緋黯
朱と紺の混じり合った色合いの幕が世界を覆う。
―――微かにさらさらと葉が擦れ合う音がする。
人の気配はない。
動物の気配すらない。
風が吹く。葉擦れの音がより一層大きくなる。
ざざざざっ。
葉擦れの音が微かになり、風が通り過ぎる。
斑だった幕は、濃紺一色に変わっていた。
下限の月の幽かな光を放ち、貌を照らす。
青白く、生気のない―――。
※
ピピピピピピピピピッ
携帯電話のコールで夢の世界から、強引に現実世界に戻されてしまった。
ピピピピピピピピピッ
億劫そうに手をベッド脇の棚に伸ばす。
充電器から、携帯電話を外すと二つ折りになっている本体を開く。
受話器が上がっている方のボタンを押して、携帯電話を耳元に近づける。
『おはよう~。恭一~。』
勢いのいい声が耳に飛び込んできて、思わず携帯を耳から遠ざけた。
『あ、もしかして、まだ寝てた?』
「なんだよ、仲野かよ。朝っぱらから何?」
仲野とは、大学で同じ研究室仲間だった。。
決して、仲の良い友達などではなかったはず。
というより、3年の後半に研究室に出入りするようになってから知り合った。
『フィールドワーク行こうよ~。』
恭一と仲野は、民俗学を専攻していた。
現在、二人は師事する教授に促されるまま、小さな社を探し回っていた。
「わかった。三十分後に迎えに行く。」
通話を終えると、気だるそうに立ち上がって、ジーパンに白シャツを着る。
きっちり三十分後、仲野のアパートの前で車を止める。
ガチャ。バタン。
「おはよう!お迎えありがとう!!」
さわやかに笑いながら、仲野は助手席に乗り込んできた。
「で、目的地は?」
「えーとね。XX地区のXXってあたり。今からだと昼過ぎちゃうかな?」
・・・。
仲野が爽やかに言い放った場所は、高速を使っても片道四時間はかかるであろう場所だった。
「先に言え・・・。」
自分だけは準備万端の大きなバッグを、後部座席に無造作に放りながら、あははと笑う。
まぁ、いいけど。何か必要になったら、買えばいい。
「そういえばさ、XX地区って、恭一の地元じゃないの?」
「あ?んん。そうみたいだけど、覚えてない。」
実際に昔の記憶が曖昧だった。
小学生だった頃に、高熱を出して、治る頃に別の所に引っ越しをした。
なんか、ほんと急に引っ越すから、まるで逃げるみたいだった。
両親の話では、父親の転勤だったようだ。
「なんで仲野が知ってんだよ。」
そんな話をした覚えのない恭一は、仲野を横目に睨む。
「いやん。そんなに見つめるなよ~。」
脱力。もういいや。なんでもいいや。
いつもながらに五月蝿い仲野を軽くあしらいながら、目的地へと車を飛ばす。
※
遥々とやってきたはいいが、何もない。
本当に自分は、こんな辺鄙な所で暮らした事があるのだろうか?
四方を山に囲まれ、見渡す限りの田、田、たまに家。
農道をスピードを落として走る。
まったく記憶にない。
小学生まで居たら、いくらモノ覚えが悪かろうと見覚えぐらいはありそうなのだが。
ゾクッ・・・。
背筋に悪寒が走る。
「な・・」
今、何か感じなかったかと聞こうとして、気のせいだと思うことにした。
チラりと横目で見た仲野は、しっかりと目を閉じているのに、口はだらしなく開いていた。
この野郎・・・。思い切り殴ってやりたい。
「おい。起きろ。」
殴りたいのを我慢して、仲野を揺すり起こす。
「ん・・んあ?ああ。あれ、寝てた?」
涎を袖で拭きながら、ごめんねとさほど悪気なさげに謝る。
「で、どうする?どの辺りかわかるのか?」
二人の目的は、旅行ではなく、あくまでもフィールドワークだ。
「ん。解るよ。あの奥に見える山の上の方だよ。」
前方に見える山を漠然と指さしながら、事も無げに言い放つ。
山登りかよ。
「だから、先に言えって。」
「とりあえず、役場・・・あるかな?見たところ、何もないね。」
「ああ、それにさっきから人に会ってないしな。」
ゾクッ・・・。
まただ。辺りを見渡しても、長閑な田舎風景しかない。
「とりあえず、現場へ行ってみちゃおうか。」
仲野が何もなかったかの言うので、またも悪寒を無視した。
山の麓まで来てみると、やっぱり車では上ることができなそうだった。
ガタガタッガタガタッ。
奇妙な音が聞こえてきた。何だろうと、二人で車から降りて、辺りを窺っていると・・・。
ゴトゴトゴトゴトッ
ガシャーーン!!
