い魅力的な声でこう仰られたので御座った。
「お主、もしかしたら、三河の伝八郎ではないか。」
と城主様より突然尋ねられ、拙者は驚いて平伏しながらこう答えたので御座る。
「はい、お殿様(山口甚介)、お久しゅう御座います。」
それを聞いた城主様は、満面の笑みを浮かべてさらに続けられたので御座った。
「おう、やはりそうであったか、三河守様の所を抜けてまで来た甲斐があったわい。伝説の伊賀甲賀最強の男伝八郎とこうして再会出来たとは、望外の喜びじゃ。そうだ、お主の殿は今お困りなのじゃろう。父上にも言って、昔お前に叩きのめされた連中に皆声を掛けさせよう。あの伝八郎が伊賀に帰って来て、難儀をし、合力を求めておるとな。さすれば、間もなく伊賀甲賀中の強者どもが集結しよう。」
「はっ、そう言って頂くと、殿も助かるかと思います。しかし…。」
「しかし、何じゃ。」
「はい、伊賀者、甲賀者がもしも集結するようなことがあらば、皆服部半蔵様の手柄にしてもらえませぬか。」
「む、何故じゃ。あんな出奔した一族の為に働く者等、ここには誰もおらぬぞ。皆、主と主の父上に恩義を感じればこそ、集ってくるのじゃ。」
「いえ、実は拙者は殿に余り良く思われていないのです。これが殿の腹心の半蔵様の手柄ならば喜びましょうが、若輩者の拙者の力とあっては、妖しげな奴とかえって警戒されるだけでありましょう。それに半蔵殿が殿に評価されれば、拙者も良き思いが出来るので御座る。集まってくれた者達には、後で父から良く礼を言っておきます故、何分よしなに願い奉ります。」
「ふーむ。分かった。色々複雑なのじゃな。主の言う通りに致そう。その代わり…。」
と言って、城主は一度言葉を切り、何を言い出すか待っている拙者の顔をまじまじと見ながら、こう言ったので御座る。
「服部殿を通じて三河守様に良くお願いして欲しいのじゃ。信長公に弾圧された伊賀者や日向守の謀反で織田家が凋落し、主を失うかもしれん我ら甲賀者を、どうか三河守様のお力で引き立てて欲しいとな。さすれば、我ら忍びの者は、必ずや三河守様に天下を取って頂けるように働かせてもらうであろう。良いか。」
「はっ、確かに。」
御城主様は、そう言うだけのことを言ってしまうと、また殿達の所へ帰っていき、それに代わって服部半蔵殿がすれ違いに入って来られたので御座った。
「伝八郎、話は聞かせて貰ったぞ。」
「はっ恐れ入ります。」
「山口殿にも今礼を述べておいた。伝八郎の心遣い、拙者も感心するばかりじゃ。」
「は、恐れ入ります。つきましてはこの狼煙の元をお持ち下さい。」
「む、これは何じゃ。」
「はい、半蔵様あるいは拙者の判断でここぞと云う時にこの狼煙を炊けば、先程御城主様と約された伊賀者、甲賀者が集結致しましょう。」
「そうか、分かった。伝八郎、恩に着るぞ。」
こうして我ら一行は、山口甚介殿から厚い饗応を受けて休息した後、宇治田原の山口城を発って、甚介殿の父親の信楽の多羅尾光俊の元へ向かったので御座る。一行は茶畑に囲まれた山道を行き、山口城から道案内に付けてくれた永谷永広殿が、遍照院へと導いてくれたので御座った。一行はここで休息し、昼餉をここで取ったので御座る。すると我らが昼餉を取っている所へ、山口甚介殿から連絡を受けた上の兄上の山口久右衛門光太殿や下の兄の久八郎光久様達が、手勢を率いて加勢に来られたので御座った。さらに一行が出発して御斎峠に差し掛かると、瀬田の山岡美作守景隆、対馬守景佐兄弟も駆け付け、一行はかなり大所帯になり、引き続き信楽を目指して移動したの御座る。山岡兄弟は、既に日向守(明智光秀)に与するよう勧誘されていたのであったが、逆に瀬田橋を焼き払って明智軍の進路を阻んだ上、ここまで逃走してきたので御座った。この山岡殿こそ、幕末の山岡鉄舟殿の遠い御先祖で御座る。
夜になって、ようやく甚介殿の父上多羅尾光俊殿六九歳の居城、小川城に到着し申した。しかし用心深い殿は、あまりに話がうま過ぎるとか仰ってここに来てまだ光俊殿を疑い、城の向かいの山に腰を降ろしてしまって、なかなか動こうとされなくなってしまったの御座る。困り果てた光太殿や光久殿に拙者が耳打ちし、多羅尾光俊殿ご自身が息子達に名物の茶や干し柿を持って殿を饗応すると共に、近隣の村人総出で炊いた赤飯を持ってくると、さすがの殿の猜疑心を解かれたので御座った。そして余りの空腹に、用意された箸も取らず手掴みでその赤飯を頬張られてしまったので御座る。そして呆れ顔でそれを見ている家臣団に対して恥じ、こう大声で怒鳴られたので御座った。
「お前ら何をしている。遠慮はいらぬ。腹が減っては戦は出来ぬぞ。さぁさ、皆わしの様に箸を使わず手掴みでいけ、手掴みで。」
殿にそう言われ、まず本多平八郎殿が泥だらけの手で赤飯を鷲掴みにし、思いっ切り口に頬張ったので御座る。それを見た他のお歴々も手掴みで赤飯を頬張り始め申した。もちろん拙者も、赤飯を手掴みで頬張ったので御座る。その後一行は小川城に入り、旅の疲れを十分に癒したので御座った。
小川城に一行は一泊し、殿は城を発つ前に城主の多羅尾光俊翁に案内されて、拙者一人を共に城の片隅に案内されたので御座る。殿はそこにある小さな社を見付け、
「これは何を祀っているので御座るか。」
と城主にお聞きになったので御座った。光俊翁はすかさずこう答えたので御座る。
「これは愛宕大権現にて、御神体は将軍地蔵で御座います。」
殿は拙者を連れてその社の前に行き、恭しく一礼して、これまで無事であった御礼とこれからの道中の無事を祈ったので御座った。これを見た光俊翁は、こう言ったので御座る。
「これも何かのご縁でしょう。殿の尊顔には近々天下を治められる相が出ています。どうぞ我らの信仰する御神体を信仰し、千年の間蔑まれし我らの光となり給え。」
自分達が蔑まれてきた等と云う意識の無かった拙者は、光俊翁のこの言葉に驚かされていると、拙者が見ている前でその社に有った御神体を取り出し、殿に差し出したので御座った。
「これは有り難い。思うにこれはわしがこの乱世を勝ち抜き、源氏長者となって征夷大将軍となることを暗示したものであろう。わしが生きて三河に帰れたら、この御神体を必ず祀る故、御老人、御安心召されよ。」
殿としたら、お世話になった光俊翁に対する軽い世辞を含めたものであったかもしれぬ。ただ、この時の殿の言葉がやがて現実のものとなり、妖怪変化の如き長命であった光俊翁が、その姿を目の当たりにしようとは、神ならぬお二人には知れぬことだったでありましょう。
この時甲賀の和田八郎定教様も馳せ参じ、一行は多羅尾父子も含めて御斎峠へと向かったので御座る。この御斎峠では服部半蔵様が先行し、峠の見晴らしの良い所で件の狼煙を上げると、かつて拙者に痛い目に有った伊賀甲賀の強者達がどこからともなく集まり、一行が峠を越える頃には、三百名の忍びが道の両脇に出迎え申した。服部様の後ろには拙者がいたので、伊賀甲賀の者達は、服部殿に礼をしていたかのようで、実は拙者に目配せしていたので御座る。しかし殿には服部様が伊賀や甲賀でいかに顔が広いかと思い知らされたらしく、感心しきりだったので御座った。さすがの服部様もこれには得意満面で、殿が気が付かない様にそっと拙者にこう言ったので御座る。
「伝八郎、忝い。拙者はこれまでこれ程晴れがましき事は無かったぞ。礼を申す。」
「いえ服部様。殿がお喜びになって、とても良う御座いました。」
若い拙者も頬が思わず昂揚し、自分のことを忘れないでいてくれた昔の友達に感謝し申した。
御斎峠を越えた一行は、音羽郷に入ったので御座る。その時突然、音羽の村の郷士石原源太と云う者が襲ってき申した。これまで穴山殿一行に対する者以外は平穏無事であったが、とうとう来るべき時がやってきたので御座る。最初に拙者が殺生を咎めていたのだが、いきなり切り掛かってきた彼を、思わず近習の一人磯野吉兵衛が斬り捨ててしまっい申した。彼の仲間の武装した百姓達は、案の定いきり立ったので御座る。たちまち大乱戦となってしまい申した。拙者はなおもこう叫んだので御座る。
「各々方、やがては殿の民となる者達で御座るぞ。打ち据えても殺生はなさるな。」
と言って、拙者は素手で百姓共を殴りつけており申した。しかし相手は、鋤や鍬で武装した一揆の者共、拙者以外は皆、素手では無く刀背打ちにするのが精一杯で御座る。数はほぼ五分五分で、一揆勢もまさかこんなに我らが多いとは思っていなかった様子で御座った。相手の攻撃を全て交わしながら、一揆の男達を気絶させ続けていると、家康殿の御家来衆の一人阿部正勝殿四一歳が、あわや一揆の者達の鋤の餌食にならんとしていたので御座る。拙者素早く回りにあった石を数個投げつけ、襲っていた者達を気絶させ申した。危うい所を救い、拙者はこう言ったので御座る。
「阿部殿、お怪我は御座らんか。」
「いや大丈夫で御座る。それにしても、皆お主が殺してはならぬと申す故、苦労しておるぞ。わしのことは良いから、他の者を助けに参ってくれ。」
「畏まって御座る。それでは御免。」
拙者気付きませなんだが、後々聞いた所によりますれば阿部殿は密かにこの時、こう思っていたそうなので御座った。
『何と頼もしい若者だろう。うちの婿に是非とも欲しいものだ。』
自らこんな風に述べるのも、いささか面映ゆいこととは存ずる。
さて拙者が見渡すと、成程本多平八郎殿なども、得意の蜻蛉切りを逆に持って苦労されてい申した。ただ使者になって先行していた長谷川藤五郎殿も駆け付け、徳川四天王や多羅尾父子、山岡兄弟らの活躍で、立っている一揆の者はみるみる減って行ったので御座る。藤五郎殿はその場の雰囲気に合わせて素手で戦いながら、拙者に近寄って来申した。
