【離婚を告げられるまで】
一人、不機嫌そうにバゲットをむしっている少女がいた。
彼女がいるのは、ゴルドナク地方の大国、ラフス王国の王宮の広間である。
無数の蝋燭が林立するシャンデリア。その明かりが降り注ぐ、真っ白な大理石の床。その上を、赤・青・黄・紫の艶やかなドレスや礼服を身に纏った三百の男女が、高名な楽団の演奏を伴いながら優雅に踊っている。
地味という言葉が意識的に排除され、華麗という言葉が徹底的に押し出されている。同世代の女性であれば誰しもが一度は憧れ、数年後にはかつて見た夢と忘れる幻想空間がここにあった。
そのようなところにいるのに、なぜ不機嫌なのか?
その主な理由は、知っているからであった。
この華やかな舞台が、民衆の骨と肉で築かれているということを。自分も着ている優美な衣装が、血と汗と涙によって染められているということを。
そのため、他の者と楽しく踊る気にもなれず、会場の隅に一人陣取って、ひたすらに閉会の時を待ち続けているのだ。
開会の挨拶が終わって以降、彼女がしたことといえば、気だるげに俯き、美味くもないバゲットをむしって口に放り込むか、意識的に醸し出している険呑な雰囲気をものともしない勇者の誘いを、にべもなく断るぐらいであった。
本来であれば、彼女の夫が主催者であるため、夫婦一緒に参加客からの挨拶や世辞などを受けなければいけないのだが、体調の不良という建前をもって、その責務は放棄していた。
彼女の名前はロージエラ・ハンフリードという。結婚式にも着ていけそうな純白のドレスに身を包み、薔薇の花びらのように赤いストレートの長髪と、瑞々しい茎のような翡翠色の瞳を持ったこの少女は、ハンフリード家の一人娘であり、昨年に父親が亡くなってからは当主となっていた。
そんな無愛想な壁の花に、若い貴族の男が、愛想のいい笑顔を向けてダンスの誘いにやってきた。
「私と踊っていただけませんか? 王妃殿下」
話しかけられて無視するわけにもいかないため、ロージエラは顔をまるで重労働かのようにゆっくりと上げた。白い肌、通った鼻筋、形の整った唇、気の強さを感じさせるやや太い眉に、切れ長の目、と彼女はまだ少女と呼べる年齢ながらも、既に大人的な美人の条件を幾つもクリアしていた。
一つ、惜しまれる点として、薄いそばかすがついていることが上げられる。だがそれは、成長過程によって自然発生したものではなかった。幼き日から繰り返してきたマスケット銃の射撃訓練によってついた火傷の跡であった。周囲の制止を聞かずに続けたため、『つけた』という表現もできるだろう。
ロージエラは、一瞥をくれてやった以外、意図的に返事を返さなかった。黒髪と若いという以外特に特徴のない男に、声帯を震わすことすら勿体なく感じたからである。
『どうせ、肝試しで声を掛けただけだろ』そんな心の声を視線に込めて撃ち込むだけでほとんどの者が踵を返し、そうでない者も長い沈黙に耐えかねてその場を辞するからであった。
この若い貴族の男の場合は後者であった。彼女の失礼な態度に対する怒りによってやや笑顔がぎこちなくなりながらも、失礼に失礼で返すことはせず、そつなく辞していった。
ロージエラは我ながら子供っぽいと心の中で苦笑しながらも、反省はしなかった。それどころか、『そもそも十八歳はまだ子供といえる年齢であるから、この態度は仕方ないではないか!』と開き直りさえした。
それに……、と彼女は翡翠の瞳を、去っていった男に向ける。
その視線の先に、さっきの男と、彼と同年代らしい男女が数人固まっているのが見えた。気持ちの悪いことに、彼らはニタニタと笑いながら、チラチラこちらを見てきている。
その光景を形の良い鼻で一笑に付すと、ロージエラはまたバゲットをむしり始めた。
ロージエラは、あの輪にいる男たち全員に見覚えがあった。彼らは皆、舞踏会が開かれる度に声を掛けてくる者たちであった。自分たちの中で誰がダンスに誘えるか賭けに興じているのだろう。彼らの年齢は二十代前半といったところではあるが、精神性は十八の少女と変わりないらしかった。
このような扱いは今に始まったことではない。最初期の頃は、新顔の田舎貴族をからかおうとする貴族社会特有の陰気な戯れによってもたらされたため、被害者だといえたが、最近は彼女の不遜な態度によって引き起こされた仕返しが多いため、どっちもどっちといえるようになっている。
ロージエラは、この孤立をむしろ好ましいとさえ思っていた。
また手持ち無沙汰になったロージエラの頭に、ふと疑問が浮かんできた。
彼ら、いや、この広間の中に、この国の実情を少しでも知っている者はどれほどいるのだろうか?