地鳴りのようなでかい音と共に、ついさっきまで乗っていた車が見事に大岩に潰されていた。
「・・・・」
後、数秒外に出るのが遅かったら・・・・。
想像してしまって、冷や汗が流れおちる。
「な・・・なんだコレ・・」
仲野も真っ青な顔で潰れた車を震えながら見ていた。
―――生かしちゃおかねぇ。
脳に響くような低い声が耳の直ぐそばでささやかれた。
吃驚して、振り返るが何もない。誰もいない。
「あ・・なん・・なんだあれ・・・」
仲野の視線を追って視線を移動する。
信じられないモノが見えた。
人々が此方に向かって来る。各々の手には、鋤だの鍬だの・・・鉈、斧を持ってる人もいた。
「なんだあれ。」
異常な雰囲気が伝わってくる。
―――生かしちゃおかねぇ。
―――此処に踏み入れたモノは、逃しちゃならねぇ。
「なんかヤバそうだね。」
引きつった、真っ青な顔をした仲野が言う。
「に・・、逃げろ。」
訳が解らなかった。なぜ逃げなければならない?なぜ追われなければならない。
「なんなんだ?あいつら。」
一向に動こうとしない恭一を仲野は無理矢理に引っ張る。
「いいから、兎に角逃げよう。あの雰囲気、ヤバい。」
二人は、体を山の方へ向けると走り出した。
山は、草木の生えるままとなっていて、行く手を阻む。
ガサガサッ。
はぁっ、はぁっ、
「だ、大丈夫か?」
真っ青になった仲野は、今にも倒れそうになっている。
「俺は・・・もう、無理・・・。恭一だけで逃げて・・」
「何を言ってるんだ。あんなのに捕まったら・・・」
想像してしまった。
仲野を抱えるようにして、恭一は歩く。
「こ・・の・ままじゃ、お・・お前まで。」
仲野は、恭一の手を振り払うと、その場に膝をついた。
「だ、大丈夫。隠れるから。きっと、別々の方が、・・見つかりにくい。」
・・・。そうかもしれない。けれど。
この背丈ぐらいある草木に隠れて、大人しくしていたら見つからないだろうか?