「長谷川殿、御使者御苦労で御座った。お陰で随分助かり申した。」
「何の、道々聞いたぞ。お主もここらでは随分顔が利くそうではないか。それにその闘いっぷり。主とは敵味方になりたくないものだの。」
「はっ、私も長谷川殿と戦いたくはありませぬな。拙者ら、どことのう馬が合いそうで御座るな。」
「そうか、お主もそう思っていたのか。この戦が終わったら、義兄弟の契りを交わそうぞ。」
「心得た。」
運命の皮肉か、この後すぐ拙者と藤五郎殿とは敵味方となってしまったので御座る。
徳川の御家来衆も猛者揃い、それに忍びの錚々たる者共が相手とあっては一揆衆に勝ち目は無く、大乱戦もようやくこちらの勝ちが見え、彼らは這う這うの体で逃げたし申した。
その後一行は音羽郷を経て柘植の徳永寺で休息した後、伊勢に至るべく加太峠に差し掛かったので御座る。ここは山賊の屯するこの旅一番の難所であったが、この時さらに当地の柘植三之丞清広父子が二、三百人を引き連れて現れ、さらに甲賀武士の武島大炊助、美濃部清州之助ら百名も加えられ、山賊共も恐れをなし、何ごとも無く最大の難所を切り抜けられたかと思われ申した。そう思われた矢先、先頭を行く拙者の耳元に、敵の矢が飛んできて突き刺さったので御座る。山賊共は、一揆衆の失敗を繰り返さぬよう周辺の者達を総動員して襲ってき申した。今度もまた拙者は、周囲に殺生を禁じながら暴れまくったので御座る。拙者が得物を何も持たずに、今度は槍や刀を手にする敵を全て一撃で気絶させていくのを見て、敵も味方も驚嘆せざるを得なかったようで御座った。乱戦のさ中、矢や鉄砲玉も飛んで来たのだったが、拙者はそれを予想していた様に避けると、すぐさまそれを放った者の元へ行き、討ち取っていったので御座る。これは天性の才能らしく、拙者は飛んでくる物全てがゆっくりと見え申した。また今度の敵は先程の一揆衆より五倍程多かったが、御家来衆と与力衆一丸となって戦い、二、三百人も気絶させると、機を見るに敏な賊共は、勝ち目が無いと見てさっさっと逃げ出してしまったので御座る。
一行は闘いながら山中をひた走り、ついに難所を越えて関木崎の瑞光寺へと至り、しばしの休息の後、ゴールとも云うべき白子浜へと雨の中向かい申した。一行は与力してくれた伊賀甲賀の衆に別れを告げ、ここから船路で幸い晴れ渡った日の元、穏やかな伊勢湾を通して三河を目指したので御座る。
六月四日、常滑の常楽寺を経て、ようやく三河大浜に辿り着き申した。拙者達を小舟に乗って出迎えてくれたのは、この辺りの羽城主にして何と我が実の父長田重元とその弟重吉で御座る。因みにこの時兄尚勝は父重元が新たに築いた東端城主を務め、この場には来れ無かったので御座った。拙者は思わず小舟に向かって、こう叫んだので御座る。
「父上、叔父上、出迎え祝着至極に御座る。」
「おぉ、伝八郎。良くぞ無事で有ったな。だがここまで来ればもう安心じゃ。わっはは。」
父上と叔父上はこちらの大船に乗り込み、殿に出迎えの挨拶を済ませ申した。そして小舟に殿とその近習達が先に乗り込み、岸へと向かったので御座る。我らは大船で順番を待っていると、いつのまにやら近寄っていた阿部正勝殿が、こう仰ったので御座った。
「伝八郎、父上と叔父上に紹介してくれぬか。」
「これは阿部様、気が付きませんで失礼致しました。父上、叔父上、こちらはこの度の旅で知り合いました阿部正勝殿で御座る。」
父上と叔父上は初対面にも拘らず、満面の笑みを浮かべながらこう言ったので御座る。
「これは阿部殿と申されるか。拙者、羽城主を務める長田重元と申す。こちらは弟の重吉じゃ。いつも倅が世話になっており申す。」
「いえ、こちらこそ倅殿には道中命を救われ、感謝しているので御座る。ついては一つ、願い事があるのじゃが…。」
「ほう、何で御座ろう。」
「そなたの倅伝八郎殿に、わしの娘の笑美を貰って欲しいのじゃ。」
この阿部殿の突然の言葉には、さすがの我らも驚いたので御座る。
「は、いきなりで御座るか。そう言うの、拙者大好きで御座るぞ。しかし、拙の家と阿部殿とは家風が合うか案じられるのお。御覧の通り、我が家は年中笑いが絶えん家でのう。阿部殿の様に厳格な雰囲気に欠けるので御座る。倅がそれで家風に合わず、殿にも疎まれ、孤立しているのを御存知で御座ろう。」
と父上が言うと、阿部殿はひどく言い辛そうにこう答えので御座った。
「それがのう。実に言い難いことなのだが、笑美には、娘にはいささか難があってのう。それを承知で貰って欲しいのじゃ。三河広し言えども笑美を貰ってくれるのは、伝八郎殿しか見当たらん。」
「ほう、難とは何で御座ろうか。いや、これは洒落では御座らんぞ。」
「わしは笑美を三河の武家の家風に合うよう厳格に育て上げた筈じゃったのだが、やはり明るい母の血を受け継いでしまったのか、付けた名前の所為なのか分からぬが、一日中笑い転げている様な娘なのじゃ。わしがそれを真面目に怒れば怒るほど、笑い出す始末で。この正勝、お願いで御座る。どうか、我が娘を貰って下され。三河広しと云えども、こんな笑美を可愛がってくれるのは、伝八郎殿しか思いつかぬのじゃ。お頼み申す。」
長田家の三人は顔を見合わし、まず父がこう答えのである。
「そう云う話じゃが、肝心の伝八郎はどうなのじゃ。あっ、阿部殿御気に召さるな。我が家では、何事も家長の判断では無く、本人の意思が尊重されましてな。で、どうなのじゃ。うひひ。」
と、父がからかい半分に言い、拙者実は父には黙っておりましたが、心に思う女人が有り、こう答え申した。
「阿部殿の御言葉は有り難き事なれど、これから徳川家は明智との決戦を控えておりまする。その後は天下は綿の如く乱れ、合戦は激化致しましょう。拙者の命もどうなるか、分かったものではありませぬ。どうか、このお話、この事態が一段落するまで待って下されぬでしょうか。拙者、そうなったら、必ずや阿部殿の所に笑美殿を貰い受けに行くことを約束致す。」
「そうか、それでは決まりじゃの。わっははは。阿部殿、お聞きの通りじゃ。今夜は殿の御無事を祝う会と、倅とそこもとの娘との縁談が決まった内祝いじゃ。飲み明かしましょうぞ。」
と父が言い出したので、拙者は慌ててこう釘を刺そうとしたので御座る。
「だから父上、拙者今しばし待たれよと…。」
「そうで御座るな。早速殿にも報告して、皆で祝ってもらいましょうぞ。やれやれやっと拙者も肩の荷が降り申した。何しろあの明るい娘が、どこに嫁ごうと徳川の堅苦しい家風になじめぬのではないかと、妻と共にずっと悩んでおりましたれば。いや、目出度い。」
と、阿部殿は拙者の言葉等まるで聞いて無いようで御座った。また、この場の浮かれ気分と関係無く、事態は風雲急を告げていたので御座る。
第二章 生い立ち
言い遅れましたが、拙者生まれはあの桶狭間の乱の三年後の永禄六(一五六三)年三河国碧海郡大浜郷で、羽城主の父長田重元の次男として生まれ育ったので御座る。父重元は、徳川と同盟関係にあった土豪であったが、有体に言えば、ここ三河大浜で主家水野家の命で水軍(海賊)家業を営んでおり申した。おっと違った、自由貿易海運業でしたな。強制護衛も兼ねており申した。拙者が物心付くと、兄尚勝と共に父は忍びとしての鍛錬をする一方、その合間に鼓の打ち手であった父の弟重吉は、今後身分の高い所に奉公にあがるかもしれないと、幼い頃から端正な顔立ちを存分に活かすべく、拙者にみっちりと鼓と舞いの技を伝授したので御座る。この時近隣の寺津城主大河内秀綱殿の息女由利殿も来ていて、共に鼓と舞いの稽古をし申した。ところが由利殿は男勝りで、鼓や舞いよりも拙者ら兄弟のやる忍者修行に関心を示し、共に修行を始めると、拙者と同等な、いやそれ以上の天賦の才を見せたので御座る。言葉遣いも段々と男の様になり、こんな風な口を利き申した。
「おい、今度お前、忍者修行の為に尾張に行くんだってな。俺も一緒に連れていかんか。」
由利の格好は田舎豪族とは言え、とても姫様には見えず、まるで拙者と双子の様で御座る。
「それゃ駄目だよ、姫様。おいらが良くても、父上の秀綱様に誘拐だって言われて、羽城と東端城の戦になっちまう。」
「でも、修行に行っても俺のことを忘れるんじゃないぞ。それに、三河に帰って来て、もう一度忍者修行に行くようなことがあったら、その時は必ず連れていくんだぞ。その時までに、父上とおじ様(伝八郎の父重元のこと)は戦にならない様に俺が説得しておくから。分かったな。」
こうして拙者は由利殿を置いて一人、最初の忍びの師匠として、加藤段蔵と申す青い目の忍びの下に付き申した。何でも段蔵殿は、若い頃伊賀を抜け出して流れ忍びとなり、現在織田様の為に武田家を調べている最中と云うことで御座る。そこで拙者も師匠と共に武田家に向かうこととなり申した。師匠は変わり者で拗ね者で有名で御座ったが、拙者とはひどく気が合い、何でも手取り足取り教えてくれたので御座る。ある日師匠は、歩きながら拙者にこんなことを語り申した。師匠はかなりの年寄りな筈なのだが、余りに矍鑠としていて、年齢不詳と言った方が正確で御座る。
「良いか、伝八郎。お主刀と槍ではどちらが得物として有利だと思う。」
「師匠、何か考えがあってその様な当り前のことを尋ねるのですね。宜しいでしょう。何を教えたいのか早く聞きとう御座いますから、師匠の期待通りの返事を致しましょう。そんなものは槍に決まっております。で、何が言いたいのです?」
師匠は心の中を見透かされ、嫌な顔をしながらこう答え申した。
「相変わらず可愛げのない餓鬼じゃの。良いか、お主の言ったのは侍どもの兵法に過ぎぬ。」