間髪入れずに答えが出てきた。
いない。知っていれば、無邪気に踊ったりできないだろう。
そのすぐ後、別の可能性も浮かんできた。
いや、もしかしたら、知っているがそれがどういうことなのか理解できないだけなのかもしれない。
そう思うと、新たな疑問が産まれてきた。
なぜ、理解できないのだろうか? 彼ら彼女らは、曲がりなりにも貴族──しかも、王宮に招待されるような高貴な家柄──である。間違いなく平民よりも高い教養を身に着けているはずなのに……。
人というのは、思考に脳のリソースを割いていると、無意識に普段の行いが出てしまう。ロージエラも例外ではなかった。口の寂しさを紛らわせるバゲットが手から無くなっていることに気づくと、視線を動かすことなく、左手を伸ばし、手探りで無くなったバゲットの補給を始めた。
薬指に純金の結婚指輪がはめられた左手は、一定の速度で前進を続け、やがて、壁にぶつかったことを触覚を通じて行儀の悪い主に伝えた。
こんなところに壁なんてあったかしら?
そう思いながら二、三まさぐってようやく我に返った。そもそも、自分の今いるところは自室ではなく、左手を伸ばした位置にサイドテーブルがあるわけではない、と。
それに気づくと、また新たな疑問が産まれた。
こんなところに壁なんてなかったわよね?
ロージエラはその疑問を解消するため、左手方向を見た。するとそこに、迷惑そうに彼女を見下ろす老貴族がいた。
「あ、ごめんなさい」
伸びた手は腰の辺りにあった。それが股間であったかどうかは確認できていない。なぜなら、彼女は弁解をすぐに求められたからである。老貴族ではなく、現場を目撃していた夫に。
「ローゼ! お前、何をしている!?」
ロージエラを愛称で呼ぶその男は、彼女の夫であり、ラフスの頂点に君臨する国王レーク十六世であった。高く、細身の体。透けるような白に近い金髪。薄い水色の瞳に血走った白目。貴族女性の間では評判の色白の中性的な顔は、怒りで真っ赤になっている。
レークの後ろには、例の賭けに興じていた男女が、さっきと同じ薄汚い笑みを浮かべて控えている。おそらく、彼らが真っ先に告げ口したのだろう。
ロージエラはレークの剣幕に気圧されることなく、ゆっくりと椅子から立ち上がった。立ち上がると、ヒールを履いているとはいえ頭の高さが男性の平均を超す。
「何と申されましても。ただの誤解です、陛下」
ただならぬ様子を感じて、楽団が演奏を止めたのか、会場は静まり返っている。そのせいで周囲の者たちが耳打ちし合っているのがよくわかった。
三百を倍にした視線の集中砲火を浴びながら、ロージエラは誤解を解こうと冷静に弁明を始めた。だが、怒鳴り声に委縮するでもなく、悪びれるでもない平然としたその姿は、怒りに燃えた者にとって腹ただしく思えた。
「誤解だと!? 私は見たぞ! 娼婦が客を誘うように男のまたぐらをさするお前の姿を!」
それを言うなら、自分は一回しかも事故によってであるが、そちらは似たような行為を故意に、しかもこの舞踏会に限っても何度も行っていたではないか。
そう言いたいのをこらえて、ロージエラは粛々と弁明を続けようとした。
「ですから……無意識の内に――」
「――無意識だと!?」
レークは大きく鼻で笑った。その後、歪んだ笑顔で、自虐とも皮肉とも取れるような情けないことを、大勢の前で話し始めた。
「お前が無意識にこのようなことをするほど淫らだとは知らなかったぞ! なんせ、初夜以外寝床を共にすることが無かったからな! だいたい――」