けれど、人数が・・数人どころではない、数十人いたのだ。
逡巡していると、カサカサカサカサッと草を掻き分ける音が聞こえる。
と、その瞬間、仲野は伸びてきた腕に攫われていた。
「逃げて!!早く!!」
仲野は、叫ぶ。逃げなければ・・・。
恭一は、体を翻して草木を掻き分ける。
暫く進むと、何かを打つ音、グシャッと潰れる音・・・。
そして、断末魔の叫びが聞こえてきた・・。
※
鬱蒼と生い茂る草木を掻き分け、前へと進んでゆく。
はぁっ、はぁっ、
肩を激しく上下しながら、息を繰り返す。
ガツッ。
巨木の張り出した根に躓いて、泥に塗れる。
後方から、ガサガサと音が聞こえてきた。
疲労と打撲で震える足を叱咤しながら、立ち上がって前へと進む。
逃げなければならない。捕まってしまったら・・・・。
後方の音はそれ程近くではない。
はぁっ、はぁっ、
後方を気にしつつ、草木を掻き分ける。
大きい音を出したくないのだが、立ち止るわけにもいかない。
焦りながら、右手を前方に突き出し草木の間に隙間をつくり、体を捩じ込む。
カスッ
やたらと頼りない手応えに、後方を見ていた視線を前へと戻す。
急に視界が開けた。木々が生い茂る山に突如現れた空間。
山頂付近だろうか、頭頂にできた円形脱毛症のような感じだ。
木々がごっそりと無くなっていて、人工的に芝生を植えたような草原になっていた。
一瞬、状況を忘れて立ち竦んでしまった。
パキッ
直ぐ背後から枝を折る音が聞こえ、肩が反射的にビクッと上がる。
肩に力が入ったままの状態で、ゆっくりと振り向くと、其処には―――。
「え・・・。お、お前・・な・・んで・・」
月の光を浴びて、暗闇に浮かんだその貌は、仲野のものだった。
「遅かったね。恭一。待ちくたびれちゃったよ。」
本当に待ちくたびれたのか、子供のように拗ねた様子を見せる。
しかし、直ぐに笑顔に取って代わった。
―――否。口元だけを歪めていた。
ふと、昔の記憶が脳裏を過ぎった。まだランドセルを背負った頃の・・・。
そして、再び口元だけを歪めた仲野を見る。
「懐かしいよなぁ。この場所。あ、でも社なくなっちゃった。」
歪んだ口元から、さほど懐かしくもなさそうに言葉を吐き出す。
十数年前までは、此処に小さな社があった。山奥の忘れられた神社。
ある事件から放置され、とうとう取り壊されて何も無くなった。
「ま、まさか。・・アイツは、神社で・・」
膝がガクガクと震え、立っていることさえ儘ならない。
「あ、思い出した?つうか、覚えててくれた?」
「そんな訳は・・ない。間違いなく、アイツは・・。」
手に厭な感覚が甦る。肉を打つ感覚。流れたての温かな血。
嫌いだったアイツの変わり果てた姿。
十数年前、まだ此処に社があった頃・・・。
何もかも、全てを持っていたアイツが嫌いだった。
単なる醜い嫉妬なのだけれども、子供には解らなかった。
ちょっとだけ痛い目に合わせてやろうと思った。
本当にちょっとだけのつもりだった。
・・・止まらなかった。止められなかった。
自分の手が違う誰かのモノのように、止めたいのに・・・。
泣きながら、狂った。
怖かった。殴られているのに、笑っていた。アイツの口元は歪んでいた。
今にも大声で笑いそうに見えた。
だから何度も殴った。血が飛び散り、誰なのかも判別できない位にグチャグチャになっていた。
そして、逃げた。グチャグチャになったモノが何なのか解らなくなった。
「痛かったなぁ。痛すぎて、声も出なかったよ。」
あの肉塊は、生きていたのか?あの状態で?
生きているか死んでいるかは、確かめていない。逃げたから。
しかし、目の前にいるのは・・・。
「なんでもいいじゃん。」
相変わらずに、ふざけた口調で言う。
「いつでも良かったんだけど、大人になってからのが怖いかな?って思って。」
人語にはならなかった。自分でもなんと叫んでいるか解らなかった。
兎に角、暴れた。怖かった。
子供のころに感じた恐怖。
それが相乗効果となって、否応なく襲いかかってきた。
怖い。怖い。怖い。
思考のすべて停止し、只管に恐怖で埋め尽くされている。
暴れる。
肉を打つ感覚。
飛び散る血の温度・・温かい。
鼻の骨のひしゃげる音。
夜の黯。
血の緋。
※
下限の月の幽かに、やわらかな光に照らされる。
生気のない、青白い貌。
その眸には、一切、何も映ってはいない。
白かったシャツは、緋と黯で彩られていた。