「ほう、忍びでは違うと。」
「そうじゃ。侍どもの勝負は、例え合戦や果し合い等の殺し合いにおいても、必ずと言って良いほど暗黙の了解がある。忍びにはそれが無い。それがどういう意味が分かるか。」
「どういう意味なのです。」
拙者はまた師匠が突拍子も無いことを教えてくれるのだと期待して、わくわくしながら聞き返したので御座る。
「刀と槍で槍が優れているのは、両者が同じ条件で立合っているからに過ぎん。分かりやすく言えば、懐に飛び込んでしまえば、刀の方が有利になる。」
「成程。では得物の有利不利は、その場の状況によると云うわけで御座いますね。」
「お主は呑み込みが早くて教えやすいのう。そうじゃ。実戦においては、その時自分が持っていたものが得物であり、その時相手が何を持っていようと文句は言えんのじゃ。文句を言う前に、どうすれば自分の得物が有利となる状況になるか、咄嗟に判断してその為の行動をいち早く取らねばならぬ。」
「しかし、どう考えても有利不利を覆す方法が思いつかぬ時はどうされます。」
「その時は簡単じゃ。逃げれば良い。」
「は?」
「忍びは侍どもと違って、逃げるのは恥とはせぬ。その点信長公は侍の癖に実に見事な逃げっぷりであった。金ヶ崎の退き口は実に見事。良いか、伝八郎、忍びの第一は生きることじゃ。任務にしくじれば、忍びは自害するべきとは教えられるが、わしはそれが嫌で渡り忍びの道を選んだのじゃ。」
「はい。」
しかしある夜、旅の途中で野宿した時、子供心にも師匠があまりに優しいのを怪しみ、その理由を問い正したことがあり申した。それは満月の夜、月明かりが眩しくて、なかなか寝付けない夜のこと。寝付けないのは、山道で野宿となってしまってからでも御座った。
「師匠。」
「何じゃ。まだ起きていたのか。明日も早いぞ。寝るのも忍びの修行の内じゃ。」
「拙者失礼を承知で師匠にどうしても尋ねたきことがあるので御座る。」
「何じゃ。手短に話せよ。」
「はい、拙者は師匠に弟子入りする前、色々と師匠の噂を聞きました。聞くところによると、師匠は偏屈で人嫌いで、友の一人も、弟子の一人もおらぬと。拙者もどうせ弟子にしてくれはすまいと。ところがどうで御座る。弟子入りを断られるどころか、師匠は忙しい織田殿からの依頼をする間も、拙者を弟子にしてその奥義を惜し気も無く伝授して下さる。一体どう云う心境の変化なので御座るか。」
師匠はそれを聞き、しばらく美しい月を眺めて御座る。寝てしまわれたのかと拙者が疑り出した頃、かの方は再び口を開き申した。
「わしもこの年になると、自分の生き様が嫌になってきたのじゃ。わしは生き残る為に組織を抜け、その為に禄な事をなしてはおらん。自他共に認める最強の忍びのわしがじゃよ。わしの最強の技は宝の持ち腐れと云う訳じゃ。伝八郎、主にはわし以上の天賦の才がある。わしが極めてきたことも、お主は短期間に身に付けられよう。だがお主は、わしの授けた技を、わしの様に埋もれさせてはならん。何でも良い。その技で天下が驚くような大事をなすのだ。何も出来ずに死んでいくわしの代わりにな。わしの一族には星読みの技術もあってな。この技術も勿論そなたに授ける積りじゃが…。それによると、わしの天命はもはや尽きかけておるのが分かるのじゃ。別に身体の調子が悪いわけでもないのにな。後は何時天に呼ばれても良いように、わしの極めてきた技を受け継ぐべき者に伝えるだけじゃ。わしはその者に、お前がなることを期待しておる。」
師匠がそう語り終わるのと同時に、拙者は催眠術の様に深い眠りへと誘われてしまったので御座る。
その後拙者は、道中師匠から様々な体術の鍛錬法を始め、占星術や本草学、催眠術などの幻術を伝授して頂き、大変役立ち申した。しかし、武田に潜入した師匠が間者であることが露見し、武田家一の豪傑馬場信春殿に、便所で用足し中に討ち取られてしまったので御座る。拙者は師匠が討ち取られながら、そこから逃げるのが精一杯であり申した。
故郷三河に戻ってきた拙者でしたが、織田家と同盟した徳川に帰属した水野家に仕える長田家は、この先どうなってしまうのかも分からなかったので御座る。それでこの時たまたま織田家に売り込みに来ていた果心居士と云う伊賀忍に師事し、伊賀の里へ再び武者修行に向かったので御座った。しかしこの時、以前からの約束通り、大河内秀綱殿の息女由利殿を連れていくことになってしまったので御座る。
「まったく男装しているとは言え、気の荒い伊賀者や甲賀武士の中に女子一人で入って、何をされても知らんぞ。」
「大丈夫。その時はお前が俺を守ってくれるんじゃろ。」
「それにしてもお前、もう年頃なのに、胸がまるで無いのう。まっ、その方が忍び共に疑われ無くて済むが…。」
「うるさい。さらしで固めてあるのでそう見えるだけじゃ。」
果心居士殿は前の師匠同様離れ忍びで、他の忍びとの交渉は殆ど御座りませなんだが、拙者が他の忍びと交流を持つことは推奨され申した。その理由を尋ねると、師匠はにこりともせずにこう言ったので御座る。
「若い頃は出来るだけ多くの相手と技を競い合うのが、何よりの鍛錬となる。主は生まれ付き動体視力が並外れている故、それを制御することを心掛けながら他の忍びと競い合うのじゃ。分かったな。わしはもう年故、体術はお前に教えようも無い。それに体術に関しては、既に加藤段蔵殿に基礎を仕込まれている故、教えることはもはや何もあるまい。よって後は段蔵殿の教えを元に、出来るだけ多くの者と忍びの技を競い合えば良いのじゃ。」
そこで拙者は由利殿を伴って、近隣の猛者どもと様々な勝負しに行くこととなり申した。勝負の方法は矢や手裏剣の命中率から、素手による勝負や木剣や腕相撲、幻術など様々なものであったが、伊賀は元より隣の甲賀の里から来た忍び達も、一人として拙者の敵う者は無かったので御座る。最初は噂を聞きつけて敵意丸出しで次から次へと挑んできたのだが、やがてどんな競技で誰が挑もうとも敵わぬと、負けん気の強い伊賀者や甲賀武士達の間で、いつしか無敵の三河の伝八郎伝説が語り継がれるようになったので御座った。また勝負に勝つ度に、由利が手を叩いて喜び、
「伝八郎、すごぉーい。」
と言うのが、何となく励みになったので御座る。
天正五(一五七七)年、伊賀甲賀に敵なしとなった拙者は故郷三河に帰り、元服の儀を済ませると、父の推薦で殿の嫡男信康様に仕える為、岡崎城に出仕致すこととなり申した。岡崎に仕えることとなったのは、信康殿が能の鼓や舞いの得意な小姓を探している、とのことだったからで御座る。昔取った杵柄が、思わぬ所で役だったと云う訳で御座った。因みに由利殿も、拙者の従者と称して、岡崎の侍長屋にまで押し掛けて来て、何かと世話をしてくれたので御座る。拙者も断る理由も無いので、男装した由利殿の好意につい甘えてしまい申した。
岡崎城には当時、信康様の母親の築山御前、信長殿の娘で信康殿の妻の五徳姫様、後見人に石川教正殿、非公式のお目付け役に榊原康正殿などがおり申した。それに加えて、大殿(家康)に相手をされぬ築山殿が引きこんだ愛人の医者滅敬など、怪しげな連中も屯していたので御座る。当時覆面などはしていなかった拙者はたちまち信康殿の寵童となり、伽の相手もさせられ申した。それは暖かな晩春のある夜のことで御座る。殿を守る為寝ずの番をしていた拙者を、寝所の殿がお呼びになったので御座った。
「伝八郎はおるか。」
「はっ、ここに。」
「今宵は寝付かれぬ。伝八郎、夜伽を致せ、構わぬか。」
「はい、父よりこれもお務めと申し使っておりまする。」
「初奴じゃ。もそっと近う寄れ。」
「はっ、しからば御免。」
と言って、拙者は若殿の寝所の中に入り、殿の寝具の前に正座して、一つ頭を下げたので御座る。
「実はのう。わしも衆道は初めてなのじゃ。何をどうするか、まるで分からん。伝八郎は分かるか。」
「はっ、やったことはありませんが、父より一通りのことは教わっておりますので、ご教授致します。ですが、やったことも無い物をどうしてなされようとなさるのですか。殿には美しい五徳姫様もいらっしゃいますのに。」
「はっ五徳か。わしはあの女の所為でつくづく女と云う者に嫌気がさしたのじゃ。信長様や父上(家康)さえ衆道の経験があるのは、成程こういうことであったのか、と得心が行ったわ。主は変わらずわしの奉公してくれようのう。」
「御意。」
拙者もこれまでその様な趣味はまるで無かったので御座るが、これも忠義と思い、堪えて若殿(信康)の御意に従ったので御座った。しかし最初は嫌々で強制的で御座ったが、何時の間にか、そうした殿との肉体的な関係が、通常では考えられぬ程の強い主従の絆となっていたので御座る。
若殿と初めて関係した夜、拙者は夜遅く長屋の方に帰って来ると、由利殿が長屋の入り口の所に蹲っていて、寝ていて御座った。どうやら拙者のことを待っていて、待ちくたびれてつい寝てしまったようなので御座る。拙者は由利殿をそっと背負い、家の中に入れようとしたので御座るが、起こしてしまい申した。
「伝八郎、若殿の夜伽をしていたのか。」
「仕方が無かろう。これもお務めだ。」
それを聞くと、由利殿は口を尖らせて拗ね出したので御座る。
「あーあ。つまらぬな。一緒に暮らしているのに、お前は俺の手も握ってくれぬ。そんなに男が良いのか。男が良いなら、男装した女子を抱いてくれても良かろう。」
「お前、抱いても良かったのか。」
「当り前だろう。俺が父上を何と言って説得したのだと思う。伝八郎殿に嫁にもらってもらう故、行かせて欲しい、と言ったのじゃ。今さら父上に、お前を男に取られたから、嫁にはなれなかった等と言って、おめおめと実家に帰れようか。俺の娘盛りを返してくれ。この鈍ちんめ。」