人前でこのようなことをさらけ出してしまえば、三日で王都中に、一週間で国中に広まる。それが分からないほどレークは愚かではない。逆に言えば、それほど取り乱していると言えた。もっとも、それは仕方のないことであろう。彼からしてみれば、ほとんど交わりのない妻が、自分のいる目の前で不貞行為の誘いを仕掛けているように見え、しかもその相手が、オスとしての機能を二十年前に置いてきた老人なのだ。無関係の人間からしてみれば滑稽味を感じる光景だが、旦那からしてみれば、自身への当てこすりと充分にとれた。地位と同じぐらい気位も高いレークにとって、それは絶対に我慢のならないことであった。
ロージエラは、冷静さのひとかけらまでも怒りの炎にくべてしまった夫に対して、どのようにすれば話を聞いてもらえるのか迷った。
自分も同じ様に同じように燃え上がれば対話になるのだろうか。もしかしたら、泣き出せば相手も落ち着くかもしれない。人前でなければ簡単に黙らせることができるのに……。
「――どうした!? さっきから黙りこんで! 何か言ったらどうなんだ!」
さっきから自分ばかりが一方的に怒鳴っていることに気づいたレークは、発言を促した。無論、さっき自分が彼女の言葉を妨げたことには気づいていない。
ロージエラはこの『何か』が弁明ではなく、謝罪であることを察した。たしかに、謝罪すればこの場は収まるだろう。だが、それをしてしまえば、自分が不貞行為をしていたのを認めることになってしまう。自身の名誉のためにも、父から受け継いだハンフリードの家名を汚さないためにも、それは絶対できなかった。
「事故です、陛下。手を伸ばした先にあの方が偶然おられただけです……」
そう言ってロージエラは左手方向を見た。触られた本人に証人になってもらおうと。しかし、そこには既に誰もいなかった。唯一の証人はこの騒動に巻き込まれまいと、大勢の野次馬の中に紛れ込んでしまったようだった。
しおらしい謝罪どころか、証拠の無い自己弁護を再開したロージエラに対して、レークの怒りは最高潮に達した。
「もうよい! 見え透いた嘘をつくな! もっと早くこうすればよかったのだ……!」
そう言うなり、左手の薬指に嵌められた指輪を抜き取ると、床に叩きつけた。二、三回甲高い音を立てて、永遠の愛を意味する純金の真円は、どこかへと転がり去ってしまった。もう二度と持ち主の元に帰ることは無いだろう。
「さっさと田舎に帰れ! ハンフリード伯爵夫人!」
愛称でなく、爵位と家名をもって告げられたそれは、事実上の離婚宣告であった。
ロージエラは一際大きくなったざわめきの中を、無言で進んだ。その方向は出口とは反対方向であった。
何をするのかという好奇心と不審が混ぜ込まれた視線の中、バゲットを一つ手に取ると、折り返して、出口へと向かった。
大きな扉の前に立つと、一言忠告なり皮肉なりを言ってやろうかという思いが湧きおこってきたため、息を大きく吸ったが、どうせ意味のないことだと思いとどまり、そのまま吐いた。
扉が開かれた。
三歩、歩く。
背後から聞こえてきた扉の閉まる音によって、ロージエラは自分が独身に戻ったのだと実感した。
独身に戻った彼女の胸中に、『悲しい』や『寂しい』などの未練がましい感情はなかった。九割九分が解放感で満たされ、残りの一分の後ろめたい気持ちは、
「……お父様に申し訳ないわ」
といったものだった。
もとより、父が苦労して実現させた政略的な結婚である。その父の苦労を思えばこそ、離婚したことに対して申し訳なさはある。だが、その申し訳なさも、謝罪したことと、自分のすることを何でも肯定してくれた生前の父の姿を思いだしたことによってなくなり、ロージエラの胸中は完全に解放感で満たされた。
ロージエラは高揚した気分のままにバゲットをかじると、軽快で規則正しい歩調をもって自室に戻っていった。
王妃から伯爵夫人へと戻った彼女がやるべきことは、多い。まず、王宮内にある自室から退去をしなければならなかった。