「そうか、知らぬこととは言え、済まなんだ。俺もお前が近頃眩しくて、自分を制御するのが一苦労だったのじゃ。」
「そうか、それでお前の下帯(昔の男性用下着)が、やけに汚れていたのか。良い雰囲気じゃが、若殿と戯れてきたのなら、今宵は無理すること無いぞ。」
「いや、拙者若い故、まだ大丈夫で御座る。それではいざ。」
「いざ。」
と言う訳で、二人はその夜それから結ばれ申した。さすがの最強の拙者も、二度連続はいささか辛う御座る。拙者と由利殿の関係は、特に実家は元よりどこにも知らせなかったのだが、これは若殿を憚ってのことで御座った。しかしこのことが、後々二人の身に災いを招くこととなるので御座る。
当時既に若殿は武田家に近付いていて、拙者が奉公する直前の天正三(一五七五)年、高天神城落城をきっかけにあの大賀弥四郎事件が起こってい申した。この事件は当時三河国奥郡二十余郷の代官で、若殿お気に入りであった大賀弥四郎が、ささいなことから大殿の勘気を被り、家財没収されたことを恨み、他の徳川家に恨みを持つ家臣と共に武田勝頼公に通じて謀反を起こさんとしたもので御座る。そもそも弥四郎が過酷な処分を受けたのは、その時点で大殿に武田と通じていることを見抜かれていたからの様で御座った。その手口は、築山殿の愛人の滅敬を使って徳川の内情を漏らすと云うものであったが、滅敬自身の罪が証明できなかったので、弥四郎の別件処分とし、慌てて正体を露わすのを待ち構えていた伏があるので御座る。とにかく、日頃から冷や飯を食わされて不満を募らせていた輩を引き込み、若殿を押し立てて岡崎城を乗っ取ろうとした陰謀は、待ち構えていた服部半蔵殿達の力により未然に防がれ、関係者は全て捕らえられてしまい申した。そして弥四郎の身体の中から、岡崎城を乗っ取って城内へ手引きすることを勝頼公と約した書状が見つかり、妻子五人が磔にされた後、弥四郎は土に埋められ、通行人に鋸引きにさせて少しずつ殺させると云う大殿らしく無い残虐な刑に処されるので御座る。もっとも、それを気味悪がった人々が、弥四郎の埋められた道を通ろうとしなかったので、彼は結局七日間もかかって絶命したので御座った。この翌年五月、長篠の戦で武田と徳川織田連合軍は全面衝突し、武田が壊滅的な打撃を被ってしまうので御座る。
この事件の後に拙者は御奉公したので御座るが、大殿の側近の榊原殿が非公式に若達のお目付け役になったのも、若殿と武田の関係を大殿が疑っていたからに他ならないので御座った。それにこの時徳川家は、浜松城の大殿派と、大殿にどちらかと云うと疎まれている者の吹き溜まりとなっている岡崎城にいた者達の派とのいがみ合いが、この事件をきっかけに一層強まっていたので御座る。榊原殿は、そうした両派の架け橋となるべく岡崎に来ていたのでも御座った。しかし大殿とは似ても似つかず快活で武道に優れた若殿に、だんだん榊原殿も魅せられていったので御座る。
拙者も若殿の色子と見做され、内々の集いにも度々同席し申した。そう云った席には色々な家臣がいらっしゃったのだが、拙者の他にも若殿を中心に築山御前、その愛人の滅敬が常にい申した。そう云った席では、例えばこの様な会話がなされていたので御座る。この時は、後見人の石川教正殿も一緒で御座った。
「おー、それが近頃次郎三郎殿の色子となった伝八郎かえ。成程、あの小憎らしい五徳と似ても似つかぬ美形じゃのう。これまで男など見向きもしなかったそなたが、夢中になるのも無理も無い。」
と築山殿が言うと、拙者は嬉しくも無かったので御座るが、一応誉めて貰っていると判断して、こう言ったので御座る。
「恐れ入ります。」
若殿は新月の夜、盃を傾けながらこう付け加えたのであった。
「せっかく母上がこの度お世話頂いた、浅原昌時(元武田家臣)の娘子との間にも未だ子が出来ず、申し訳御座いません。伝八郎と関係を持ったのは、決してあの娘が気に食わぬと云うわけではないのです。その証拠に、あの娘の元には、変わらず通っておりまする。」
紹介者である母親を前にして、若殿もさすがに恐縮しているようであった。因みに、浅原昌時もその娘ものまた、武田の間者なので御座る。築山殿は、恐縮する息子の気持ちを和ませる為か、少し笑いながらこう仰ったので御座る。
「次郎三郎殿、そう恐縮なさるな。それが分かっているからこそ、今宵は伝八郎を皆に紹介するとそなたが仰るから、あの娘を招かなかったのじゃ。」
そこで唐人僧滅敬が、日本人と変わらぬ発音でこう言い出したので御座った。
「それにしても、あの戦(長篠の戦)以来、右大臣(信長)様は武田を潰せませんなあ。」
「今度の戦は武田の本拠地(甲斐)で行わねばならぬのだから、右大臣様も慎重におなりなのだろう。のう伝八郎、お主こんな話を初めて聞かされてどのように思う?」
と言って拙者に話しかけてきたのは、石川教正殿で御座った。しかし拙者が何か言う前に、
「だからこそ、勝頼は今巻き返しに必死なので御座ろう。どちらにしろ、武田の直接の標的となるのはこの徳川よ。」
と若殿が吐き捨てる様に仰ったので御座る。
「ほほほほほ。今武田に寝返れば、武田に大きな恩を売っておくことができるのう。」
と築山殿は言ったが、恩が大きかろうと小さかろうと、かの女性の反信長の想いは変わらぬので御座る。
若殿と大殿の仲は、いつからあぁなってしまったのか。恐らく若殿の容貌が、だんだんと母親の築山殿の伯父である今川義元殿と似てきたからではあるまいか。性格もまた然り。慎重で陰湿な大殿に対し、大事に育てられた若殿は、大らかで快活、自分の思い通りにならぬことがあると、すぐ態度に出してしまう所があり、それがまた大殿の勘気に触れてしまう所でもあり申した。例えばこんなことも有ったので御座る。拙者と二人でお忍びで領内の盆踊りに参加した時のことで御座った。周囲の村人も拙者らの正体に気付かず、こんな会話をしていたので御座る。
「今年も無事に盆踊りが出来たのう。」
と貧相な顔の村人の男が言うと、傍らの踊りが初めてらしくぎこちない者がこう答え申した。
「わしは今年初めて参加したのじゃが、楽しいものよのう。これも世が平和じゃからじゃのう。」
「おうよ。武田の騎馬隊が三方が原(一五七三年)に押し寄せてきた時には、ほんに徳川様もおしまいかと思ったよ。」
「そうじゃの。お主聞いたか。」
「何を?」
「あの戦で大殿が退却する時、あまりに武田の騎馬隊が恐ろしゅうて、脱糞しなさったそうじゃぞ。」
「何、それは臭かったことじゃろう。」
「それで浜松城に逃げ帰った殿は、この戦で受けた悔しさを忘れぬ為に、絵師を呼んで自分の情けない姿をそのまま写させたそうじゃ。その絵をしかみ像とか呼んでいるそうじゃ。」
この時点で既にギリギリと怒りを露わにしていた若殿を、拙者は必死にお止めしていたので御座る。
「若殿、向こうへ参りましょう。あれはあの戦場の恐ろしさを知らぬ百姓共の戯言で御座る。まともに聞いてはいけませぬ。」
しかし二人の会話は、さらに続いてしまったので御座った。
「それは可笑しい。ところでお主聞いたか。」
「何をじゃ。」
「先年の長篠の戦で武田を打ち破った我が方が未だ武田を滅ぼせないで放ってあるのは、滅ぼしたくても織田様に敵が多過ぎて、甲斐に集中することが出来ぬからだそうだ。このままでは武田はこの前やられた痛手を癒し、再び三河に攻め込んでくるかもしれぬそうじゃ。」
「それはいかんのう。織田様は前に一度、徳川様を見殺しにした前科があるでのう。今の内、流れ者のわしはここを退散した方が身の為かもしれん。」
「そうかもしれんのう。」
すると殿はやおら立ち上がり、小休止となった盆踊りの櫓の上に駆け登ると、話し合っていた二人目掛けて、こう言って続け様に矢を射放ったので御座った。
「この武田の透波(忍者)どもめ。」
一人の心の臓に矢が突き刺さると、もう一人は即座にその場を逃げ出そうとしたのだが、すかさず放たれた二の矢に当たり、その場にぱったりと倒れたので御座る。盆踊りの場は修羅場と化し、村人達は、人殺し、人殺し、と口々に叫び、祭りの場はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図と化し申した。この時のことは大殿に知られぬよう伏せられたのだが、それがかえって勝手な噂が流れる結果となり、若殿が乱心して、盆踊りにいたみすぼらしい男と踊りが下手で目障りな者を射殺したとされてしまったので御座る。
また、こんなこともあり申した。この時も拙者と二人で近くの山に鷹狩りに行ったので御座る。狩りの為に山に入ると、修行僧を見掛け申した。狩りの際、僧侶と出会うと得物が少ない、と云う迷信を信じ、若殿は拙者にその僧を捕らえさせたので御座る。そしてその持物をたまたま調べると、僧らしからぬ武器を所持してい申した。
「御坊、僧の癖にこれは何だ。」
と拙者が問い詰めると、するとその僧は、何も言わず舌を噛み切って自害してしまったので御座る。慌てたのはそれだけでは無い。運悪くそこへ猟師の親子が通り掛かり、事の一部始終を目撃してしまい申した。無論、その親子には金を与えて口止めしたのだが、やはり噂は漏れてしまったので御座る。その噂によると、猟で縁起の悪い僧に出くわし、若殿の勘気を被って、僧が一人殺されたと云うので御座った。
そして女子ばかりで後継ぎの男を産まないと、信康から遠ざけられていた五徳姫が夫をなじると、側にいた若殿の御母堂築山殿が、こんなことを言ってしまったこともあったので御座る。
「五徳殿、夫がそなたの寝所に寄りつかず、側室や伝八郎とばかり戯れているのは、疎ましいそなたと無理に寝ても、生まれてくるのは姫ばかりだからではないか。」
「いっそ側女とならどんなに気が楽か。女として男に嫉妬する等、私の誇りが許しませぬ。」
「ええい、黙れ。そなた、我等親子が織田に滅ぼされた今川の出だからと言って侮りなさるか。衆道など、右大臣(信長)様もうちの三河守様も井伊直政と、亡き武田信玄公も高坂弾正となさっておるわ。だが皆立派に世継ぎを作り、その妻達が衆道に異議を唱える等聞いたことが無い。まず自分の至ら無さを認めた上で、夫が側女や稚児の元では無くどうすれば自分の寝所に来てくれるか、思案してみるが良い。」
拙者自らこのことを認めるのはいささか面映ゆいもので御座るが、とにかく五徳姫は築山殿のこの言葉にその場は黙ったものの、心中夫である若殿を深く恨み、実家の父信長公に、十二箇条にも及ぶ若殿と築山殿への恨みごとを書き送ってしまったので御座った。その中には、若殿が築山御前の愛人の滅敬と云う唐人医師を通して武田氏と通じているとまで書かれていたのだが、拙者との関係はさすがに右大臣様と森蘭丸様とのこともあって、言いつけても効果なしと思われたのか、何も言及して無かったので御座る。このことが露見したのは、手紙が送られてからしばらく経った天正七(一五七九)年七月十六日の蒸し暑い日、酒井忠次殿がたまたま安土城にご機嫌伺いに行った時、この文について直々に右大臣様から問い詰められたからで御座った。忠次殿は日頃から岡崎派を面白く思っていなかったことや、右大臣様本人に責められて恐縮してしまったこともあって、つい三河者らしい愚直さが出てしまい、その内容を殆ど認めてしまったので御座る。右大臣(織田信長)様は例によって鼻を弄り扇子で忙しげにあおぎながら、平伏する酒井殿を気の毒に思ったものの、事は謀反に関することなので、こう言うしか無かったので御座った。
「それはいかんのう。武田と徳川が縁が無いことを証明する為にも、信康には腹を切ってもらわねばならぬ。左衛門尉(酒井忠次)、三河殿にしかと伝えるのじゃぞ。分かったな。」
酒井殿は信長様のこの命をこのまま浜松に持ち帰り、大殿にお知らせしてしまったので御座る。徳川家はもう大騒ぎであった。殿でさえ、信長殿の理不尽な要求に、歯軋りをして悔しがったので御座る。
「爺、何故一言それは五徳の側室(竹)や色子(拙者)への嫉妬から来る妄想であったと三郎(信長)殿に言えなかったのじゃ。」
「ははー。」
酒井殿もまさか派閥争いの為かくなったとは言えず、平伏するばかりで御座った。他の重臣は怒り狂い、特に若く血気盛んな井伊直政殿などは、
「殿、これがここまで織田家に尽くして来た当家に対する答えで御座る。それにこれは当家の問題。完全な内政干渉で御座る。拙者も信康様を始めとする岡崎派には、腹に据えかねることも御座るが、腹を切らせるまでもありますまい。こうなったら武田に本当に寝返り、たとえ当方が全滅しようとも、織田と一戦致しましょうぞ。」
等と、はっきり口に出す始末で御座る。しかし大殿はそう言いながら、実に決断が速かったので御座った。
八月三日、鎧姿で軍勢を整えた大殿は、浜松から岡崎の城へと出立したので御座る。若殿と岡崎城の重臣達は拙者を含め、城の大広間に平伏して大殿をお迎えし申した。そこで若殿と対面し、拙者が傍で聞いている中、話し始めたので御座る。大殿は若殿の姿を目に留めながら、単刀直入にこう仰ったので御座った。
「信康、お家の為に腹を召して下され。」
大殿は泣いては御座らぬ。悔しそうでも御座らなかった。ただそう云うのが精一杯なのでは無かったか。若殿は何も言わず、全てが決したことを察し、ただ平伏したまま、
「ははあ。」
と答えたのであった。拙者は何も言わぬ若殿に代わり、思わずこう口走ってしまったので御座る。
「大殿、若殿に腹を召さなければならない、何の咎がありましょうぞ。」
すると前方にいた石川教正殿が、
「黙らっしゃい。」
と一括したのであった。しかし続けて、石川殿の横にいた榊原康政殿が、いつもの冷静沈着さはどこへやら、本来石川殿が言うべき所を、大殿に信用の無い自らの立場をわきまえて何も言えぬ同君に替わって、こう言上申し上げたので御座る。
「大殿、この小平太から見ましても、右大臣様の命で切腹では、対等な同盟者である筈のこの徳川の顔が立ちません。この小平太、大殿が命じてさえ下されば、若殿を先頭に安土へと攻め込みましょうぞ。」
これは、大殿の信任厚き榊原殿だからこそ言えた科白で御座った。大殿はそれには直接答えず、こう仰ったので御座る。
「皆の者、少しわしを信康殿と二人きりにしてはくれまいか。太刀持ちの伝八郎もじゃぞ。」
拙者も大殿に名指しでそう言われ、他の重臣の方々と共に大殿と若殿に一礼し、すごすごとその場を下がり申した。
その日の二人の話し合いの結果、次の日若殿は拙者を含めた希望する家臣のみを連れて、岡崎城を出て大浜を経て、遠江の二股城へと配流されたので御座る。
八月二九日、まず築山殿が二股城に護送中、佐鳴湖畔で殺害されたので御座った。殺害と書いたのは、最初自害を進めても聞き入れられず、抵抗する築山殿が刺殺されてしまったからなので御座る。
九月十五日、大殿に遣わされた服部半蔵殿と天方道綱の二人が来て、
「上意で御座る。若殿、腹を召されませえ。不肖正成が介錯仕る。」
と申し渡したので御座った。もはやお側には拙者と女の格好をした由利しか御座らん。大殿は、重陽の節句の名残の菊が由利によって活けられた城内の一室で、これを厳粛に受けられ、拙者も手伝ってすぐに切腹の用意をしつらえ申した。若殿の準備が整い、介錯の半蔵殿が刀を天方殿に清めて貰っている時、半蔵殿は突然男泣きに泣き出し、こう言ったので御座る。
「主命なれど、主筋に刃を向けることは出来ぬ。天方殿、一生の願いで御座る。涙で若殿が見え申さず、介錯をしくじってしまうやもしれませぬ。どうか、お役目を替わっては下さらんか。」
天方殿は黙って半蔵殿から刀を受け取り、今度は自分が刀を振り上げてみたが、その瞬間、仰天してこう叫んだので御座った。
「こっ、これは何と、これは若殿では御座らん。伝八郎、これはどういうことか。」
拙者はついに露見したか、と観念し、半蔵殿と道綱殿に平伏してこう答えたので御座る。
「申し訳御座らぬ。これは武田へ逃げようとしていた築山殿の愛人滅敬と云う医僧で御座る。逃げる所を拙者が捕まえ、暗示を掛けてそこに座らせ、若殿の着物を着させたので御座います。どうか、半蔵殿と道綱殿、お見逃し下され。」
半蔵殿と道綱殿は顔を見合され、それからまず半蔵殿がこう言ったので御座った。
「では本物の若殿は、今どうしておるのじゃ。」
「はい、拙者がお二方がこの城に来る前に、掛川の中山に逃しました。」
二人は拙者のこの言葉を聞き、何やら相談しているようで御座ったが、やがて道綱殿が代表してこう言ったので御座る。
「伝八郎、見事工夫した。ここは拙者ら以外誰もおらぬ。ここは半蔵が断って拙者が介錯したものとし、滅敬の首を持参致そう。その方が現実味があるでな。何、殿に露見したら、拙者ら三人が腹を切れば済むことよ。のう、半蔵殿。」
「そうだ伝八郎、若殿ことは頼んだぞ。」
「ははぁ。」
こうして拙者は出奔致したことにし、二人は滅敬の首を切り落としてから、大殿に差し出したのであった。慎重な大殿は無論首を改めなさったが、何も言わずともすぐに御座る。半蔵殿と道綱殿は、ホッと胸をなでおろしたことであろう。
こうして拙者は、遠江掛川の小夜の中山で殿と由利の三人でひっそりと暮らしておったが、天正九(一五八一)年暮れ、降りしきる雪の中、わざわざ服部半蔵殿が尋ねていらっしゃい申したのだった。
「若殿、お久しゅう御座る。伝八郎、若殿と共に髭が伸びたな。せっかくの美貌が台無しだ。」
拙者と若殿と由利は、その時まで貧しいながらもつつましく山の暮らしを致しており、無論、髭も髪も伸び放題で御座った。
「服部殿。こんな山の中までいかがしたので御座るか。」
「いよいよ武田と最期の戦だ。右大臣様が回りの敵を平らげ、ようやくこちらに手が回せるようになったのだ。謙信も死んだしのう。伝八郎、お主大殿からの直々の御指名じゃ。馬回りとして帰って参れ。」
「しかし、拙者には若殿が…。」
「伝八郎、わしのことならもう良い。すっかり山の暮らしにも慣れて、もうお前無しでもやっていける。それより御前程の才能がある者を、こんな山の中で朽ち果てさせるのは忍びない。どうか、わしの分まで暴れて来てくれ。」
二人は泣きながら抱きあったので御座る。半蔵殿と由利が目の前にいる故、かなり気恥かしいものでは御座ったが、これが若殿との最後の別れかと思うと、恥ずかしさも何も無くなってしまい申した(この後信康は伝八郎の死後もこの中山に生き続け、寛永十(一六三三)年、飛脚がそれらしき老人を目撃したと言われる)。
こうして若殿と由利を残し、拙者だけが里に降りて大殿の親衛隊に属したので御座る。武田との戦は一方的に終わり、拙者の出番も無いまま、武田家は滅び去り申した。先に登場した穴山梅雪殿が武田家を見限って徳川家に身を寄せたのも、この時期で御座る。当時は穴山殿だけでは無く、秋山信友殿を始めとする多くの武田家臣が鞍替えをし申した。
さて大殿に仕えるようになってから、拙者は例の覆面をし出したので御座る。と申しますのも、徳川家に拙者が帰参した時、拙者は目通りした大殿に、まずこう言われてしまったからに御座った。
「伝八郎。その方聞く所によると相当な豪傑だそうだが、その信康をたぶらかした面体のままでは不味かろう。今後わしの元に来る時は、覆面か何かしてくるが良い。その顔を見る度に、信康のことを思い起こして辛いのじゃ。」
そこで拙者は父と相談した上、現在の様な皮帯を顔に身に付けることと致したので御座る。普通の忍びの頭巾は、短期間ならともかく、長期間身に付けていては息苦しく、また極端に視野が狭まり、大殿の護衛の任に堪えないからで御座った。
ところで武田を滅ぼした祝いの席で、拙者は高らかに笑いながら、こんなことを公言して憚らなかったので御座る。
「まったく、戦と云う者は非効率なことをして御座る。拙者に任せてさえくれれば、戦などせずとも武田勝頼の首を一人で取ってきたものを。お陰でこの戦の最中、拙者何もやることが無くて退屈千万で御座った。わっはははは。」
この時偶然、勝った兵士達に振舞い酒をする為に、大殿が傍までいらしていたのであった。普段なら大殿の気配など、目で見ずとも容易に察したものを、この時はべろんべろんに酔っていて、それが出来なかったので御座る。その時の大殿は、せっかくの大勝利に水を差されて、傍目にも分る程露骨に気分を害されながら、高笑う拙者を怒鳴りつけたので御座った。
「伝八郎、侍が大声で笑うものでは無い。」
いくら徳川家と言っても、酒の入った宴席の時位、誰もが大声で笑っていたので御座ったが、大殿のこの一声に当たりはしんと静まり返ってしまったので御座る。拙者はまさに寝耳に水で、一変に酔いも覚めて大殿の方を向いて平伏し申した。大殿は、さらに続けてこう仰ったので御座る。
「それに武士の戦はそのような暗殺で決するものではない。たとえ主君一人殺そうとも、その国の民全てを心服させる戦の内容で無くてはならぬのだ。」
大殿のこの言葉を聞きながら拙者は、あぁこの殿様とは一生合いそうにない、と思わざるを得なかったので御座った。
第三章 小牧長久手の戦い
時間は元に戻る。岡崎に辿り着いた徳川家の主従は、息付く暇も無く、織田様の仇(この時は既に、信長は行方不明では無く、死んでいることが何となく分かっていた)を討つべく兵を整えたので御座った。しかし、ようやく兵を率いて尾張国まで行った所で、織田様の仇明智光秀は既に羽柴秀吉によって討たれてしまったことを聞き、軍をそのまま引き返して旧武田領で現織田領となっていた信州、甲州を切り取ってしまったので御座る。まさに転んでもただでは起きないとは、大殿の事で御座ろう。
こちらが領土を広げている間に、秀吉は織田家の後継者争いに勝利し、我らが占領した領土を抜かしてほぼ旧織田領を手中に収めていたので御座る。大殿は織田家の重臣達が壺の中の毒虫が食い合う用に争って弱まるのを待ったので御座った。もちろん、主筋に当たる織田家も、黙っては御座らぬ。しかし織田家は、信長殿の嫡男信忠殿は父上と運命を共にされ、次に有力な次男信雄殿と三男信孝殿は互いに後継者を争い申していた。その間に秀吉が亡き信忠殿の嫡男の幼児三法師(後の秀信)殿を担ぎ出し、鳶に油揚げをさらわれてしまったので御座る。ただ、それで納まる筈は無かった。信雄殿は我が大殿を後ろ盾とし、信孝殿は柴田勝頼殿らを後ろ盾となさったので御座る。何事にも慎重な大殿が信雄殿と事態の推移を見守っている間、信孝殿と柴田殿は秀吉に敗れ、いよいよ満を持して徳川と羽柴の全面対決と相成ったので御座った。この時大殿は、尾張・伊勢・南伊賀を領する信勝殿、能登の佐々成政殿、四国の長宗我部元親殿、紀州の雑賀衆、根来衆を味方にし、秀吉包囲網を完成させていたので御座る。
よって後世小牧長久手の戦いと呼ばれる戦が、何時の段階で始まったものと考えれば良いのか、議論の分かれる所では御座ろうが、拙者は天正十一(一五八三)年三月、突如寝返った池田勝入斎(恒興)が犬山城を占拠し、大殿がこれを攻める為、小牧山城に軍勢を率いて駆け付けた所からと致そうと思う。信長殿が本能寺で討たれてからこの間、徳川家、羽柴家双方で出来得る限りのことをして参った。羽柴は出来るだけその勢力を広げることに全力を注ぎ、大殿は自分の意のままとなる領地を積み重ねていったので御座る。よって自分の勢力範囲内で戦を始めた我が方は、まずは地の利を得たと言えよう。また秀吉が兵力を集めに奔走している間、こちらは服部半蔵殿を中心にこの辺りに情報網を張り巡らし、秀吉方の動きを全て察知できるようにしてあったので御座る。もっともその為、秀吉軍は約十一万であるのに対し、当方は一万八千と、兵数に大差をつけられてしまい申した。これは先の賤ヶ岳の戦いにおける羽柴方と柴田方の兵数差と大差無く、誠に先行き不安な展開で御座る。
当方が小牧山城に着くと、同時に秀吉軍の森長吉が三月十六日、夜半にここへと着陣し申した。しかしこの動きは半蔵殿の情報網によって筒抜けで、酒井忠次殿、榊原康政殿ら五千が森軍に朝駆けをし、彼らを蹴散らしたので御座る。これに対して羽柴秀吉は四月五日、犬山城近くの楽田に着陣。双方は膠着状態に入ってしまったので御座る。
この膠着状態を打開する為四月六日夜、秀吉方の中入り別働隊二万が密かに出陣し申した。この軍は秀吉の甥の羽柴秀次を総大将とし、その軍にはかつて伊賀越えで苦楽を共にした長谷川藤五郎(秀和)殿も参陣していたので御座る。この軍は元々池田勝入斎の提案で急遽編成されたもので、徳川とここで睨み合いをしている間、手薄の本拠岡崎城を衝こうと云うもので御座った。狙いは悪くなかったのだが、敵地ではこの様な手を使ってはならない、と云う兵法の原則を無視したもので、秀吉はそれを知りながら、かつての上役池田勝入斎の提案を断り切れず、また密かに自らが暖めていた策とも一致していたので、こういう次第に至ってしまったので御座る。
無論この動きは当方に筒抜けであった。普段決断の遅い大殿が、この報を服部半蔵殿から受けて、やおら座っていた床几から立ち上がり、辺りにいた諸将にこう告げたので御座る。
「勝機じゃ。今すぐ全軍でここを発ち、秀吉方の別働隊を蹴散らして、奴が気がついた時にはこの陣に戻るのじゃ。この戦は速さの勝負となる。各々方、すぐさま出陣じゃ。」
「おおう。」
と諸将は雄叫びを挙げ、我らはわずかな兵を残して、織田信雄殿と共にほぼ全軍で出陣し申した。
出陣した拙者らが小幡城に入った時、それを知らぬ先方の池田勝入斎が岡崎への道すがらにあった岩崎城に攻撃を始めていたので御座る。実は勝入斎も、寄り道をしている場合では無いことを分かっていながら、半蔵殿からの連絡で時間を稼ぐように言われていた城主に鉄砲で徴発され、城攻めをしてしまったので御座った。城は一刻半程(三時間)で落ちてしまい申したが、この一刻半が命取りとなってしまったので御座る。
この攻城戦の間、後方で休息していた別働隊の総大将羽柴秀次は、後ろに密かに迫っていた水野忠重(長田家のかつての主家で、織田家が凋落したので、この時再び徳川に属していた)殿や榊原康政殿らに一斉攻撃され申した。気を抜いていた別働隊本陣は総崩れとなり、この軍にいた長谷川籐五郎殿も秀次殿を逃がすのが精一杯で、一方的に壊滅させられてしまったので御座る。
この後調子に乗った友軍が、第三陣の名将堀秀政に返り討ちにあってしまう番狂わせがあり、焦った大殿はぐずぐすしていると秀吉本軍が応援に来てしまうことを恐れ、常につき従っていた拙者に向かって、自らの信条に反する下知を飛ばされたので御座った。
「伝八郎、お主以前、自分に任せればすぐにでも敵将の首を取って、戦を終わらせることが出来ると大口を叩いておったのう。」
「御意。」
「ならば今この場でその証を見せい。先方軍の総大将池田勝入斎の首を今すぐに取って来るのじゃ。」
「ははあ。ただ、池田の首を持ち帰るのは無理かと。討ち取るだけで勘弁して下され。」
「ええい、どちらでも良い。今すぐ行くのじゃ。」
「ははぁ。」
こうして拙者は遊撃隊として、安藤直次殿や蜂谷定頼殿等の腕利きの者達と共に本陣を出陣したので御座る。途中、別働隊が苦戦中であることを秀吉に知らせる敵方の伝令に出くわし、これを捕らえて書状を取りあげ申した。そこで拙者は、死んだ伝令の旗差し物と鎧を脱がし始めたので御座る。
「長田氏、何をして御座る。」
と蜂谷殿が尋ねるので、拙者はこう答えたので御座った。
「拙者が伝令の振りをして、本陣に真正面から迫る故、御一同は池田隊が拙者に気を取られている隙に、その横っ腹に奇襲を掛けて下され。拙者はこの使者の格好に着替える故、各々方は先に池田本陣の横に潜んでいて下され。」
「心得た。」
と遊撃隊の面々は頷き、拙者を置いて先に馬を進めたのである。
敵別働隊の大将的存在池田勝入斎、この時四八歳。拙者とは正反対の破壊された容貌ではあったが、羽柴軍一の豪傑で歴戦の勇者であり、その二人の息子もこの時参戦していたので御座る。四月九日午前十時頃、我が方と敵別働隊第一陣池田勝入斎軍、第二陣森長可軍は激突したので御座った。一進一退の攻防ではあったが、森長可が当方の鉄砲に眉間を討たれ、敵軍不利に傾いたのである。総大将的存在であった池田勝入斎は、この戦局を何とか挽回せんと、次男輝政を本陣に留守居をさせて、嫡男の元助と池田隊のみを率いて奇襲をしようと移動中のことであった。いよいよ我らに奇襲をせんと、勝入斎が本陣で床几に座っていた所に、全速力で馬を飛ばしてくる伝令が御座る。それは羽柴の旗差し物を背負ってはいたが、何となく怪しいと感じた彼は、廻りを側近で固めたので御座った。その時、別働隊の面々が池田隊の横っ腹に馬で一斉に奇襲を掛けたので御座る。敵がその奇襲に応戦している隙に、拙者はいつものように覆面も無く伝令に成り済まし、池田本陣に迫っていたので御座った。そして直前で背負っていた旗差し物の旗をかなぐり捨て、尖っている先端を前方にして他の竹と組み合わせて長い竹槍とすると、勝入斎の側近の鎧武者共に眼つぶしの白い粉を投げつけたので御座る。側近達が一瞬怯んだ瞬間、拙者はその竹槍を使って、側近達の影越しに勝入斎の首根っこを刺し貫いてしまったので御座った。小柄な拙者が長槍を使うなど、敵は予想だにしていなかったのであろう。そして竹槍の先を、くいっとひねり、首を胴体から斬り放つと、それをポーンと空に上げて自らの懐に投げ入れたのであった。
「池田勝入斎、長田伝八郎が討ち取ったり。」
と拙者が雄叫びを上げると、敵勝入斎の側近達はにわかに盲目になりながら、刀をめちゃくちゃに振り回し、拙者を討ち取ろうとしたので御座る。拙者は余裕を持ってそれを交わしていたので御座ったが、その時突然味方の蜂谷定頼殿の槍が伸びて来て、味方と思って油断した拙者の左手の中指を切り落としてしまったので御座った。その瞬間、蜂谷殿は、
「あっ、御免。」
と言われたので御座る。拙者は指の痛みを堪えながら、懐に勝入斎の首を抱えたまま、すぐに竹槍をそのまま放り投げて馬の踵を返し、一目散にその場を離れたので御座った。背後から鉄砲やら矢やらが沢山飛んできたが、拙者は全てそれらを気配のみでよけきったので御座る。父の仇を討たんと追ってきた嫡男の池田元助も、深追いし過ぎで安藤直次殿に討ち取られ、池田軍は本陣に残された次男の輝政まで討たれてはならじと、既に父親と兄は奇襲が失敗して撤退したからと騙して池田隊全軍と共に退却させ、こうして敵別働隊は総崩れとなって壊滅させられたのであった。
本陣に帰り、蜂谷定頼殿と共に大殿と織田信雄様のいる本陣に来て平伏し、勝入斎の首を差し出しながら、拙者は早速言上申し上げたので御座る。
「大殿、お喜び下され。池田勝入斎討ち取って、御下知通り首を持参致した。その嫡男元助も討たれ申したので、池田勢は敗走致しましょう。森長可も討たれましたから、池田勢が敗走すれば、敵別働隊は総崩れに御座る。」
大殿はこの言葉を聞き、一瞬耳を疑ったので御座るが、すぐに気を取り直し、首を受け取って確かめながら、こう言ったので御座った。
「伝八郎、でかした。すぐに別働隊総崩れの報が入ろう。さすればわしらも撤退して、小牧山の陣に大急ぎで戻るぞ。用意致せ。」
隣にいた信雄殿も大いに喜び、
「伝八郎、この戦の一番手柄じゃのう。」
と言って称賛されたのある。
「はっ。」
拙者は、疑り深い殿が拙者の言葉を全面的に信じ、次の指示を出したのをこの耳で聞いて、ようやく報われたような気が致して、嬉しかったので御座った。しかし、笑っているとまたどやされるので、指示通り撤退の準備を始めたので御座る。その前に、左手から血を流している拙者に気付き、大殿はまた聞いてきたのであった。
「伝八郎、指をどうした?」
拙者は咄嗟のことで誤魔化すことをつい忘れ、こう言ってしまったので御座る。
「これはお味方の蜂谷殿の槍にてこうなったものに御座る。」
こう言ってから、しまった、と思ったので御座るが、もう遅かったのであった。蜂谷殿は拙者の横に控えていて、それを見付けた大殿は珍しく声を荒げられたので御座る。
「定頼、貴様、伝八郎が一人大手柄を立てんとするのを妬み、せめて水を差してやろうとして事に及んだか。この卑怯者め。」
それを聞いた蜂谷殿は、三河武士らしく憮然としてこう言い放ったので御座った。
「拙者、伝八郎に誠に申し訳ないことを致しました。しかし、これは故意では無く、事故で御座った。拙者を馬鹿者呼ばわりするのは構いませぬが、卑怯者呼ばわりは心外で御座る。拙者、伝八郎に他意は御座らん。」
大殿は家臣にこう言い返され、拙者の方を一瞥してから、こう言い放ったので御座る。理不尽なことがあれば言い返すのが、徳川の伝統で御座った。それで蜂谷殿も、大殿に言い返したので御座る。この時大殿はそれを許しはしたものの、内心忸怩たるものがあった様で、その証拠に大殿が絶対権力を得た後、上意下達を徹底させたのであった。
「もう良い。時間が惜しいのじゃ。二人はもう下がれ。早く陣払いの触れを出せ。」
拙者達が本陣から下がると、蜂谷殿が話し掛けてきたので御座る。
「伝八郎、本当に済まなかった。主の気が済むなら、拙者の指をどれでも切ってくれ。」
「定頼殿。それには及びませぬ。あの乱戦のさ中故、致し方無きことに御座る。もう気にせんで下され。」
「伝八郎、恩に着る。この借りは、戦場で必ず返そうぞ。」
「おうよ。」
そう言って、二人は笑ったのであった。
まもなく敵別働隊壊滅の知らせが入り、拙者らは陣払いを始め、小牧山の陣へと向けて出発したので御座る。途中共に馬を走らせながら、横を走る殿の方から拙者に話し掛けてきたので御座った。
「伝八郎。」
「はっ。」
「先程から考えておったのだがな。」
「はっ。」
「そちの手柄に対し、どうやって報いようかと思ったのだが…。」
「はっ。」
「そちの姓、『長田』は、こう言っては何だが、平城京以来、蔑視され続けてきた名であろう。」
「御意。」
「よってそなたに新たなる姓『永井』を与える。名もいつまでも伝八郎では、この戦の一番手柄の豪の者にふさわしくなかろうから、本田忠勝の真似をして、このような劣勢でも『なお勝つ』、『直勝』とし、今後は『永井直勝』と名乗るが良い。他に知行千石とわしの脇差を授け、今後は兄尚勝に替わって東端城主となるのじゃ。それに今はしていないようだが、例のあの覆面、今後は無用ぞ。ただし、この様な暗殺も今度二度と無用だ。やはり戦は、そんな物で決するべきではないからな。今回は例外じゃ。」
と言ったのである。これは拙者には負け惜しみにしか聞こえなんだが、この為今後、例の覆面をすることは無くなったので御座る。その時拙者は、ようやく何かの呪縛から解き放たれたような気がし、さらに心密かに、こう思ったので御座った。
『加藤段蔵師匠、拙者はやりましたぞ。師匠の言う天下が驚くような大事を、ついに成し遂げましたぞ。』
元々『長田』とは、平城京にあった初瀬川に沿った長い耕作地のことを指し、そこは洪水になると農地として台無しになってしまうので、所謂社会的弱者が住みついていたのである。やがて彼らの中の代表的氏族『秦氏』の中から選ばれた者が、藤原氏の春日大社所属の武装集団長谷川党(長谷川は初瀬川の転じたもの)となり、それは同じ藤原氏の東大寺の寺領伊賀の服部氏に受け継がれ、忍びとなっていくのだ。この様に生まれた『長田』と云う姓は、社会的弱者を示すものとなり、武士に比べ忍びが差別される象徴的なものとなってしまっていたのである。
「有り難き幸せ。」
と拙者は答え、大殿の脇差を頂いたのであった。もっとも、殿の脇差はこの様な時の褒美用の物なので、極めて粗悪品であったが、拙者は何も言わずに受けたのである。それにしても、これだけの大手柄でこの脇差意外も千石とは何とも大殿らしい吝嗇振りであると、拙者は思わざるを得ず、自然と失笑が毀れてしまったのだった。因みに、それまで東端城主だった兄の尚勝は、拙者に遠慮して自ら職を退いてくれたので、骨肉の争いとならずに済んだのである。兄はその後、大浜の上之宮神社の神官になったので御座った。
大殿は、この後小幡城を経て小牧山城に無事撤退したので御座る。大殿に翻弄されるばかりであった秀吉は、その後全軍を撤退させ申した。
しかし、ここからが秀吉の本領発揮で御座る。大殿のいない織田信雄領を攻撃して勝利した秀吉は、徳川の大義名分であった織田信雄殿と単独講和してしまい申した。徳川は戦う理由を失い、浜松城に撤退した大殿に秀吉は和平を持ちかけ、こうして小牧長久手の役は幕を閉じたので御座る。
第四章 祝言
戦を終えた拙者は、一目散に掛川の中山の由利の元、いや若殿に向かったので御座った。山の紅葉した落ち葉をさくさくと踏みながら若殿のいる山小屋へと行く途中、山の麓で痩せた大根を持った由利を見付け、拙者は物も言わず彼女を押し倒したのである。
「お前様、まるで山賊じゃのう。」
「由利、拙者は戦の間中、ずっと堪えていたのだ。済まぬ。」
と拙者は言ったので御座る。この時の結果翌年生まれた子が、久右衛門であった。ただ本来目出度い筈の子の誕生が、思わぬ事態へと発展してしまったので御座る。
お腹の目立ってきた由利は、実家の寺津城の大河内秀綱殿の所に、拙者と共に赴いたので御座った。由利の父上の屋敷に着くと、驚いたことにそこには実父の長元と、阿部正勝殿とその息女と思われる方と、秀綱殿が同席して拙者達二人を待ち構えていたのであった。
「父上、ただいま帰りました。」
とお腹の目立ち始めた由利が、まずは実父に挨拶をしたのである。そして拙者は、
「これは父上、阿部殿、此度はどのようなご用件でこちらにいらしたのですか。」
と、尋ねたので御座った。父はその問に対して頷いただけで何も答えず、替わりに横に居た阿部殿を目で促し、阿部殿は目の前にいる大河内殿に気兼ねしながら、こう切り出して来たのである。
「実は、ただ今大河内氏と相談しておっての。そのう、何だ。とにかく、此度の戦におけるそちの大手柄まずは目出度きことに御座る。こっちは、わしの娘の笑美だ。」
父親に紹介された笑美殿は、何と父よりも背が高いらしく、もちろん拙者よりも背が高くて見上げるようで御座った。しかもこちらを不躾に見る顔は、お世辞にも整ったものとは云えぬものの、常に笑っているかに見え、大変愛嬌が御座る。
「笑美に御座います。宜しくお願いしまする。」
そして遠慮する阿部殿を見兼ね、替わって父重元が語り出したのであった。
「実はな。阿部殿は伝八郎と由利のことをどこぞで聞きつけたらしくてな。お主を是非とも譲って欲しい、と大河内殿と拙者に頼みにいらっしゃったのだ。わしも自分よりも、この阿部殿の娘を嫁にした方が、小牧長久手の英雄には似つかわしかろうと思ってな。そこで笑美殿を正妻とし、由利殿を側女とすることで話が付き申した。だが肝心のそこ元らの考えはまだ聞いて無い。お主、この話、どう思う。」
咄嗟のことで、拙者はどうすれば良いか分からぬままその場に立っていると、横に居たお腹の大きな由利がその場に座り込んだかと思うと、こう話し出したのである。
「どうもこうもあるまい。父上、海賊の娘である俺は、伝八郎殿の側室が分相応と云うものだ。これから伝八郎殿はますます出世しよう。笑美殿はその伝八郎殿にとって、欠かせぬものとなろう。」
由利のこの言葉にようやく腹が据わった拙者は、こう言ったのであった。
「由利殿、忝い。阿部殿、この話、一つだけ条件が御座る。」
拙者のこの言葉は、此度の戦で大手柄を立てた者として、いささか気が大きくなっていたから出たものでもある。
「拙者は由利殿と別れる気は無い。笑美殿と夫婦となり申すが、東端城で由利と同居してもらいまする。それが不服と言うなら、この話無かったものと思って下され。」
その時父親の阿部殿をさしおいて、笑美殿自らが発言されたのだった。
「それで、私に異存は御座いません。伝八郎様、由利様、不束者で御座いますが、これより幾久しゅう宜しくお願い奉りまする。」
この言葉に阿部殿が目を白黒させていると、笑美殿が屈託なく笑い出したので御座る。
「はははははははは。」
この笑い声に思わず拙者も、
「あはははははは。」
と笑い出すと、横にいた由利もにやりと笑い、父長元や、義父二人も声を立てて笑ったのであった。さらに笑美殿は、次に余計なことを付け加えたのである。
「それにしても、婿殿は此度の戦の一番手柄を為されたと聞いていたので、どんな豪傑かと思っておったに、私よりも小さき殿御とは思わなんだ。あはははははは。」
「それは失礼千万。ははははははは。」
「ほほほほほほほ。」
「わっはははははは。」
楽しい永井、長田、大河内、阿部一家であった。この後、由利の子久右衛門に続いて、笑美の子、尚政、直清、直重と、三人の娘を儲けるのである。
第五章 池田輝政
それから色々なことが御座った。秀吉の巧みな外交政策の前に、石川教正殿は寝返って秀吉方に走り、妾はあれども正妻の無かった大殿の立場を利用し、秀吉は自身の四十を過ぎた妹を大殿の後妻として腰入れさせ、それでも慎重な大殿が動かぬと、ついに生母まで三河によこして来たので御座る。この矢継ぎ早の攻勢についに大殿も折れ、羽柴家改め豊臣家と徳川の友好関係と云うか主従関係は成ったのであった。
天正十八(一五九〇)年、秀吉の北条征伐によって空いた関八州と徳川旧領五国の交換が行われ、それに伴って北条氏直の妻であった大殿の息女徳姫様が、夫が切腹し、未亡人となられてしまったのである。
文禄三(一五九四)年、文禄の役の真っ最中、拙者は大殿のお供で肥前国名護屋城へとやって来たので御座った。ここは秀吉殿の朝鮮征伐の最前線で、徳川家はこれに参戦しない代わりに、秀吉殿へのご機嫌伺いが欠かせぬので御座る。これは表向きは対朝鮮戦の作戦を練る為と云うことであったが、朝鮮半島と遠く離れたこの地で立てる作戦など殆ど無く、当時太閤殿下となっていた秀吉の退屈しのぎに単に付き合わされているだけなのであった。例えば当家の例で言えば、北条征伐で未亡人となっていた大殿の次女徳姫様と、池田勝入斎の次男の輝政殿との縁談を進めていたのである。池田輝政殿この時三十歳、拙者同様背がいささか低く、寡黙な御仁であった。その会合の折、たまたま同席していた大殿に、輝政殿はこう申し上げてきたのである。
「時に駿河大納言(家康)殿、つかぬことをお伺いしますが。」
「何で御座ろう、輝政殿。」
「拙者の父と兄を討ち取ったとか云う長田伝八郎とか云う家臣は息災でありましょうや。」
大殿は、まさか仇打ちを申し込まれるのではないか、とひやひや致したが、何食わぬ顔のままこう答えなさったので御座った。
「いかにも、元気で御座る。今は永井直勝と名乗っております。それに正確には、伝八郎が直接関わったのは、父上の方だけで御座る。しかし、伝八郎が何か。」
「いえ、実は拙者その御仁と一度お会いして、父と兄の最期のことなど、詳しくお伺したいと常々思っていたので御座る。どうか、お会いさせて頂きませぬか。」
既に殿下は退席していて、助け船を出してくれそうな人もおらず、大殿は止むを得ず、拙者と対面させることを約してしまわれたのである。
早速拙者が呼ばれると、大殿は目の前にいる三十の壮年の大名を紹介されたのだった。
「伝八郎、こちらが池田輝政殿。そちが討ち取った勝入斎殿の御次男じゃ。輝政殿、こちらが長田伝八郎、永井直勝じゃ。ではお二人でごゆるりとお話し下され。では、わしはこれで。他の者達はここに残って、二人の話を聞いておれ。滅多に聞けぬ真実の豪傑の話故、武士たる者にとっては、この上なき面白き話ぞよ。」
大殿は無責任にも、拙者ら二人と自分のお付きの者達をそこに残し、そそくさと退室してしまわれたのである。拙者は即座に事情を察し、
『そうか、拙者は俎板の上の鯉と云う訳か。ええい、こうなったら煮るなり、焼くなり好きに致せ。それにしても、相変わらず大殿は拙者に冷たい。』
と開き直り、その場に座して、輝政殿に深々と一礼したので御座った。
「拙者が永井直勝、長田伝八郎に御座る。」
池田殿は至って冷静で、拙者が緊張しているのをほぐそうと、優しげな声でこう仰ったのである。
「貴殿が拙者の父を討ち取り、兄を死に至らしめる切っ掛けを作った伝八郎殿か。会いたかったで御座るぞ。何もこの場で仇打ちをしようと云うのではないから、そんなに緊張めさるな。拙者はただ、父と兄の最期が勇敢なものであったか、そなたに直接聞きたかっただけなので御座る。お願い致す。」
拙者はまだ半信半疑で御座ったが、もう話すより他に無いと覚悟し、出来るだけ勝入斎殿と元助殿の最期が勇壮であったかのように語って聞かせたのであった。それに対し池田殿は涙を流して感激し、拙者が語り終えるとこう告げたのである。
「そうか、そうであったか。父と兄はそんなに勇敢であったか。長田殿、いや永井殿、本当に貴重な話を忝い。」
と言って、池田殿は男泣きに泣いたのであった。回りで聞いていた大殿のお付きの者達も、拙者が斬られるのではないか、と云う緊張感から一転して安堵し、思わずもらい泣きしたのである。その時池田殿が、突然こう言い出したのであった。
「時につかぬことを伺うが、貴殿は現在何石で奉公して御座るのか。」
拙者は何故池田殿がそのようなことを聞くのか分からぬまま、何気なくこう答えたのである。
「はっ、拙者現在七千石を頂戴して御座る。」
「な、何、ただの七千石とな。永井殿、今日は本当に忝のう御座った。拙者はこれにて御免。」
と池田殿は言い残し、拙者を残していずこかへ去ってしまわれたのであった。
控えの間で、一応拙者の安否を案じていた大殿は、池田殿がいきなりそこの部屋に入って来たので、肝を潰してしまったのである。大殿は、正々堂々の勝負をしては勝てぬと見た池田殿が、拙者を罰してくれるよう頼みに来たのかと恐れたのであった。
「大納言殿。」
「な、何用で御座るか。」
「たった今聞き申したぞ。拙者の父を討ち、兄を死に至らしめた豪傑が、あれからもう随分経つのに、たったの七千石に御座るか。これでは父も兄も浮かばれませぬ。どうか、拙者の顔を立てて、永井殿に御加増して下さらぬでしょうか。」
「もっもっともで御座る。至急検討いたして、返答致す。」
こうして拙者は三千石を加増され、併せて一万石で、大名の仲間入りを果たしたので御座る。拙者密かに池田殿に再度お会いし、深く感謝致したので御座った。
翌年、人たらしで有名な秀吉殿が拙者のこの話を聞きつけ、こう言ったので御座る。
「まこと永井直勝こそ、比類なき豪傑よ。」
言葉だけでは無く、拙者に豊臣姓を授け、従五位下右近太夫の地位を与えて下さったので御座った、有難迷惑なばかりで、実質何も役にもたたぬもので御座ったが。
その後も色々なことがあったので御座る。秀吉が亡くなった後、大殿は再び豊臣家に牙を剥き、その巧みな人心掌握術を駆使して、関ヶ原の戦い、大坂の陣と勝利したのであった。この時、伊賀越えの時知り合った山岡一族を始めとする多くの忍び達が、大きく貢献したのである。その結果天下を手中に収め、これも伊賀越えの時多羅尾光俊殿の城にあった愛宕大権現の社の御神体将軍地蔵に祈ったことが功を奏したのか、征夷大将軍となられたのであった。それが将軍地蔵の御利益のお陰だったとしたら、服部殿だけでなく、こうした多くの忍びの功績があったことを指し示すのだろう。
拙者個人のことと言えば、その後の元和二(一六一六)年、上野小幡城二万千石に移封されたのを皮切りに、翌年すぐ、常陸国笠間三万二千石に移され、元和八年、下総国古河七万二千石へ加増移封されたのであった。
子供達の行く末を少しだけ語っておくと、まず嫡男の尚政は拙者の藩の二代藩主を経て、山城国淀藩十万石に移封されたのである(その子孫には、幕末に活躍し、新撰組を作ったとも云われる永井尚志や、昭和の文豪三島由紀夫がいる)。また次男の直清は、兄の藩を受け継いだ後、摂津高槻藩三万六千石に移封された。三男の直貞、四男の直重は旗本となる。由利の子正直は庶子として町人となり、地元に根付いて製塩業で財を為したと伝えられているのであった(その子孫に、昭和の文豪永井荷風がいる。因みに伝八郎は寛永二年、一六二五年六二歳まで生きたと伝えられている)。
了